扉 051

振り上げた短剣の長さは、もう後がないことを意味している。
アージェは目と同じ高さに掲げたそれを、瞬間じっと見つめた。いつかの夜の森でのことが鮮やかに甦る。
―――― もし、今ここで全ての「黒」を昇華してしまえたら。
その時彼は、故郷の村へ帰れるのかもしれない。再びただの少年に戻って。

だがそれは、詮無き妄想だ。これがなくなれば彼らは皆この部屋で死ぬしかない。
アージェは意を決すると後ろを向く。
祭壇の上に鎮座する発条仕掛け。その中央に立つ細い柱を睨んだ。背後から驚いたような声が聞こえる。
「まさか、継承者よ」
「そのまさかだ」
この短剣でディスヴィウェルドを倒すことは、もはや至難の技である。
だから彼は、別のものを貫く。神代から残る、神具の、その中央を。
振り下ろした短剣。黒い切っ先は、まるで薪にするように仕掛けの支柱を真っ二つにした。
そしてそのまま何の抵抗もなく台座に突き刺さる。
音はしない。ただ痺れるような手応えが、アージェの左手に伝わった。
短剣の刺さった場所から放射状に大きなヒビが入る。揺れる鎖。次の瞬間、全ての発条が割れた台座へと落下した。
部屋中に響き渡る澄んだ音。
二十近い発条が落下した音は、まるで天上の音楽に似て整然としているようにも聞こえる。
だがそれは錯覚なのだろう。跳ね返る小さな発条の動きが、やけにゆっくりと見えたのも錯覚だ。
そして全ての発条は祭壇の上に散らばって止まる。
アージェは自らが壊した神具をじっと見つめた。
取り返しのつかない光景―――― そこに何故か、子供の頃の記憶が重なって見える。
母親が大事にしていた絵皿を、こっそり手に取って割ってしまった、あの時の呆然とした気分と同じだ。
思い出の中、立ち尽くす息子に気付いたテフィは、部屋に入ってくると割れた皿に気付く。
だが彼女は彼の肩に手を置いて言ったのだ。
『大丈夫よ』
(だいじょうぶ、アージェ)
二重写しの映像。二重に聞こえる声。
少年は何も言わず―――― ただあの日のように頷いた。



壊れた神具。それが何を意味するのか、アージェは判断がつかないまでも振り返った。
部屋の中央に立つディスヴィウェルドを見つめる。
かつては王であったという人型に表情は見えない。ただ拭えぬ驚愕とそれを上回る何かが、そこには浮かんでいるようだった。
戦うことをやめた守護は、手の中から白い剣を消す。
「それがお前の判断か。クレメンシェトラの騎士よ」
「神具が欲しかったわけじゃないんだ」
「……お前にとってはそれが正しい選択なのだろう。若き継承者よ。
 呪われし継承者にはそれ以外何も継がれることがない。……お前もやはり、神を拒むのだ」
ディスヴィウェルドは疲れ果てているようにも、また解放を受け入れているようにも見えた。
白い体の輪郭が徐々にぼやけ始める。現れた時と同様、彼の体は元の白煙へと戻り、そのまま薄れて消えていくようだった。
アージェは、呆気なく消え去ろうとする人型に向かって叫ぶ。
「待てよ! 呪われてるって何だ!」
自分の知らないことを知っているのだろう存在。そこから何か一つでも掴もうと、彼は声を張り上げた。
しかしディスヴィウェルドの拡散は止まる様子もない。
薄れ行く白い人型は、天井を見上げ溜息をついたように見えた。掠れた声がその場に残る。
「真実の扉など、開けぬ方がよいのだ。私も―――― 」
そこで声は途切れた。
王の残滓はこうして、煙となって四散したのである。






「ああああああああああああああ、神具があああああ!!」
涙声での絶叫はカタリナのものだ。
彼女はディスヴィウェルドが消えるなり祭壇に駆け寄ると、ばらばらになってしまった発条を拾い上げる。
本気で落胆しているらしいその姿に、アージェは呆れ顔になった。
「壊せって勧めといて、何がっかりしてんの」
「だってええ。仕方ないけど勿体無い!」
「そりゃそうかもしれないけど」
肩を竦めたアージェはしかし、気を取り直すと苦笑した。
彼女からすると神具は喉から手が出るほど調べてみたいものだったのだろう。
だがカタリナは他を優先して事態を打開する一手を示してくれたのだ。
少年は申し訳なさと感謝の両方を抱いて、祭壇に縋り付いている彼女の肩を叩いた。
「ごめん。ありがとう」
「うう。少年が無事ならいいよ……」
「助かった、坊主」
ダルトンもそう言ってくれたが、むしろ礼を言いたいのはアージェの方である。
彼は、息一つ切らせていない傭兵に、カタリナに言ったのと同じ礼を述べた。
男はアージェの反省の色に気付いてか、笑って彼の頭をわしわしとかき回す。
少年はほっと気が抜けて、きつく握っていた左手を開いた。同時に小刀程になっていた黒い剣も再び手の中に吸い込まれる。
使ってしまった分が減り、手首までが黒く染まった左手を、アージェは目の上にかざして眺めた。
事後処理を促すかのように、ルトが目の前に来て吠える。
「ああ、悪い。お前も戻さないとな」
彼が短い糸を生み出してルトに与えていた分も吸い上げると、肌の変色は手首より少し先で止まった。
アージェは床に落ちていた手袋を拾い上げ、再び嵌めなおす。
その間にカタリナは神具の残骸を袋に詰めており、ダルトンの方は閉ざされた扉に向かっていた。
彼ら全員をこの部屋に閉じ込めていた扉は、内から触るとあっさりと外へ開く。隙間からケグスの声が聞こえた。
「うおっ、何でこっち側に開くんだよ!」
「あ、すまん」
「おやっさん!」
一人外に取り残されていたケグスは、白い光に包まれた部屋を見るなり怪訝な顔になった。
だが彼はすぐに三人を急きたてる。
「早く外出ろ! イクレム軍が来るぞ!」
「ああ、そうだったな。―――― 坊主! お嬢ちゃん!」
「今行く」
「待ってー!」
ばたばたと入り口に駆け寄り、三人は秘された部屋を出る。
扉がケグスの手によって閉ざされる瞬間、アージェは奥の祭壇を振り返った。
そこにはもう何もない。知りたいことも、知らなかったこともない。ただ全てが沈黙しているだけである。
彼はその光景を目に焼きつけ、そして過去の祭壇に背を向けた。






伝わってくる微かな揺れ。
それは実際の振動ではなく、魔力の波紋でもなかった。
城から出ることも叶わず、執務机に向かって目を閉じていたレアリアは、はっと顔を上げる。
今までに部下からもたらされた報告はいずれも、「イクレムが神具を手に入れようとしている」というものだ。
それを踏まえ早急な対策を打とうとしていた彼女は、しかしその対策が不要となったことを知って、息を飲んだ。
「神具を……」
アージェがその結論を出すとは、予想していなかった。
だがよくよく考えれば彼女は、そういう結末にしか至らないことを直感していたようにも思える。
―――― 彼には神具を継ぐことは出来ない。
それは覆すことの出来ない事実で、だから彼にとって結局神具とは、何の意味もないものなのだ。
レアリアは脳裏を巡るさまざまな記憶を飲み込んで、深く息を吐き出した。
安堵と焦燥、そして恋うに似た感傷が、彼女の胸を灼く。
閉ざされた空間と悠久の記憶。
レアリアは内心の波が収まると、部屋の隅に控えていた男を呼んだ。
「もういいわ。ロディに戻ってくるよう伝えなさい」
「よろしいのですか?」
「ええ。彼が全てやってくれたから……」
レアリアは言いながら、何故か顔が赤くなるような気がして、右手で頬を押さえた。
気付かれなければといいと願うが、幸い臣下の男は表情を一切変えることなく一礼する。
そのまま男が踵を返したことでほっとしたレアリアは、だが次の言葉に憮然となってしまった。
扉の前で振り返った彼は、主君である彼女に問う。
「彼は、貴女様の騎士たり得る人間でしたか?」
淡々と事実を確認するが如き言葉。けれど男は、レアリアの表情を見て頭を下げた。それ以上は何も言わず執務室を出て行く。
そうして一人になった彼女は、ふてくされたように机に頬杖をつくと……「彼は友達なのよ」と呟いた。






遺跡の最深部にいる四人は、慌しく右の部屋から左の部屋へと移動した。
床に彫られた転移陣を前に、ケグスは手で三人を追い払うような仕草をする。
「ほら、さっさと行け」
「ケグスは行かないの?」
「俺が外にいたらおかしいだろ。後は適当に誤魔化しとく。早くしろ」
それは確かに頷けることであったので、アージェはルトと共に転移陣へと向かう。
ダルトンが振り返り、ケグスに手を振った。
「すまんな」
「いいさ。おやっさんには世話になってるしな」
「ああ、あとケグス。この部屋の外に出てろ。多分、坊主が外に出たらこの部屋は閉まる」
「ん? 分かった」
継承者が去れば、遺跡は再び眠りに落ちる。
それはダルトンにとって既に理解出来ていることなのだろう。ケグスはさっさと部屋の外に出て行った。
真っ先に転移陣に飛び込んだカタリナの姿が揺らめいて消え去る。
ダルトンはアージェの肩を叩いた。
「ほら、坊主も行け」
「うん」
これでとりあえずは一件落着になるのだろうか。
苦労をした割に、得られたものは少なかった気もする。少年は苦い顔で傭兵の男を見上げた。
「ごめん、親父さん」
「気にするな。胸を張れ」
大きな手が今度はアージェの背を叩く。
その手に押されるようにして、彼は一歩を踏み出した。






遺跡を最深部へと向かっていたイクレム軍は、急に通路の灯りが消えたことに騒然となった。
魔法士たちがすかさず明かりを灯す中、ノーグは周囲を見回す。
「何だ?」
もしかして、扉へたどり着く前に発動が解けてしまったのだろうか。
一番恐れていた事態を予感し、男は蒼ざめた。その時ずっと向こうから人間の呼び声が響いてくる。
「おーい」
何処かやる気のないその声は、はぐれてしまった傭兵の男のものだ。
ノーグは念の為、魔法士たちに警戒を呼びかけながら、ゆらゆらと近づいてくる灯りを見やった。
魔法の灯りを手に持ったケグスは、彼らの前に現れると疲れた溜息をつく。
「助かった。途中変な坂で落ちちまって、戻れなくて困ってた」
「……灯りを消したのはあなたですか?」
「いや? 突然消えて俺も吃驚した。何かの罠か?」
白々しくも聞こえる言葉はしかし、確かに筋は通っている。
ノーグは舌打ちしたいのを堪えて笑顔を作った。
「申し訳ありませんが、わたしたちはもう少しこの遺跡を調べねばならないのです。
 坂ならば縄を張ってありますので、ご自分で戻って頂けますか?」
「ああ。助かる。外で待ってればいいのか?」
「ええ」
近くにいておかしな小細工をされては困ると思って追い払ったのだが、ケグスはあっさりと了承すると、彼らが来た道の方へと消えた。
ノーグはその飄々とした態度を忌まわしく思いつつも、本隊を率いて再び通路を進み始める。

―――― だがその最深部にはやはり、記録と同じ開かない部屋と、「何もない部屋」しかなかったのだ。