灰の剣 052

降って湧いた幸運は、だが少しもありがたいとは思えなかった。
確かにそれは彼女の身分からすると充分過ぎるほどの厚遇ではある。
だがやはり、生きる環境が一変することは怖いのだ。生まれ育った屋敷を離れ、知らない人間ばかりのところへ行くことなど御免である。
勿論彼女ももう十六歳で、それが子供じみた拘りであることは分かっている。
けれど彼女が行く先は、ただの家ではない。策謀の巣とも言われる場所なのだ。
だからこそ尻込みしたくて仕方ない彼女は、しかし父親に叱責され半ば家を追い出されるようにしてその場所へと送り出された。
傍に残されたのはただ一人―――― 二年前より他国から帰ってきた幼馴染だけである。
幼少期と、そして現在を共有する幼馴染に彼女が向けるものは、ぎこちなくも篤い信頼だ。
彼女が出来ぬこともしてくれる器用なその指は、新たな環境で生きる彼女の心の拠り所となっていた。






田舎育ちのアージェにとって、王宮とはすなわち「自分には無縁な場所」である。
一生足を踏み入れることのない世界。ただただ遠い何も知り得ぬ場所。
であるからして、初めて王宮に足を踏み入れた時、というか連行されて監禁された時、彼の王宮への印象は一転して最悪なものとなった。
権力が暴力であることを知り、二度と関わりたくないと結論付けてから数日後、再びイクレム王宮内にいるアージェは苦い顔で椅子に座りなおす。向かいにいるケグスが、同じ形の椅子に尊大な態度で座りながら脚を組みなおした。
「ま、これ終わったらさっさとこの国出てログロキアに行くぞ。義理は果たしたからな」
「義理って言うのかな、これ」
「さぁな。ま、向こうとしちゃ損はしてないから何て言ってもいいだろ」
男は言いながら扉の方を見やる。
今この時間、ダルトンはイクレム王太子のフィレウスと話をしており、アージェたち三人はそれを待っているのだ。
遺跡の件はあまり上手くはなかったが、何とか誤魔化せた。
あとはダルトンの交渉次第だろう。しかし三人は彼の心配は少しもしていなかった。
カタリナは、窓硝子にべったりと額をつけて城の庭を覗き込んでいる。
「広いねー。綺麗だねー。美少女がいるねー」
「ガキか、お前は」
「あ、美少女さんが少年を殴った。痴話喧嘩かな」
「覗き見やめろ。解説するな」
ケグスが何か小さなものを投げてカタリナの後頭部にあてると、彼女はようやく硝子から顔を離した。悪びれぬ顔で二人を振り返る。
「だって暇なんだもん」
「その辺走り回って来い」
「やだよ」
「カタリナはもうちょっと体力つけた方がいいと思う」
アージェにまで言われて、カタリナは肩を竦めた。
自分の席に戻った彼女が足を投げ出して椅子に座ると、アージェはそれを「行儀が悪い」と咎めたい衝動に駆られる。
そういった彼の小言癖は母親亡き後、妹の面倒を見ていた際に自然と身についたものだが、クラリベルにはおおむね煙たがられていた。
カタリナになど言えば、もっと嫌がられるだろう。アージェは言葉を飲み込んで立ち上がる。
「何処行くの、少年?」
「ちょっとその辺回ってくる。じっとしてると疲れそう」
「気をつけろよ」
二人に見送られ部屋を出ると、そこには見張りの兵士が立っていた。アージェが「散歩してきたい」というと、彼は「庭ならいい」と許可してくれる。
前回冤罪で捕らえたことを悪いと思っているのか、或いはダルトンの連れにはあまり厳しくしないよう言いつけられているのか。アージェはどうせ後者だろうと思いながら、近くの階段を下り庭へ出た。よく手入れされた庭園を見回し、作られた小道を歩き始める。
庭には花がなく、刈り込まれた緑だけで構成されていた。
直線ばかりの整然さを持ち、まったく隙のないそこはまるで王太子の性格を象徴しているようで、アージェは呆れと息苦しさを同時に感じる。一体今ダルトンと王太子がどのような話をしているのか、心配はしていないが気になってはいた。
少年は直角に折れ曲がる小道を抜け、建物にそってその裏側へと回る。
途中カタリナが先程張り付いていた窓が下から見えたが、そこにはもう誰も取り付いてはいなかった。
アージェは剣を帯びていない状況を落ち着かなく思いながらも小道を進む。
その道の終わりは唐突なものだった。

「何だこれ」
突如道を塞ぐように置かれている巨石にアージェは目を丸くした。
それまでの整然とした直線とはまったくそぐわないごつごつとした石。
道の横幅を全て塞ぐほどの太さと、少年の身長を二倍したくらいの高さを持つそれは、まるで唐突にそこから先を断ち切っていた。
アージェは石に近づくと、横からその向こうを覗き込む。
だがそこまでの刈り込まれた草木と異なり、見える景色は鬱蒼とした雑木林に続いており、その先がどうなっているのかよく分からなかった。
ただよくよく目を凝らせば林の更に向こうに何か建物があるような気もする。
建物があるのにこのように道を塞いでしまって不便ではないのか、アージェは首を捻った。
その時背後から抑揚の薄い声がかけられる。
「その先は、かつての離宮の残骸が残っているのです」
「離宮?」
彼が振り返るとそこには二人の人間が立っていた。
一人は栗色の髪を持つドレス姿の少女。造作は美しいが生気に乏しい表情をした彼女は、見たところ上流階級の人間であるようである。彼女の後ろには長い髪を編んだ簡素な格好の小間使いが立っていて、訝しむような目でアージェを見ていた。
何故彼女たちが自分を見咎めたのか、少年は不思議に思ったが、城の庭にこのような旅人の服装をした人間がいること自体胡散臭く見えるのだろう。
彼はそれについて数秒で開き直ると聞きなおした。
「離宮の残骸って?」
「二年前、大きな火事がありました。それで離宮が燃え落ちたのです」
「ああ……」
言われてみればカタリナにそんな話を聞いた気もする。確か王太子の弟がその火事で死んだのだったろうか。
アージェは納得すると巨石とその先についての関心を失った。
人の死に絡むことは、なかなか綺麗に整理しづらいものである。おそらく焼け落ちた離宮もそのような理由で封鎖されているのだろう。
彼はあの王太子が感傷的な一面を持っていることに意外さを覚えなくはなかったが、その事実はすんなりと受け入れられた。
アージェは教えてくれた少女に「ありがとう」と返すと脇をすり抜けようとする。
だがそこに、少女の乾いた声がかかった。
「あなたは誰ですか? 何故ここにいるのでしょう」
「あー……ただの旅人、です。ここには保護者の付き添いで来てるだけ」
一応身分の高い人間だろうとあたりをつけて若干丁寧に答えてみたが、説明しても怪しいことこの上ない。
アージェは頭をかきつつ、少女の反応を待った。先程すりぬけようとした隙間は、何故か小間使いがさりげなく塞いでしまっている。
だが彼女はじっとアージェを見てくるだけで、何も返してはこない。
巨石を背に気まずい思いを味わう少年は、あからさまにならないよう少女の姿を観察してみた。
年は彼と同じほどだろう。こういう外見の年齢は性別や身分によってすぐよく分からないものになってしまうが、少なくともレアよりは年下に見える。
血の気の薄い象牙色の肌に、あまり感情や光を感じられない灰色の瞳。顔立ちは綺麗であるのに生気のなさを感じるのはこの辺りが原因のようだ。
何か失礼なことでもしてしまったかとアージェが思った時、少女はそれまでより幾分はっきりとした声で問う。
「もしかして、貴方の保護者とは迅雷ですか?」
その質問に、少年は一瞬で用心する。鋭さを増した目で彼女を睨んだ。
「何で?」
「フィレウス様が、その方をお探しになっていると人伝に聞きました」
「ああ、王太子が……」
ダルトンの存在が知れてまだ数日だというのに、既に城内でも噂になっているのだろうか。
アージェはいささかささくれた気分で溜息をついた。道を塞いでいる小間使いを半眼で見やる。
「確かに俺の保護者はおやじさん……迅雷だよ。だから今彼を待ってる」
「迅雷は、イクレムの騎士となるつもりなのでしょうか」
「騎士?」
あまりにも彼に似合わぬ称号に、アージェは噴き出しそうになった。
しかし彼はすぐに二人の視線に気付いて表情を引き締める。あえてやる気なく首を横に振った。
「そんなの俺は知らないけど。親父さん、あんまりそういう気はないみたいだよ」
「そうなのですか……」
少女は何を思っているのか、小さく息をついて引き下がった。主人のその気配が伝わったのか、小間使いも道を空ける。
彼は元来た道を戻ろうとし、だが一応礼儀として二人に会釈した。
立ち去りかけた背に、抑揚のない少女の声がかかる。
「あなた、お名前は?」
「ん? アージェ。ただのアージェ」
家名がないということはすなわち、平民を意味する。
だからこそ少年はそう念を押したのだが、返って来た言葉は予想外れのものだった。
少女は真面目くさった顔で頷く。
「私の名前はディーノリア・グルイート。またお会いしましょう」
「へ?」
振り返った彼が見たものは、それまでとは異なり意思を感じる少女の目。
アージェはその視線に奇妙な座りの悪さを覚え、中庭を後にしたのだった。



元の部屋にアージェが帰った時、ちょうどそこにはダルトンが戻ってきていた。
王太子と今まで交渉の席についていたのであろう男は、アージェの顔を見て一瞬微妙な表情になる。
しかしそれは本当に些細な変化で、ダルトンはすぐにいつもの笑顔に戻った。
「よし、宿屋に帰るか」
「帰ってもよくなったの?」
「んー、まぁ、とりあえず今日はな」
はっきりとしない答にケグスをはじめとする三人は怪訝な顔になったが、城内では出来ない話もあるのだろう。彼らはそそくさと城を出て帰路につく。 今回は前と違って城からの監視役もいないらしい。実際はいるのかもしれないが、アージェの目には見えなかった。
何事もなく宿屋の建物に辿りつき、部屋へと戻る最中、ダルトンは最後尾の少年を振り返って言う。
「あのな坊主、ちょっとこれから気をつけとけ」
「え?」
「すまん。まだこの国を出られない。王太子は『継承者』の存在を疑ってるようでな」
さりげない忠告。三人はその意味を理解してそれぞれ表情を動かした。
中でも「継承者」本人であるアージェは苦さと不安を漂わせてダルトンを見上げる。
「国を出られないって、それ俺のせい?」
「待て待て。詳しくは部屋に入ってから説明する。とりあえず坊主は城内で会う人間に気をつけるんだ」
「気をつけるって……あ、そういや貴族っぽい女の子と会った」
「貴族?」
「また会いましょうって言われたけど」
ひょっとしてあれも、王太子の思惑と関係があったのだろうか。
首を捻るアージェの耳に、穏やかな少女の声が響いた。
「また会いたいって? どんな娘だったの?」
記憶の中の声ではない現実の声。
凛として聞こえる友人の声に、アージェは目を丸くした。部屋の扉の前に立っているレアを見つけ軽く手を挙げる。
「来てたのか」
「ええ。……それよりその方ってどのような人なの?」
にこやかな微笑を浮かべている彼女に、大人三人が「あーあ」という表情になってしまったのは、目には見えぬ剣呑さのせいだったのかもしれない。
しかし一人だけそれに気付かないアージェは上げた手でこめかみを掻くと「知らない。美人だったけど」と言い、更に周囲の気温を低下させたのである。