灰の剣 053

鏡の中には生気のない自分が映っていた。
諦観を閉じこめた灰色の瞳。ディーノリアは己のこの瞳が好きではない。
幼い頃よく父に「どうしてそう反抗的な目で見るのか」と殴られたことを思い出すのだ。
そうして怒られた彼女が逃げ出す先は、いつも屋敷の庭の隅にある物置小屋だった。
薄暗い粗末な小屋で彼女は声を殺して泣き、日が暮れる前に泣きはらした目で部屋に戻る。
そんなことを繰り返す毎日が嫌にならなかったのは、影のように寄り添ってくれる幼馴染の存在があったからだ。
ディーノリアは鏡の中、自分の髪を梳っていく指を見つめる。
彼女の出来ないことをやってくれる白い指。嘆息が自然、言葉となった。
「テス、迅雷がイクレムについたらどうなるのかしら」
髪を結っていた指が止まる。ディーノリアの背後に立つ小間使いは、一瞬の沈黙の後答えた。
「それはやはり、イクレムの力が一層増すことになるのではないかと」
「そのように力を増してどうするつもりかしら。既にイクレムは充分すぎるほど他国から一目置かれているというのに」
「どのような国でも安心は出来ません。隙を見せれば突き崩される。それが世の常でございますから」
幼馴染の言葉にディーノリアは溜息をつく。
常に戦乱に明け暮れるこの大陸の気風を、彼女は知らないわけではなかったが、それでもこれからのことを思うと楽観でも自分を慰めていたかった。今も焼け焦げたまま放置されている離宮を、ディーノリアは思い出す。
あの中で焼死したフィレウスの弟。彼と同じ運命をやがて彼女も辿るのかもしれない。
少女は軽い頭痛を覚えて俯いた。
「ディーノリア様?」
「……彼が羨ましいわ」
小さな呟きは、テスには聞こえなかったかもしれないが、紛れもなく彼女の本音であった。
中庭で出会った少年が羨ましい。彼のように自由に何処にでも行ってみたかった。
ディーノリアは灰色の目を閉じて唇を噛む。
そんな彼女を労わるように、しなやかな指がまた、栗色の髪を梳いていった。






本当ならば、大人たち三人は早々に別の部屋へと行きたかったに違いない。
だがダルトンが王太子としていた話を説明しなければ、これからの予定も立てられないのだ。
一行はレアが前に立つ扉を開けると中に入った。
部屋を見回したケグスが舌打ちして、尾行や聞き耳を立てる者はいないか確認する間に、アージェはお茶を淹れ始める。彼が用意しないとこの面々ではお茶を淹れる人間がいない。そのことをレア以外の全員が既に承知していた。
ダルトンは椅子に座ると、背もたれに体を預けて大きく伸びをする。
「実はな、あの王太子は俺のことも取り込みたがってるが、それ以上に遺跡が発動状態になったことが気になってるらしい。
 継承者の存在を―――― つまりはそれがお前たちの誰かじゃないかと疑ってるわけだ」
フィレウスが自分を探しているという状況を聞いてアージェは顔を顰めた。
テーブルに適当にカップを置くと、各自がそれを手にとっていく。ケグスはお茶に砂糖を入れながら問うた。
「なるほどな。けどそれって、特定出来るようなものなのか?」
「遺跡にいれてみるしかないと思うよ」
ケグスの疑問にカタリナは端的に答える。
彼女は何も入れていないお茶を飲みながらアージェを見やった。
「継承者って存在自体が眉唾と思われてるからさ。確かめる方法なんてみんな知らないと思う。
 強いて言うならこないだみたいに神具のある遺跡にいれてみるか、神具そのものに接触させるかじゃないかな」
「じゃあまたあそこに連れて行かれるってわけか?」
「その可能性は低いと思う。だってあそこにもう神具はないわけだし。多分発動しないよ。
 イクレムにああいう遺跡がまだあるってなら危ないけど、あの手の遺跡は国に一つあるかないかじゃないかな」
「つまり、疑わしくとも確かめられないってことか」
「そういうこと。ケレスメンティアにでも鑑定を頼めば分かるのかもしれないけど」
アージェの隣に座っていたレアがぴくりと肩を動かす。
しかしそれに気付いた者は少年だけで、彼はそこに何の疑問も抱かなかった。
ケグスは面倒くさげな表情で吐き捨てる。
「じゃあ結局向こうにも決め手はないってことか」
「だろうな。だから可能なら坊主本人に白状させたいって思うだろう」
全員からの視線を浴びて、アージェは居心地悪く肩を竦めた。
「でも俺を取り込んでもどうにもならないと思うんだけど。継承者が欲しいって、要は神具が欲しいんだろ?」
「おそらくな」
―――― だがそういった点では、アージェは役に立たない。彼は神具を継承出来ない継承者なのだ。
どういう理由でそうなっているのかは知らないが、ディスヴィウェルドの言葉を信じるならそうなのだろう。
そのことを知っている大人三人はそれぞれ思案顔になった。ケグスが半分ほど飲み干したお茶のカップをテーブルに戻す。
「じゃあこの部屋を調べられたのも神具を探してってことか」
「まぁそうだろう」
「調べられた!?」
頷いたダルトンとは別に、カタリナは素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。ケグスがそこに冷ややかな声をかける。
「部屋見りゃ分かんだろ。俺たちが城に行ってる間に持ち物を調べたんだ。
 だからやばいものは預けとけって言っておいただろうに」
「うっひゃあ……調査結果暗号化しておいてよかったあ」
気が抜けたように座り込む女をアージェは申し訳なげに見やった。
勿論彼も荷物を調べられていい気分はしないが、不審なものは元々持っていない。そこから何かを突き止められるということもないだろう。彼は頭の後ろで両手を組むと、レアの視線に気付いてその手を解いた。
「ごめん、訳分からない話ばっかで」
「ううん。それより大丈夫?」
「多分平気。……レアは? こないだは変なことに巻き込んじゃったけど」
前に会った時は、おかしな事件に関わってそのまま別れたきりだったのだ。無事に帰ったとは聞いていたが、やはり心配は心配だった。レアは美しい顔を綻ばせて首を横に振る。
「大丈夫。何もなかったから」
「そっか。ごめん」
簡単な詫びの言葉を口にすると、少女は嬉しそうに笑った。その笑顔にほっとしてアージェは前を向きなおす。隣のケグスから肘で小突かれた。
「いちゃつきたいなら余所行け」
「……別にそんなことしてない」
「あ、そうだ。その前に声かけてきた貴族娘についても教えていけ」
「うん?」
笑顔のレアが、その笑顔のまま纏う雰囲気を変える。ケグスはそれをアージェの肩越しに見やったが、あえて彼女に焦点を合わせなかった。
アージェは「ああ」と、すっかり忘れていたかのような声を上げる。
「そっか。あの人のことか。名前は……何だっけかな。―――― ディーノリア、って言ってた気がする」
「家名は?」
間髪いれずレアの声がかかった。
貴族であるからには個人名よりもそちらの方が大事なのだろう。不穏な空気に気付かぬアージェは首を捻る。
「何だっけかな……確かに聞いたんだけど」
「名前の方は覚えているのに?」
「さすがにそっちも忘れてたら不味いだろ。あー……レアよりは短かったよ」
アージェがそこで記憶の掘り起こしを放棄すると、レアは滑らかな頬を膨らませた。彼はその頬を突いてみたい衝動に駆られたが、そ知らぬ顔でお茶に口をつける。
一方少女は頬を膨らませたまま腕組みした。
「ディーノリア……ディーノリアね……何歳ぐらいの人だった?」
「俺と同じかちょっと年上に見えたな。レアよりは年下」
「じゃあ十六、七歳かしら。それで城にいて貴族…………ああ、もしかしてディーノリア・グルイート?」
「そんな感じだったかも」
断言は出来ないが、確かにそのような家名だった気もする。
アージェは何度かその名を復唱すると頷いた。
「多分あってる。レアの知り合い?」
「違う。けど情報は入ってきてるから。その人多分、王太子の妻になる為に城に入っている娘だと思う」
「あの王太子のか!」
ケグスが思わず叫ぶとレアは頷く。
「イクレムの大貴族の娘だったと記憶してます。前に王太子妃の候補と思われていた人が離宮の火事で亡くなったから……。
 次の候補として宮廷入りした人がその娘って聞いたことがある」
少女の話を聞きながらアージェは頭の中で問題の二人を横に並べ―――― 何だか無彩色な印象を覚えた。
どちらも笑っている顔を見たことがないからかもしれない。だが王族の婚姻など、元より甘いものではないのだろう。
ケグスが矛先をアージェへと向ける。
「で、何でそんな娘がお前に付きまとい予告してるんだ?」
「俺にっていうか……多分、親父さんが気になってるんだと思うけど。『迅雷』について聞かれたし」
「ふーん。じゃあ、そいつから王太子に探りが入れられるかもな」
放り投げるような男の言葉に、再びアージェへと四人の視線が集中する。
それが何を意味しているのか。大人たち三人を見回し、最後に笑顔のレアで視線を止めたアージェは
「……俺、そういうの苦手なんだけど」
と心からの呟きを洩らした。



結局ダルトンが帰されたのは一時的なことで、翌日も全員が城に行かなければならないという。
次はアージェ自身もフィレウスに会わなければならないらしく、少年は緊張と煩わしさに苦い顔になった。
大人たちが去り二人だけになった部屋で、レアは小首を傾げる。
「無視してこの国を出るのは駄目なの?」
「んー、難しいだろうなあ。親父さんたちに迷惑かけるだろうし」
実際問題、城都を出るにも監視の目を眩ますのは難しいだろう。
窓辺に腰掛けたアージェは手袋を嵌めた左手を見やった。指の隙間から椅子に座るレアが見える。
淡い金色の髪。青紫の瞳はまるで造り物のように美しかった。
長い睫毛とそれが作る影につい見惚れていた少年は、レアが大きくまばたきをしたことにより我に返る。いささかの決まり悪さを覚えながら座りなおした。
一方少女の方は彼のそのような動揺に気づかなかったようで、鈴を振るような声で彼を呼ぶ。
「アージェ」
「何?」
いささかそっけなく聞き返すと、レアは躊躇いがちな表情を見せる。
そういう顔をしているとまるで年下のように幼く見える彼女を、アージェは扱い方が分からない生き物のように眺めた。
レアは何かを言い出しかけて、しかしそれを飲み込むと、結局ほろ苦い微笑を浮かべる。
「あのね……困ったことあったら、いつでも言って」
「平気だよ」
「うん」
大した意味もなく強く返した声に、レアは少しだけ項垂れる。
アージェはそのような様子にまたどうすればいいのか分からなくなって、胸に棘に似た何かを覚えた。