灰の剣 054

イクレムは、大国の中でも五指に入る強国であり、他と比べて長い歴史を持った国である。
その始まりは現在の隣国であるログロキアの一領土であり、当時の領主は鋭い才覚を以ってして、たった三年で本国の力を削ぎ取り独立を果たしてしまった。
そうして一国となって以来、彼の後継者である王たちは皆異様なほどの慧眼を見せており、イクレムは賢王の国としても知られている。
今の王太子であるフィレウスもまた多分に洩れず優秀で知られており、二年前には離宮の火災や隣国セーロンとの衝突などの困難に見舞われたが、イクレムは彼の巧みな采配によって何とかそれらの波を乗り切っていた。

「もっともその火事で弟さんが死んじゃったから、今ケレスメンティアとはちょーっと微妙な関係らしいんだけどね」
「ああ。女皇の夫になる予定だったんだっけ? その人」
「そそ。それが不審死だからね。関係悪化とまではいかなくても冷えちゃったみたいよ。
 その分衝突しかけたセーロンとは今は仲いいみたい。あ、でもログロキアの向こうにあるコダリスとは仲悪いなぁ」
「ごめん、よく分からなくなってきた」
イクレム城の一室にて、王太子の予定が空くまでの間待たされているアージェは、カタリナからイクレムについての豆知識を講義されていた。
ぽんぽんと国名を出されて混乱しかけていた彼に、カタリナは持っていた紙とペンを出して地図を書こうとする。
「イクレムの西がログロキアでしょ? で、さらにその西がコダリス。
 で、ログロキアとコダリスの北にあるのがセーロン」
「アージェ、そいつの地図ド下手だから気をつけろよ。位置関係は合ってるが、形が全く違う」
「…………」
これは真剣に聞いていていいものなのだろうか。
アージェはカタリナの持つペン先が紙の上をのたくっているのを一瞥し、天井を仰いだ。
昨日とは違う部屋。室内にはケグスはいるがダルトンの姿はない。騎士の一人に連れられ、訓練場の見学に行かされているのだ。ルトは昨日と同じく、城を辞するまでと外の衛兵が預かっている。
手持ち無沙汰な少年は散歩に行きたくなったが、フィレウスを待っている以上今度は許可されないだろう。
アージェは組んでいた足を解いて体を起こした。立ち上がり伸びをしようとしたところで部屋の扉が開かれる。
「王太子殿下がお呼びだ。三人とも来い」
「へいへい」
敬いの欠片も感じられないケグスの返事に、現れた衛兵は顔を顰めたが、あえてうるさく言う気もないのだろう。三人は彼の先導を受けてフィレウスの執務室へと向かった。アージェは、きょろきょろと落ち着かないカタリナに注意を払いながら内心胸を撫で下ろす。
―――― 正直なところ、一人ずつ呼び出されたらどうしようかと思っていたのだ。
アージェは嘘をついたり誤魔化したりの腹芸が得意ではない。ましてや相手が切れ者の王太子となれば、僅かな動揺もすぐに見破られてしまうだろう。
彼は一体何を聞かれるのかと考えながら、いつかも訪れた執務室の前に立った。入室を許可され、中へと足を踏み入れる。
そこには王太子の他に、初めて見る男が待っていた。

ぱっと見てその青年に明るい印象を抱いたのは、くすんだ金髪と明るい緑の瞳のせいだったのかもしれない。
ケグスと同年代に見える彼はおそらく貴族か、それなりの地位を持っている人間なのだろう。彼はフィレウスの前であるというのに、執務室にある椅子の一つに足を投げ出して座っており、実にくつろいだ空気を醸しだしていた。
青年は入ってきた三人を見ると、整った顔立ちに快活な笑顔を乗せる。
「お前たちか」
彼は立ち上がるとじろじろとアージェたちを検分したが、少年はそれにどのような反応を返していいのか分からなかった。
まだフィレウスに挨拶さえしていないのだ。アージェが執務机の方を窺うと、だが王太子はそのことを気にしている風もなく彼らを眺め渡している。フィレウスはアージェと目が合うと、青年を視線で示して紹介した。
「セーロンの王子の一人だ。―――― アリスティド、名乗れ」
「これは失礼した。アリスティド・セルグ・ノイ・セーロンだ」
「……はじめまして」
突然王子だと言われてもどういう反応を取ればいいのか分からない。
アージェはいささか煮え切らない挨拶を返しながら、つい先程の記憶を探った。確かカタリナがいくつかあげた近隣国の中に同じ国の名があったはずである。
少年が記憶を探る間に二人の大人も淡白な挨拶を返した。
不敬にならない程度に自分の名を名乗ってアリスティドに対する彼ら。そのうちのケグスが不機嫌そうにしているのはいつものことであるが、気のせいかカタリナが幾分緊張しているようだった。
アージェは少し不思議に思いながらも沈黙を保つ。
―――― 彼女の緊張の原因が分かったのは、その直後のことだった。
フィレウスはアリスティドを指して補足する。
「この男も、いわゆる『継承者』の血筋ではないかと言われている。
 どうだ? 継承者同士、話でもしてみたらいいだろう」
一瞬、背筋に悪寒が走ったのは、アージェ自身の緊張の為であろう。
左手は微塵も動かなかった。「彼女」も何も言わない。アージェはアリスティドの緑の瞳を見返す。
―――― 継承者とは、はたして同じ継承者を見抜くことが出来るのだろうか。
もし見抜かれたらどうすればいいのか。
そんな不安がよぎった直後、だがアリスティドはあっさり破顔した。彼は執務机のフィレウスを振り返る。
「すまん。やはりよく分からないぞ」
「そうか」
それだけのやり取りに、アージェは体が軽くなるほど安堵した。
一方アリスティドは機嫌の悪そうなケグスをじろじろと見やる。
「よく鍛えているようだ。手合わせをしてみたいな」
「……金にならない仕事は御免だ」
傭兵の男は忌々しげな声音を繕おうともせずに返すと、若干蒼ざめたままのアージェの頭を軽く手で小突いた。



継承者とは、神より下された命を継ぐ者たち。
半ば絵空事とさえ言われる、神代からの血脈の持ち主。
かつてディテル神より使命を授かったという人間たちの子孫が実在し、何らかの力を持っているなどと、アージェ自身もあの遺跡での体験がなければ信じなかっただろう。
執務机の前に立つ三人に向かって、フィレウスは淡々とした弁舌を弄していく。
それは継承者に関する話ではなく、直前にカタリナが語っていたことと同じ、近隣諸国の情勢についてであった。
「……そういうわけで、この通り我が国は隣国セーロンとはおおむね友好な関係を築いている。今現在はな」
アリスティドを横目で見ながらの言葉は、何かしらの含みがあるようである。
しかし言われた当の青年の方は、まったくその含みに気付いていないようだ。腕組みをしてこくこくと頷いている。
何だか噛み合わない二人を前にして、アージェはどういう反応をすればいいのか分からなかった。素直に黙って話の続きを待つ。
「だがしかし、この大陸には友好関係を重んじる国ばかりではないということが、残念ながら現実だ。
 隣の小国ログロキアなどはともかく―――― その向こうのコダリスは特に、隙あらば周辺国を侵略する機会を窺っている」
「それで、そんな分かりきった話を聞く為に俺たちは呼び出されたのか?」
ケグスの斜に構えた態度に少年はひやりとしなくもなかったが、フィレウスは皮肉に動じることもなく笑いもしなかった。
今年二十八歳となる王太子。彼は冷ややかな印象を与える双眸を細めて、アージェを見やる。
「分かりきったことでも断っておかなければならない。我が国にはこれからの為に力が必要なのだ」
「これから? 神具と継承者を差しだしてケレスメンティアの機嫌でも取るつもりか?」
男の揶揄は、隣でカタリナが小さく「うわっ」と呟いたくらい辛辣なものだった。
アージェは焼け落ちた離宮が残されたままであることを思い出し、さすがにフィレウスが怒り出すのではないかと様子を窺う。
しかし少年の予想に反して王太子は小さく息を吐いただけで、激昂するようなことはなかった。
代わりにアリスティドが立ち上がり、義憤に駆られた表情でケグスに向かう。
「そのような言い方はよくないぞ! 大体我々はケレスメンティアに―――― 」
「アリスティド」
フィレウスの抑えた声に、アリスティドは口を噤んだ。
隣国の王子同士の彼らはもしかして友人同士でもあるのかもしれない。そう思わせる雰囲気を前に、アージェはフィレウスを見返す。
―――― これはおそらく気のせいではないだろう。
この王太子は、先程からアージェを見ている。彼に向かって語りかけているのだ。
少年は緊張に表情を険しくさせた。フィレウスはアージェから視線を外すと手元の書類に目を落とす。
「……先日調査した遺跡において、かつて二十二名の行方不明者が出たことがある。
 彼らがどこで消息を断ったのかは記録されていないが、その時の遺跡は『発動状態』にあったのではないかと推察される。
 ―――― いなくなった者たちの中には、古き国の王家の血を継ぐと自称する者がいたらしい」
「それが継承者だったと?」
「という仮説も立てられている。少し前までは馬鹿馬鹿しいと正式な記録に残されてもいなかった意見ではあるが」
「妄言だろ。御伽噺にしか聞こえないね」
「だが万が一事実だとしたら。見過ごせることではない」
―――― 神具の存在は、現実だ。
アージェたちはそれを知っている。知ってはいるが、どうする気もない。
特定の国に与する気はないし、ましてやそれがアージェに冤罪をかけようとしたイクレム相手なら尚更だ。
だからこそこのまま沈黙を保ちたいと思っている少年に、フィレウスはまた視線を投げかけた。
人を治め導く支配者の目。アージェはその目の奥に、微かな焦燥を見て取る。
「生半可な力というものは他者に利用され、押しつぶされるだけだ。
 だからもし、己の力を存分に発揮したいというのなら、私のところへ来るがいい。
 その力に見合うだけの場と待遇を与えよう」
フィレウスのその言葉を区切りとして、この日の面談は終わった。
しかしアージェはこれが終わりではなく―――― むしろ彼の言葉が自分に向けられたものであることを感じ取って、先のことを考えざるを得なくなったのである。