灰の剣 056

「平気だ」とアージェは主張したのだが、血混じりの唾を吐いているところを見られたとあって、ディーノリアは退こうとはしなかった。「手当をさせます」と繰り返してくる。
その申し出を無理に振り切れなくはなかっただろうが、彼もこのまま騒ぎ立てられることは避けたい。
結果アージェは渋々ながら彼女たちの案内で城内の部屋へと入った。
小間使いのテスに割り振られた部屋だというそこは、ほとんど私物のない小さな部屋である。
薄灰色の壁を見回す少年に、ディーノリアはすまなそうな目を向けた。
「申し訳ありません。男性を私の部屋に入れることは出来ないのです。
 ですがテスは医術にも精通しておりますので……」
「別に気にしてないけど。王太子の婚約者だし、当然のことだろ」
テスに促され椅子に座りながら彼が返すと、少女は少し驚いたようだった。心なし消沈した微苦笑を浮かべる。
「ご存知でしたか」
「人に聞いただけだけど」
―――― どうやら彼女にとって、王太子との婚約はあまり嬉しいことではないらしい。
気まずい沈黙の間に、小間使いが包帯の箱を持ってきた。印象は薄いが綺麗な顔だちをしているテスは、箱を傍のテーブルに置くと、アージェの上着の紐に手をかけようとする。少年はそれを遮った。
「いい。自分で脱ぐ」
「かしこまりました」
淡々とした受け答えは、まるで作り物のようである。
アージェはこの時初めて、ディーノリアに付き従っている小間使いをまじまじと見やった。
濃灰色の髪に茶色の瞳。容姿にも体格にも目を引くようなところは何ひとつない。
人の影そのものを思わせる佇まいに、アージェは痛みを忘れて少し感心した。
彼が上を脱いでしまうと、ディーノリアは慌てて背を向ける。一方テスは表情一つ変えず少年の前に屈みこんだ。
肌に触れその下の骨や筋肉を確かめていく指を、少年は苦痛を堪えながら注視する。
「少し骨を痛めているのかもしれません。固定しておきましょう」
「ああ。ありがとう」
「魔法薬ではありませんが、鎮痛剤もお渡しします」
テスは一通りの触診をしてしまうと、手際よくアージェの体に包帯を巻いていった。
きつく固定されることで少し楽になった呼吸を感じ、アージェは嘆息したくなる。
アリスティドにとってはほんの手合わせ、稽古のような試合で軽く突かれただけでこれだ。実戦であったらどうなっていたかは考えるまでもないだろう。少年は自分の未熟さに歯噛みした。
―――― 先は遠い。
自分とアリスティドの年の差は十歳ほどだろうか。だがそれを「あと十年ある」などと思えるほど、彼は気長な人間ではなかった。
アージェは、自分の敗北がケグスの顔にも泥を塗ってしまったように思えて、やまない腹立たしさに目を閉じる。
その時包帯を巻き終えたテスの手が彼の肩にそっと触れた。
「もうよろしいですよ」
「……ありがとう」
礼を言って上着を羽織るとディーノリアが振り返る。
アージェは、お茶を淹れに衝立の向こうへ消えるテスを見て、怪訝そうにその主人へと問いかけた。
「あの人は……」
「屋敷から伴ってきた付き人で、私の幼馴染なのです。
 彼女がいなければ私はここに来て、もっと塞ぎこんでいたかもしれません」
苦笑混じりの言葉から察するに、ディーノリアも自分が他人からどう見えるか自覚しているらしい。
年相応に見える初めての少女の表情に、アージェは軽く目を瞠った。
「いつもそういう顔してればいいのに」
「え?」
「そっちの方が俺はいいと思う。とっつきやすいし」
上着の紐を止めながら少年がぞんざいに指摘すると、ディーノリアは目を丸くする。
そして彼女はぼんやりとした様子で首を傾げ―――― 少し頬を赤らめ微笑んだ。






アリスティドに負けて訓練場を立ち去った時、アージェは周囲の様子にまで気を配っている余裕はなかった。
だから結果として分かっていることは、自分は案内の衛兵とはぐれてしまったのだということだけである。
たまたまその時衛兵がアージェを見ていなかったのか、それとも気を使って一人にしてくれたのかは分からないが、帰り道が分からないのは単純に困る。
テスの部屋を出たアージェはまず左右どちらに行くべきか悩んで、誰の姿も見えない廊下をきょろきょろと見回した。とりあえず適当に進んで、人を見かけたら道を聞こうと決めると、右の方へと歩き出す。
しかしすぐに背後から平坦な声がかかった。
「お待ち下さい」
振り返るとそこにはテスが立っている。
ディーノリアの小間使いは軽く会釈をするとアージェの隣に並んだ。
「あなたをご案内するようディーノリア様に申し付かりました」
「あ、助かった。実は迷子っぽかったから」
頭を掻く少年を笑いもせず一瞥し、テスは歩き出す。
薄暗く灰色に見える直線の廊下。白い石床は彼の足音だけがやけに響いた。
アージェは軽く上体を捻って胸の痛みを確認する。
軋むような疼痛はなくなってはいなかったが、これならば充分に耐えられる範囲だろう。
彼は隣を行く小間使いを横目で見やった。
―――― 聞いてみたいことはあるのだが、やはり何だか聞きづらい。
結局アージェは、当たり障りないことを口にした。
「彼女って、昔はどういう人だったの?」
「ディーノリア様のことでしょうか」
「そう」
「お優しい方でした。今もそれは変わりません」
テスは軽く目を伏せて答える。
その横顔には少しだけ、何らかの感情があるように見えた。アージェはテスの足下を確認する。
「幼馴染って聞いたけど」
「再びお仕えさせて頂くようになったのは半年前のことです。家の都合で私は数年国を出ておりましたので」
「なるほど」
歯切れが悪い様子ではないが、色々と事情があるのだろう。
そもそも二年前のことがなければ、ディーノリアが宮廷に入る必要もなかったかもしれないのだ。
アージェが口を噤むと、気を使ったのかテスの方から話しかけてくる。
「城にはしばらくご滞在なさるのでしょうか」
「一応泊まってるのは城外だし、早くこの国を出立したいんだけど……」
「迅雷だけではなくあなたも宮仕えを勧められているのですか?」
「多分」
それが実に厄介な点なのだが、今のところ明快な対応が思いつかない。
最悪、継承者であることを認めつつ「神具が使えない」ことを言ってしまえばいいのだろうが、それはそれで面倒なことになる気もした。
少年は頭の後ろで手を組もうとして、だが肋骨の痛みに両手を下ろす。ケグスやダルトンがこの怪我のことを聞いて何というか、今からいささか憂鬱だった。
テスはそんな彼を歩きながら瞥見する。
徐々に明るくなっていく廊下。女官たちが向こうから数人やって来てすれ違った。
彼女たちは、変わった取り合わせの二人を見て不思議そうな表情になるが、何も言ってはこない。
アージェも無理に話そうとするのをやめ、ただテスの道案内に従った。
何度か廊下を曲がり、見覚えのある場所に出たところで、小間使いは頭を下げる。
「この廊下沿いでよいはずです」
「ありがとう」
「それと……出来るなら早くこの国を出られた方がよいかと」
テスは驚くアージェの手を取ると、深くお辞儀をして元来た道を帰っていった。
その背を見送った少年は、服の中に手を入れ巻かれた包帯に触れる。
伝わってくるものはがさつく感触だ。彼は軽く息を吐くと、体を返し目的の部屋に向かって足を速めた。



出かけている間にダルトンたちが移動していたらどうしようかと思っていたが、幸い大人たちはまだ同じ部屋でだらけていた。
一人で帰ってきたアージェを振り返るなり、ダルトンは眉を上げる。
「どうした? 怪我でもしたか?」
「……分かる?」
「そりゃあな」
痛みもそう酷くないため平気かと思ったのだが、無意識のうちに庇うような動きにでもなっていたのだろう。アージェは空いている椅子に座ると、訓練場での出来事を苦い顔で伝えた。
ケグスがどのような反応をするか若干不安ではあったが、彼は軽く顔を顰めただけで弟子の未熟さを叱ることはしない。むしろ「あの王子を相手にしてそれくらいで済んでよかったな」と感想を洩らした。
テーブルに突っ伏して半分寝かけていたカタリナがぼやけた声を上げる。
「あの人ってそんなに強いんだ?」
「強い強い。戦場じゃ指揮官としても有能で有名だぞ」
「おにーさんとどっちが強いの?」
自身を指されての素朴な問いに、ケグスは「さぁな」とそっけなく返した。
ダルトンが大きな手でアージェの頭をわしわしと掻き回す。
「まぁ坊主にはいい経験になったろ。世の中色んな人間がいるもんだ」
「あー、うん」
―――― 悔しくて仕方ないと、言わずに言葉を濁した少年に、男二人はそれ以上触れようとはしない。
その代わりカタリナが急に跳ね起きて「あ、そうだ!」とアージェに向き直った。
「少年! 今日お城に泊まるんだって」
「は?」
「って強制されたんだよ。お前がいないうちに。ていのいい軟禁だな」
「……また牢じゃなきゃいいけど」
どうやら面倒事はまだまだ絶賛進行中のようである。
アージェはゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかると、テスからかけられた忠告を思い出し、浅い溜息をついた。



そして彼らがイクレム王宮の一角に泊まったその日の晩。
城には再び火が上がった。