灰の剣 057

伸ばされた手は、欲しいものを望む子供のようにも、雛を庇護する女のようにも見えた。
喜びに満ちた目。深い信頼と愛情が灰色の瞳に溢れる。
「テス! テス! あなたなの? 会いたかったわ」
固い皮を持つ掌を彼女の両手が包み込む。テスはそのことに驚いて、思わず手を引っこめそうになった。
だが少女はテスの動揺にも構わず柔らかな指を重ねて握ってくる。
「ずっと待っていたのよ。また一緒にいられるの?」
「……ええ」
困惑を躊躇いなく抱き寄せる温かさ。
その穏やかな熱は、少しずつ乾いた内に染み入ってくる。
だからテスはいつからか思うようになったのだ。
―――― 彼女がせめてこれからは、悲しむことがなければいいと。






月が雲の向こうで顔を覆う夜。
闇の中では木々がその葉を垂れて眠りの中に落ちていた。
城からの明かりも届かぬ林の中、時折強い風が音を立てて幹の合間を吹きぬけていく。
イクレム城の敷地の二割を占めるこれら雑木林は、見回りの兵士たちも夜更けには奥まで踏み入ることをしない。
その為鬱蒼とした佇まいは、いつも一枚の影絵のように城内の一角で沈黙を保っていた。
林の向こうにある焼け焦げた離宮が、夜と同化して無残な姿を暗闇に溶け込ませている。
割れた窓硝子の上から打ち付けられた板は、影の中白茶けて浮き上がり、まるで二年前の記憶を淡々と今に繋ぎとめているかのようだった。
だが今、そのうちの数枚は内側から剥がされ、草の上に放り出されている。
開放された窓。風雨に曝され埃にまみれた板枠を、帯剣した男たちは次々乗り越えていった。
最後の一人が林の向こうに見える城を仰ぎ、陰惨な笑みを洩らす。
「よし……手筈通りにやれ。捕まっても何も洩らすな」
小声での命令に、彼らは無言で頷いた。
侵入者たちは風の音に紛れ、林の中へと散っていく。



かつてフィレウスの弟が住む離宮が焼失した時、その原因が何であるのか、イクレムは発表することはなかった。ただ分かっている死者の名前と人数が公表されたのみである。
しかしそれでも焼死体の中に、明らかに武装した身元不明の男たちが十数人混ざっていたことで、人々はこれが事件であることを知った。
加えて死亡者の中に名が列ねている王子が、ケレスメンティアの女皇の夫候補であったことが次第に広まっていき、今ではこの一件は「イクレムとケレスメンティアの繋がりを妨害したい誰か」の手によるものと思われている。
悲劇の日から二年以上が過ぎた晩。
深々と更けていく夜の終わりは唐突なものだった。
扉を激しく叩く音。引き攣った呼び声に、眠りの浅いフィレウスは寝台から跳ね起きる。
「何が起きたのか」と問うまでもなく窓から見える火に、彼は動揺ではなく怒りを見せた。
歯軋りと共にくぐもった悪罵が吐き出される。
「―― また貴様か? 離宮を焼いただけでは飽き足らぬのか。コダリスの野獣め……」
戦場では蛮勇を、そして平時には陰謀を、周辺国へと振るい続けるコダリスの王。
フィレウスはその男の蔑称を噛み下すと、繰り返し叩かれる扉に向かい身を翻した。



騒々しい空気に包まれるイクレム城。
その北東尖塔部分にある部屋にて眠っていたアージェは、犬の吠え声に意識を揺すぶられ目を覚ました。
体を起こし室内を見回すと、どうやら声は窓の外から聞こえてくるようである。
「ルト?」
厩舎に預けられているはずの連れの名を呼んで、アージェは寝台から離れた。
一つだけの窓を開けてみると、犬の声はますます大きくなる。
しかし彼は、地上を見下ろすより先に夜空を染め上げる赤に気付いて顔を傾けた。
白い壁の向こうに少しだけ見える林が、もうもうと煙を上げて燃えている。
「何だ?」
まずはじめに思い出したものは、焼け焦げたままの離宮だ。
アージェは夜の中、見えない建物を探そうと目を凝らす。
だがすぐに犬の声がその行為を中断させた。塔の真下に視線を移したアージェは、地面の上に灰色の犬の小さな姿を見出す。
「ルト!」
ルトは少年の姿を認めるなりしきりに吠えたててきた。その様子からいって、ただ事ではない事態なのだろう。
アージェは「待ってろ!」と地上に叫ぶと部屋の中に駆け戻った。上着を羽織り、武器を探す。
しかし彼の武器は現在この部屋にはない。
元々父の長剣を遺跡で駄目にしてしまった上、城に入る時に武器を預けさせられたのだ。
少年はそのことを思い出すと、仕方なく何も持たぬまま扉へと向かった。声を上げ、並びの部屋に泊まっているダルトンたちを起こそうとする。
「親父さん!」
「はいよ」
扉を開けながらの呼び声に、ダルトンの声はすぐ傍から返ってきた。
アージェがぎょっとして隣の扉を見ると、既に彼は昼と同じ服装に着替えている。
更にその隣の部屋からはケグスが不機嫌そうな顔で現れ、反対側の扉を指差した。
「アージェ、あの女起こして来い」
「カタリナを?」
「面倒なことになってからじゃ遅い。叩き起こせ」
一体何が起きているのかは分からないが、カタリナを寝かせておいて後ではぐれるようなことになっても困る。
アージェは彼女に与えられた部屋の前に立つと、木の扉を遠慮なく叩いた。
数十秒後、上着を引き摺った女が目を擦りながら現れる。
「なにー? 眠いよー」
「起きろ。多分城内に襲撃者が入り込んでる」
あっさりとしたケグスの言葉。
それを聞いたアージェとカタリナは同時に「えっ?」と驚きの声を上げた。

城内で剣を取り上げられているのは、ダルトンやケグスも同じである。
ケグスは何も佩いていない腰を落ち着かなそうに見下ろすと、暗い廊下の向こうを窺った。
城の尖塔部分であるここは廊下自体も円状になっている。その外側にアージェたちに与えられた部屋が並んでいたのだが、彼らは今揃って、通路の先にある螺旋状の下り階段を覗き込んでいた。
等間隔に壁に配された燭台。その明かりが照らす範囲に変わったところは見られないが、耳を清ませば誰かの怒鳴り声が遥か下から微かに聞こえてくる。
ダルトンは思案しているのか、真顔で自分の肩をとんとんと叩いた。
「どうするかな」
「逃げるのー? それともやっつける?」
「誰をだよ」
「王太子を……?」
カタリナのいい加減な発言に、ケグスがその頭を横合いから叩く。
―――― しかしそれにしても、何かが起きていることは確かだが、どう立ち回って何をすればいいのかまず分からない。
ケグスは壁に手をついて暗闇を見下ろした。
「まず自衛はする。これはいいな?」
「うん」
「あとは、襲撃側につくか城側につくかだ。ああ、逃げるって選択肢もあるのか?」
「逃げていいの?」
「可能性の問題だ。さすがにそろそろ窮屈だからな。このままこの国を出ちまうって手もある」
彼の言葉にダルトンも異議を唱えないということは、それなりに現実的な案なのだろう。
アージェは頷きかけて―――― あることを思い出した。上着の内側を手で探る。
「そう言えばこんなもの貰ったんだけど」
取り出したものは、四つに畳まれた一枚の紙だ。
それを受け取ったケグスは、中を開いて燭台の明かりにかざした。ダルトンやカタリナが横から覗き込む。
「……おい、これどうしたんだ」
「昼間、ディーノリアの付き人に貰った」
「阿呆か」
言った直後、ケグスに頭を叩かれた。
カタリナが食らったよりも大分強いそれに、アージェはつい後頭部を抱える。
―――― テスに城内を案内してもらった別れ際、アージェはこの紙を手渡しで受け取ったのだ。
最初は何であるか分からなかった図解。だがそれは、夜になって改めて見てみたところどうやらこの城の地図らしい。
今のような事態であれば役立つかと思って出してみたが、師である男は苦々しい表情でその地図に見入っていた。
ケグスは一通りを見終わったのか、それをダルトンへと手渡す。
「どれどれ」と受け取った男は、やはり数秒で考え込むような表情になった。
「これは……どういうつもりで坊主に渡したんだ?」
「何々? 私にも見せてー。何なのそれ」
四人のうち、話についていけていないのはカタリナと、地図を貰った本人であるアージェだ。
分かっていない表情で見上げてくる少年に、ケグスは大きく息を吐き出す。
「お前な、それ普通の地図じゃないぞ」
「え?」
「隠し通路が書かれてる。城外と城内を繋ぐやつが数本。多分城内にも公表はされてないはずだ」
「……え?」
ダルトンの手から戻ってきた地図をアージェは改めて見直す。
城全域にわたって記されているうちの片隅、太い黒枠で描かれている離宮跡からは、確かによくよく注意して見なければ分からないほどの薄い点線が城壁外へと延びていた。
少年は窓から見えた火と煙を思い出す。
「―――― まじで?」
そのようなものを何故テスが持っていたのか。ディーノリアはこのことを知っているのか。
何が何やら分からないアージェの頭を、ケグスがもう一度叩いた。
「とにかく、重要そうなところは覚えたし、さっさと燃やせ。
 そんなもの持ってることがばれたら、お前が襲撃者を手引きしたと思われるぞ」
「……だよね」
国外に出るよう勧めてきたテスは、城から抜け出す用にこれを渡してくれたのかもしれないが、今は間が悪い。
アージェは一番近くにある燭台の火に、その地図を畳んで投げ込もうと近づいた。
だが後ろから伸びてきた手が、彼の手の中から地図を抜く。
今まで話の外に置かれていたカタリナは「私も見たいー」と言いながら畳まれた紙を開いた。
女の目が地図の片隅を捉えて丸くなる。
「あれ、これ……」
「おい、早く処分しろ」
ケグスが小さくも鋭い声を飛ばしたのは、階段を駆け上がってくる誰かの足音が聞こえた為である。
アージェは急いでカタリナの手の中から地図を取ろうとした。
だがざらざらとしたその紙は、彼女の爪にひっかかり空気を孕んで階段の上に落ちる。
不味いと思いつつもアージェは地図を拾い上げる為に慌てて石段へ向かった。複数の足音がすぐそこにまで近づく。
身を屈め伸ばした手。それはいつものアージェであれば、問題なく地図に届いただろう。
しかし少年はこの時、無理な姿勢を取ったが為に胸に激痛を覚えて止まった。骨を痛めたことさえ忘れかけていたアージェは、思わず小さな呻き声を上げる。
その間に、曲がりくねった階段を上がって数人の兵士が現れた。先頭の衛兵はアージェを見るなり怒声を上げる。
「王太子殿下を毒殺しようとしたのはお前か!」
騒々しい夜を更なる混迷へと押しやる一声。
アージェは何も考えずに地図を懐に押し込むと顔を上げた。そこでようやく思考する。
「……は?」
―――― まったく何だか分からないが、そろそろいい加減にして欲しい。
少年は考えるのも面倒くさい境地に片足を踏み込みつつ、突きつけられた剣を前に思い切り顔を顰めたのだった。