灰の剣 058

何もかもが閉ざされた暗闇。
ディーノリアは狭いそこで膝を抱えて震えていた。
背中に当たる石壁が否応ない現実を伝え、彼女の中に不安と恐怖を植えつける。
窓のない倉庫。閉ざされた扉の向こうからは、時折ばたばたと人の走る音が聞こえてきた。
大きな木箱の後ろに隠れているディーノリアは、その度に身を竦めて息を殺す。
「ここにいてください。決して出てこないように」
テスはそう言って彼女を箱の陰に隠し、外へと出て行った。
夜中に突然起こされ、外衣だけを羽織って部屋から連れ出されたディーノリアは、何が起きているのかも分からず、ただきつく己の体を抱く。
目を閉じていても開けていても真っ暗な闇。
無限に続くようにも思えるそこには、忘れ去られた記憶たちが揃って息を潜めている気がした。






「どくさつー?」
険悪さが立ち込める状況において、一触即発の空気を打ち破ったものは、カタリナの暢気すぎる声であった。
彼女は、剣を突きつけられているアージェの背中に問いかける。
「少年、王太子を毒殺したの?」
「してないよ」
「生きておられるわ!」
二つの否定は至近で衝突し、騒々しい夜を更に混乱させた。
五人いる兵士たちのうち、少年に剣を向けている男は顔をどす黒く変色させる。
「白々しい言い逃れを……お前が毒を渡したのだろう?」
「渡したって誰に? 俺、毒なんて持ってないけど」
「とぼけるな!」
石壁に跳ね返る怒声。―――― だが事態はそこでは止まらなかった。
後ろに控えていた兵士の一人がおもむろに剣を抜き、横合いからアージェに斬りかかる。
口論を断ち切る唐突な攻撃。
だが少年はそこに至る動きを、灰色の指が剣を握るはじめから注視していた。
慌てず二段上へと跳び下がり、切っ先に空を切らせる。
その間に一段踏み込んだケグスが、上体を捻りざま蹴りを放った。仲間の先行に驚いてた兵士は、避けることも出来ず肩口を蹴られて体勢を崩す。男はそのまま、アージェに追撃をかけようとする兵にぶつかり、共にもんどりうって石段を落ちていった。
カタリナの「あーあ」という声が虚しく響く。残る三人の兵士が憤りも顕に剣を抜いた。
「おのれ! 抵抗するつもりか!」
「そっちが急に斬りかかってきたんだろ……」
事実を指摘するアージェのぼやきも、頭に血が上った彼らには届いていないようである。
鷹揚に笑っているダルトンの隣でケグスが舌打ちした。
「阿呆かこいつら。少しは自分の頭で考えろよ」
「仕方ないだろうな。どうやらこの一件、周到に準備されていたものらしい」
ダルトンの目が、壁にぶつかり倒れている兵士を捉える。
武器を持たない彼らへとじりじり距離を詰めてくる三人。しかし傭兵たちはどちらも恐れや焦りを見せなかった。
ケグスは石壁を背に立つと、不機嫌そうに兵士の一人を手招く。
それを挑発と取った男は、獣のような奇声と共に剣を振り上げた。
燭台の炎を反射する刃。
けれどその剣は、ケグスに届くより先に石壁に接触する。耳障りな音を立て剣の動きが鈍る隙に、男は身を屈めつつ兵士の懐へ踏み込んだ。速度に乗った肘がみぞおちに深く食い込む。
剣を取り落とし倒れこむ兵士を、彼は冷淡な目で見下ろした。
「こういうことをアリスティドにされたのか?」
「いや、さすがに肘じゃなかった」
アージェが顔の前で手を振っている間に、ダルトンは残る二人を階段の下へと転がしている。
ケグスは兵士の剣を拾い上げて、旅の連れたちを見回した。
「さて、どうすっか。このまま城を出て逃げるか、王太子のところに弁明に行って捕まるか」
「王太子のところに行ったら問答無用で処刑じゃないのー? 毒殺犯と思われてるんでしょ?」
「どうだろうな」
剣を手に、ケグスは暗い階段を下りていく。
「襲撃犯が誰だかは知らないが、そいつは要するにフィレウスが邪魔で何とかしたいんだろ?
 ひいてはおやっさんやアージェが王太子の陣営に入ることも妨害したいわけだ。
 ―――― だから疑わしいってだけのアージェをさっさと殺そうとした」
階段の半ばで気絶している兵士たち。
そのうちの一人、最初にアージェを攻撃してきた男の前で、ケグスは足を止めた。冷ややかな目で男を一瞥すると、躊躇いもなくその背に剣を突き刺す。
魚が跳ねるように一度体を大きく震わせ絶命した兵士を、彼はそれ以上調べようとはしなかった。代わりに他の気絶している兵士から剣を奪って階段の上に戻ってくる。
ケグスはそれらの剣をダルトンとアージェに手渡した。
「多分、一番やばい状態なのは王太子だな。兵士たちの中に敵が混じってる」
「じゃあ助ける?」
「何で俺たちが。こっちも充分危ないんだよ」

フィレウスの敵は、ダルトンやアージェ、特にダルトンの存在を問題視しているであろう。
大陸に名を轟かすこの傭兵を、可能であれば排除したいであろうし、そうでなくともフィレウスとの交渉を決裂させたいに違いない。
だから今この状況において、ダルトンやアージェもまた危ないのだ。
襲撃者側は彼らを見つければ襲ってくるだろうし、そうでなくともフィレウス自身やその周囲が流言に惑わされていないとは言えない。
つまりこの混乱の中、イクレム側に近づくことは危険だ。
それを悟ったアージェは懐から再び先程の地図を取り出す。
「とりあえず逃げた方がいいか……」
「俺はそう思うけどな、おやっさんは?」
「騒ぎが収まるまでどっかに避難してるってのもアリだとは思うがなあ。
 その後投獄されないとも言い切れん」
「報酬も貰ってないのに謀略に巻き込まれるのは御免だ」
―――― やはりこれは、逃げ出した方がいいのだろう。
ダルトンやケグスが国を渡り歩く傭兵である以上、大国に睨まれるようなことは避けたかったが、大国に寄り過ぎて策略の犠牲になるのでは元も子もない。
アージェは隠し通路と思しき何箇所かを頭の中に叩き込むと、地図を燭台の火の中に放り込んだ。
一瞬で大きな炎となり消える紙を、カタリナは複雑そうな目で見やる。
四人はそれから新たな兵が来る前に建物の外に出ようと、足早に階段を下りていった。
その途中でアージェはふと、気にかかっていたことを思い出す。
「そういえば、俺なんで毒殺犯と信じられてるんだろ」
いくらなんでも、彼自身が王太子に毒を盛ったなどとは突拍子もなさすぎる。
昼間アージェがフィレウスと対面した時間はほんの十数分で、しかも他の人間たちもその場に居合わせていたのだ。
何故そのような偽りが信じられているのか。首を捻る少年に、ダルトンが苦笑した。
「坊主が毒を盛ったとは言ってなかったさ。毒を渡したと言ってた」
「そんなもん何処で手に入れるんだよ……って、誰に?」
この城内には、今ここにいる三人の大人たちの他に彼と親しい人間はいない。
にもかかわらずアージェは誰かの共犯者と思われているらしいのだ。
まさかアリスティドではないだろうと、不可解な流れに眉を寄せ掛けた少年は、しかしケグスからその答と思しきものを聞いて絶句した。最小限の足音で階段を下っていく男は「そんなの決まってるだろ」と唾棄するように笑う。
「王太子に毒を盛れるほど近づけて、お前とも接触してる人間なんて一人しかいない。
 ―――― ディーノリア・グルイートに決まってる」





その器用な指は、いつでも彼女の出来ぬことをしてくれた。
髪を編むことも刺繍をすることも、そうだ。
まるで魔法を使っているかのように、しなやかな白い指は美しいものを生み出す。
そしてその手はディーノリアが苦しんでいる時はいつも、彼女の手を取り傍に寄り添い続けてくれたのだ。
だから彼女は、寝室から連れ出され暗い倉庫に隠れている今も、ただテスを待っていた。
テスが戻ってきて、彼女の手を引いて「大丈夫」と言ってくれる。―――― その慰めが与えられる限りディーノリアは、どのような苦しい場所でも生きていける。
生きていけると、信じているのだ。
そうすることしか、彼女には出来なかった。






フィレウスのもとへ次々と入ってくる報告は、二割程矛盾するものを含んでいたものの、敵の息のかかった者が味方に混ざっていると理解すれば、大体の事実を導き出すことが出来た。
軽い頭痛を堪えつつ、王太子は事態の沈静化に向けて指示を出す。
離宮周りの林に放たれた炎は、そのほとんどを焼き尽くし現在ようやく鎮火しつつあった。
だが侵入者、及び造反者と思しき人間たちは、まだ全員を捕らえることが出来ていない。
中でも迅雷をはじめとする旅の者四人と、彼の婚約者ディーノリア・グルイートの行方が知れないことを、王太子の側近たちは強く問題視していた。
騎士たちの指揮を執る一人であるノーグは、低い声で主君に問う。
「やはり迅雷たちとディーノリア様が共謀して、殿下の暗殺を企んだのでしょうか」
「いや……迅雷たちはおそらく無関係だろう。そう思わせたい人間はいるようだが」
―――― フィレウスが自分の応接室を出る際に口をつけた酒盃。
そこには暗殺にしばしば用いられる毒が含まれていたのだが、彼はすぐにその味に気付いて酒を吐き出した。
おかげで命に別状はなく、頭痛と四肢の震え程度で済んではいるが、問題はその酒の贈り主がディーノリアであったということである。
彼の妻になる為に王宮に来ている少女。フィレウスはすぐに彼女のもとへ人を向かわせたが、既にディーノリアは部屋にいなかった。
そのことが余計に彼女への疑惑を深めたのであるが、フィレウス自身からすると、彼女は他者に利用されることはあっても、陰謀を率先して繰れる人間ではない。
部屋にいなかったことも、彼女を首謀者と思わせる為の工作か、或いは余計なことを言わぬよう既に始末されたかのどちらかであろう。本当の犯人は別にいるはずだ。
フィレウスは、それがコダリスの王ではないかと考えながら、震えが残る指で危急時用の命令書に署名する。
城外へと通じる全ての通路を封鎖した上での、城内全域の鎮圧及び捜索命令。
そこにダルトンたち四人を「生きたまま確保する」という項目を見つけ、ノーグは難しい顔になった。
「これは……可能でしょうか」
「可能にしろ。野獣相手ではない。話は通じるはずだ」
「……かしこまりました。ディーノリア様は?」
婚約者の名を確認され、フィレウスは眉を寄せる。
ほとんど会話をしたこともない少女。彼女が黒か白かは分からぬが、襲撃が起きた時点で既に行方不明とあっては、疑いを完全に拭い去ることはもはや難しいであろう。
フィレウスは全てを見通せる訳ではない。少しでも疑わしい人間を妃にすることは出来ないのだ。
彼は数秒で決断をすると、命令を付け加える。
「見つけたら保護しろ。抵抗するようなら殺しても構わぬ」
―――― 事実上の処刑命令。
まだ若い少女に向けるには酷薄な決定に、だがノーグは何も言わず一礼して去っていった。
フィレウスはその背を僅かな倦怠感をもって見送る。ささやかな嘆息が薄い唇から洩れた。
「アナ……お前ならどうしていた?」
二年前に焼死したとされる、彼の妻候補であった女。
今はもういない幼馴染の名を呟くと、彼は机上の硝子細工を指で弾いた。