灰の剣 059

短剣の一突きで絶命した男を、テスは背後から引き摺って窓の外に出した。そのまま使われていない納屋の中に押し込む。
無表情の小間使いは汚れた刃を布で拭うと、その布も中に投げ込んだ。最後に元通り扉を閉める。
消火作業に追われる外は慌しい喧騒に満ち満ちていたが、火が放たれた場所とは異なる方角のここには誰の姿もない。
テスは懐から小さな時計を取り出し、時間を確認した。
「あと二人……」
急がなければ、ディーノリアを連れ出す時間がなくなってしまう。
そうなれば彼女を待っているものは冷たいだけの死だ。
テスは純白の刃を持つ短剣を懐に収めるとその場を駆け出した。音もなく夜陰に紛れ消えていく。
何処から来たかも分からぬ足跡―――― それは、何処にも繋がることはない。



騒がしい城内を人目を避けて移動することは、面倒ではあったがそれほど難しいことでもなかった。
アージェたち四人は尖塔を下りて、一旦繋がっていた城内に入る。
火が放たれている方角は人が集まっているだろうということで、彼らは適当な空き部屋から外に出た。離宮跡とは逆の方角に向かい大きく庭を迂回し出す。目的地は北西にある隠し地下通路―――― ではなく、出入りの商人たちが使う小さな通用門である。
合流したルトを先頭に暗い庭を進む四人は、どう見ても不審者に違いない。
だが城内を走り回る人間たちの話を盗み聞いたところ、やはり彼らはフィレウスの毒殺未遂と絡んで捜索されているようだった。堂々と廊下を歩いていてはすぐに捕まってしまうだろう。
アージェはルトの嗅覚を信用し、見つからないよう祈りつつ、ふと気になってカタリナを振り返る。
最後尾をついてくる彼女は、先程から何かを考え込んでいるようだった。
「大丈夫? どうかした?」
「うーん……ちょっとまだ確信が持てないんだけどさ」
「うん」
「この襲撃って―――― 」
彼女の言葉はそこで、ケグスが腕を上げたことにより中断された。
見るとルトが低い唸り声を上げている。犬の鼻先が向かう植え込みを覗きこんだダルトンは、「ああ」と得心の声を上げた。
「死体があるな。誰かに殺されたか」
「襲撃者か?」
「いや、多分城の魔法士だ」
ダルトンは立ち上がると首を横に振った。
それがどういう意味の仕草であるか分からないまでも、アージェは触れてはいけない気がして口を噤む。
ケグスは自分も植え込みの中を覗き込むと、首を傾げた。
「暗殺者が紛れ込んでるっていうのは予想の範囲内だが、何でこんなところで普通の魔法士が殺されてるんだ?」
「たまたま出くわしたからとかじゃないの」
「そうかもしれないが……まぁいいか。急ぐか」
再び歩き出した男に続いて、アージェもその場を離れる。
だが少年は、何度か城の建物を振り返って見上げ……ぽつりと呟いた。
「ディーノリアはどうなるのかな」
それは、先程からずっと気になっていたことである。
今この混乱に巻き込まれているであろう彼女。その彼女は騒ぎが収まった後、一体どうなってしまうのだろう。
釈然としなさを漂わせるアージェに、ケグスは「さぁな」と返した。
「どうやら兵士たちはディーノリアも探してるみたいだからな。いないってことは逃げたんだろ。
 お前が気にしても仕方ない。自分のことを気にしとけ」
そっけない言葉は正論に思われたが、アージェはそれでも彼女のことが気になった。人を害そうとする人間には見えない、淋しげな苦笑を思い出す。
テスがあのような地図を持っていたということは、その主人であるディーノリアも無事隠し通路を通って逃げられたのだろうか。
きっとそうだ、と思いつつも、しかしアージェは違和感を拭い去ることが出来ない。
―――― それは彼がテスに抱く疑念と、表裏であるのかもしれなかった。



最後の一人は、ぎりぎり時間内に仕留めることが出来た。
これで自分に割り振られた仕事は終わりだ。テスは身を屈めて叢の中を走る。
あとは、ディーノリアを連れて城を出るだけだ。
城を出て、この国を出て、別のところへ行く。
そうすれば彼女ももっと自由でいられるだろう。少なくとも今までよりはずっと安らいだ暮らしが出来るはずだ。
テスは短剣を握り締め、まず事前に打ち合わせてあった場所へと向かう。
城の敷地内、北西にあたる建物の裏。そこに、仲間である六人の男たちは待っていた。
そのうちの一人がテスを見て前に出てくる。
「やったか? 短剣を寄越せ」
「その前に、ディーノリア様を迎えに行きたい」
白い短剣を受け取ろうとする手。男のその手を見据えながら、テスはきっぱりと言いきった。
男たちの間に一瞬、嘲笑に似た空気が流れる。手を差し出したままの男は口元を斜めにして笑った。
「何を言ってる? あの娘に未来はない。はじめから分かっていただろう」
「この国を出て暮らすことくらい出来るはずだ。すぐに連れて来るから―― 」
「先に短剣を寄越せ」
問答無用での催促に、テスは一歩後ずさる。
しかしそれは、男たちを恐れたというより交渉の距離を保つ為のものだった。
テスは懐にしまった短剣を手で押さえる。
「彼女を見捨てるというのなら、この剣は渡せない」
「貴様、血迷ったか?」
低い恫喝の声。それを合図として、六人の男たちは剣に手をかけた。テスを逃がさぬよう、ゆっくりと間合いを計りながら取り囲もうとする。
しかしそれに気付いたテスは、包囲される前に大きく後ろへ跳び下がった。今度は戦うことも考えて位置を取る。
だが実際のところ、テスはここで彼らと戦いたくはなかった。自分一人ではディーノリアを連れて城を逃げ出すことは難しい。
だからテスは、真顔で再度懇願した。
「彼女を連れて行きたい。それくらい大した問題ではないだろう」
王太子に毒を盛ったとされる人間に、未来はない。
しかしその結末が死であっても行方不明であっても大差はないだろう。フィレウスや、彼らにとっては。
けれどディーノリア自身にとってそれは、まさに生死を分かつ問題なのだ。
何も知らぬまま巻き込まれ、ただテスを待って震えているであろう少女。
彼女を見捨てる道を、テスは選びたくなかった。一歩ずつ後ろに下がりながら、腰に提げていたもう一振りの短剣を抜く。
男たちはその様子を見て鼻で笑った。
「これで最後だ、テス。大人しく短剣を渡すか、お前もここで死ぬか。好きな方を選べ」
闇夜の中、自分を半包囲する男たちを、テスは感情のない目で見回す。
短剣を握る手。固く乾いた指に重ねられた少女の手を思い出した。
ディーノリアの嬉しそうな声が頭の中で響く。

―――― テス! テス! ずっと待っていたのよ!

憐れな少女。
だがその憐れを彼女自身は知らない。ただ信じている。まるでそれが何でもないことのように。
自分に向かって伸ばされる手。
その手を、テスは



短剣を渡そうとしないテスに、痺れを切らせたのは男たちの方だった。
もっとも近い位置にいた男が、テスに向かって距離を詰める。切り込まれるその長剣を、テスは右手に抜いた短剣で受け流した。
ささやかな金属音が夜空に響く。
時間はかけていられない。それはどちらにとっても自明のことであった。
本当はこのようなところで決裂している暇さえないのだ。テスは更に後ろへと下がりながら、二人の男を相手に短剣一振りで応戦する。
油断すれば即足を取られそうな草の上、一人目の男が膝をついた。喉元を短剣で掻っ切られた男は、そのまま声もなく崩れ落ちる。
テスはその姿を見ようともせず、驚く男たちの隙を突いて逃げ出そうとした。
だがすぐに、別の男が行く手を塞ぐ。
「貴様……裏切ったか」
憎悪のこもる批難にテスは答えなかった。表情の変わらぬ顔で彼らを見返す。
―――― 今ここで自分が死んでしまったら、おそらくディーノリアは助からない。
それだけが事実だ。テスは短剣を構えなおし、活路を求めて息を殺す。
覆しがたい不利。先の見えない閉塞した状況が一変したのは、その直後のことだった。


「やっぱそうなのかよ」
不快げな少年の声。
それは男たちの背後から、テスに向かってかけられた。
剣を抜いた彼らは殺気立って振り返る。だがすぐに、五人は五人とも「うっ」と呻いて硬直した。
彼らの視線の先でダルトンは、状況を見定めるかのように目を細める。
「どういうことだ、坊主」
彼が問うた相手は、隣に立つ緑の瞳の少年だ。
アージェの視線は険を帯びて、ただテスを真っ直ぐ睨んでいた。手袋を嵌めた左手が指を差す形に上がる。
「あいつがディーノリアの付き人。でも多分襲撃者の仲間だ。―――― 指が灰色い」
弾劾の指先。
彼の言っている意味をテスは理解しない。
だがその意図は理解して……肯定の頷きを返した。



アージェたちが人目を避けて城の裏側を移動していたところ、聞こえてきたものは剣同士がぶつかり合う金属音である。
一応様子を見ようということで音を立てずに近づいてみれば、そこにいたのはテスと、城の人間ではない男たちだ。
争っている状況からして、テスが襲撃者に襲われていると見えなくもなかったが、アージェはそれを仲間割れだと判断した。
そうすぐに判断出来るほどには、彼はテスを疑っていたのだ。二度目に会い治療を施してもらったその時から。
「おかしいとは思ってた。掌の様子や指の感じからいって、小間使いっていうより剣を持つ人間っぽかったから。
 でもディーノリアの護衛かと思って何も言わなかったんだけど、指が……」
「灰色か。あの黒い靄がついてるってことか?」
「そう。今は真っ黒に見えるけど」
―――― 黒靄を纏う指。それは、不当に人を殺した人間の証のようなものだ。
尖塔で真っ先にアージェに切りかかってきた兵士もそうだった。灰色に見える指は、襲撃者たちが城に紛れ込む為にしてきたことの痕跡でもあるのだろう。
ケグスは一人包囲されているテスを、氷のような眼差しで見やった。
「ってことは、あの女が主人に罪を被せて王太子暗殺犯に仕立てたわけか。
 お前に地図を渡したのもその為か? ご苦労なことだな」
「違うよ」
「ん?」
アージェから返された否定を意外に思い、ケグスは首を傾ぐ。
少年は、テスを指していた左手を下ろすと訂正した。
「多分あいつ男。細いし顔は女に見えるけど、骨格は男」
「……まじか?」
「多分」
頷くアージェにテスは否定の声をあげようとはしない。
もはや彼はそのことを隠す気もなく、右手で厚刃の短剣を構え、そして振るった。