灰の剣 060

テスを間近で観察した時、アージェが抱いたものは「以前にも感じたことのある違和感」だ。
それが何であるのか、灰色に見える指を注視してしばらく、少年は思い出した。
ケグスやダルトンと出会った一件において、彼が戦った相手。
「皆が驚くだろうから」というだけの理由で屋敷の護衛たちを殺した男とテスは、何処か似た印象を与えてくるのだ。
そう思って改めて観察してみると、細身の体はその下に男の骨組みと絞られた筋肉を隠しているように思える。
アージェは以前出会った男が、部屋に侵入する際女に化けていたということを思い出し、テスもそうではないかという結論に至った。
そしてそれは、紛れもない事実だったのである。



テスの振るった刃は、ダルトンに気を取られていた一人の胸に突き刺さった。
一秒たりとも制止することなく抜き放たれた切っ先から、鮮血が飛び散り彼の服を濡らす。
おそらく即死したのであろう男は、そのまま悲鳴もなく草の上に倒れこんだ。他の四人は血相を変えていきり立つ。
「貴様っ!」
「あー、ちょっと待て待て」
逃げ場のない四方からテスに斬りかかろうとする彼らを、ダルトンの声が素早く留めた。
一歩踏み出しながらの傭兵の声に、再び場は凍りつく。まるで茶番劇のように白々しい空気がその場に流れた。
テスは血塗れた短剣を構えつつ、突き刺さる殺気に向き合っている。
勿論男たちも彼を逃がすつもりはないのだろう。指先の動き一つも見逃さないように、標的を取り囲みつつ燃えるような視線を向けていた。
葉々を揺らす強い風が、城の一角を吹き抜ける。
仲間割れしているらしいテスと男たち。
その様子をアージェは、先程から冷ややかな目で見据えていた。
表情が変わらないままのテスを除き、男たちは皆焦りと怒りに顔を歪ませている。本当ならばすぐにでも、裏切り者であるテスや目撃者であるアージェたちを排除してしまいたいに違いない。
だが彼らは、ダルトンの存在を気にして動けないようだった。
危うい緊張感は夜の中に沈黙をもたらし、遠くにいる兵士たちの怒鳴り声が風に乗って聞こえてくる程である。
細く張られた均衡の糸。いつまで持つか分からぬそれを、しかしアージェの声が無造作に断ち切った。
「ディーノリアは?」
それは、皆が予想していた契機の言葉であったのかもしれない。
鋭い声音での問いを向けられたテスは、一拍おいて答えた。
「……まだ城内にいる。隠れてらっしゃる」
「何で? ディーノリアは全部知ってるのか?」
「何も。彼女は知らない」
「―― 何だそれ。幼馴染じゃなかったのかよ」
憤りも顕にアージェが吐き捨てると、テスは微かに表情を変える。まるで悔恨に曇るかのような目に、だが少年はますます眉を顰めた。更に何かを言い募ろうとして、ケグスに手で止められる。
少年に代わって前に出てきた男は、ダルトンに怯んでいる様子の男たちを冷めた目で見渡した。
「ま、俺たちはこの国に何の義理もない。お前らが何しようとどうでもいいさ。そっちはどうだ?」
「……そういうことならこちらもあんたたちを敵に回す気はない」
「なら別にいいな」
軽く肩を竦めて、ケグスはその場を離れようとする。
だが、依然としてアージェは動かぬままテスを睨み続けていた。
その様子に気付いたケグスが振り返って何か言おうとした時、一瞬早くテスの声が上がる。
「ディーノリア様を助けたい」
―――― 誓いのような懇願のような言葉。
飾り気のないその言葉がアージェに向けられたものであると、場の幾人かは瞬時に悟った。
少年は緑の双眸に珍しく怒りをちらつかせてテスを見ている。
「今更? 全部お前のせいなんだろう。ディーノリアはお前を信じてた」
「だが、彼女はここでは幸福になれない」
「だからってこれか。馬鹿げてる」
風が伝える喧騒。
それは個人の感情がもたらす結果としては、あまりにも度が過ぎるものであろう。
侮蔑の色さえ窺わせるアージェに、テスは淡々とした声で返した。
「役目は放棄出来なかった。私はその為にこの国にやって来たのだ」
「ディーノリアはお前が帰ってきたことを喜んでいたのに?」
「彼女の言う『テス』は私ではない。……ディーノリア様は『テス』の死を認められなかったのだ」



イクレムに来て潜入先を探していた彼が、グルイート家に迎えいれられたことは、半ば運命の悪戯のようなものだった。
幼い頃に母親を亡くした娘、ディーノリア。
彼女は母の死後、厳格な父親から「いつまでも悲しむな。母のことは忘れろ」と繰り返し抑圧を受け、その結果過去の記憶を自ら歪めてしまったらしい。
父から庇い、辛い時には寄り添ってくれた母親は、彼女の中でいつの間にか母から分離し「テス」という名の友人になった。
その名は母親であった女の愛称であったというが、ディーノリアは今はもうそれが母の名であることを覚えていない。
彼女の中で「テス」は母とは別の人間であり、異国に旅立っただけでいつか戻ってくるものと信じられていたのだ。
その夢想だけを支えに、脆弱な彼女は生きていた。

正気と空想の両方を多分に持ち合わせていた少女。
彼女の転機が訪れたのは、二年前のことである。
離宮を襲った突然の火事で、王太子の弟と、もっとも王太子妃に近かった娘が焼死した。
その知らせを聞いたディーノリアの父は、彼女を城に入れ将来の王妃にすることを思いついたのだ。
だがそれには、ディーノリアの精神はいささか不安定すぎる。
父はそこで「テスがイクレムに帰ってきた」と嘘をついた。いるはずもない「テス」に会いたがる娘を、その再会を餌に励まし、王太子の妻になり得るよう教育し、裏では「テス」の面影を宿す人間を探し続けたのだ。
そして見出されたのが「彼」である。
ディーノリアの父はようやく「テス」に成り代われる人間を見つけたと喜び、「彼」が男であることはおろか他国からの暗殺者であることにも気付かなかった。
そこまでは何も問題なく進んでいたのだ。
―――― 「彼」が、憐れなディーノリアに温かさを覚え始めるまでは。



草の上を吹きぬけていく風の音は、まるで滑稽な一幕を嘲笑うかのようである。
その中心となっている二人、アージェとテスは、何処か対照的な様相を見せながらお互いを見据えていた。
「幼馴染ではない」と言い、だがそれでも「ディーノリアを助けたい」と言う男に対し、アージェは小さく息を吐く。
「じゃあどうするつもりだよ」
「彼女をこの国から連れ出す。急がなければ間に合わない」
「ディーノリアは無実なのに? 身勝手な言い草だ」
「それでも……彼女も自由になりたがっていた」
時間はないと、不毛なやり取りと自覚しながら、アージェは苛立ちを覚えて抗弁したくなる。
それはきっと、自分がこれからすることの言い訳でもあるのだろう。彼は周りの三人にだけ聞こえる声で「ごめん」と呟いた。テスに向かって顔を上げる。
「彼女は何処にいるんだ」
「西棟の一階の一番北の小部屋だ」
「アージェ、お前」
ケグスの手が肩にかかる。軽挙を諌める声に、少年はもう一度「ごめん」と返した。
「先行ってて。すぐ追いつくから……」
「阿呆か。出来ることと出来ないことがあるだろ」
「とは思うんだけど」
分かっていても割り切れないことはある。
それは義憤などという大層なものではなく、単に無視しきれない小さな後悔に似た何かだ。
アージェは警戒を高める襲撃者たちを一瞥する。
「俺も一回冤罪かけられて嫌な思いしてるし。ディーノリアにはちょっと助けてもらったし」
「到底釣り合わないだろ。お前、ちょっと冷静になれ。馬鹿を見るぞ」
「すぐ戻るよ。先行ってて」
最悪、イクレム軍に捕まることになっても、フィレウスはアージェを殺したがらないだろう。
紛れ込んでいる襲撃者にさえ気をつければ、何とかなるはずだ。
大雑把な計算をもとにディーノリアを迎えに行こうとする少年を、ケグスは厳しい目で睨む。
「俺は反対だ。手伝う気もない」
「うん。分かってる。ごめん。―――― ちょっと行ってくる」
自分の我儘でそこまで迷惑はかけられない。
教えられた場所へ向かい駆け出すアージェに、四人の男たちは少なくない動揺を見せた。
咄嗟にその進路を妨害しようと動きかけた男が、だが背を見せた途端、テスの短剣に切り裂かれる。その間にアージェの姿は建物の角の向こうへと消えた。残る男たちが歯軋りする。
「この……っ! お前のせいで……」
無表情のテスへと再び向きなおした刃。しかしそれは、背後から伸びてきた手によって捻り上げられた。
「まぁまぁ、短気はよくない」
ダルトンは暢気に言いながら一人目の男を掴んで無造作に投げる。
残る二人が唖然とする横で、ケグスは小間使いの格好をした男を流し見た。彼はテスにではなく、ダルトンへと声をかける。
「おやっさん、カタリナ頼んでいいか?」
「おう。気をつけて行けよ」
「まったくあいつは甘いんだよ」
駆け出しながらのぼやきは、しかし言葉とは裏腹に不快に思っているようには聞こえなかった。
ケグスはテスを一瞥するとその脇を走っていく。アージェを追う男の視線に、テスは我に返ったかのか自分も走り出した。
あっという間に見えなくなった彼らに、残る二人の男は蒼ざめる。
「短剣が……」
「何か欲しいものがあったのか? ならとりあえず待っとけ。待てないっていうなら俺が相手してやってもいいが」
暢気なものに聞こえる声に、けれど二人の男は動けない。
どうすればいいのか互いに顔を見合わせる彼らの前に、今まで無言でいたカタリナが歩み出た。
彼女は草の上に伏している四人を順に見回し、ぽつりと問う。
「ねぇ、何でこんなことしたの? ……戦争になっちゃうよ」
女の灰色の瞳が、不理解と落胆を抱えてゆっくりと伏せられる。
それはこの夜を知る者が弾劾する、もっとも真実に近い言葉なのかもしれなかった。