灰の剣 061

暗い小部屋には、かつてはすすり泣きが響いていた。
ディーノリアが父から逃げ出した先に隠れる場所。彼女はそこでずっと泣いていた。
淋しく苦しいだけの思い出が、温かさによって寄り添われるようになったのは、いつからだったろう。
彼女はもうその始まりを、確かなことを思い出せない。ただ「彼女」の呼び名と、安らいだ記憶だけを覚えている。
そしてその記憶は、彼女にとって今の「テス」に繋がるものだった。
隠れるよう促された城の小部屋で、ディノーリアは目を閉じてテスを待つ。
もう彼女は泣かない。いつかのような子供ではないのだから。
時間の流れの分からぬ闇の中、ディーノリアはじっと身を竦めている。
幼馴染が迎えに来てくれないということはないだろう。テスは必ず来る。ディーノリアを裏切ることはない。
ただもし、ディーノリア自身が先に誰かに見つかり、待っていられなくなったとしたら。
彼女はきつく目を閉じて息を殺した。
廊下をばたばたと走る足音が、ディーノリアの隠れる部屋の方へと近づいてくる。
隣の部屋を開け中を捜索しているような気配に、彼女の心胆は冷えきった。
ディーノリアは顔の前で手を組み、神に祈る。
―――― 大陸主神であるディテル神へ捧ぐ真摯な願い。
だがその祈りも虚しく、ついに小部屋の扉が開かれた。



廊下から差し込む光。魔法の生み出す白光は、狭い部屋を鮮やかに照らした。
ディーノリアは、自分が隠れている箱のすぐ横に人影が差すのを見て、ぎょっと目を瞠る。
それはどう見てもテスの影ではなく、体格のよい兵士か誰かだ。
ディーノリアはゆっくりと近づいてくる影を、息を詰めて凝視する。
―――― このまま見つからなければいい。
物音をさせないようじっとしているだけだ。そう難しいことではないだろう。
目を閉じて、意識を殺す。
ディーノリアはそうして、自分がまるで誰からも顧みられぬ粗末な人形にでもなったかのように念じ続けた。
しかし彼女の努力は叶わず、やって来た兵士は木箱の影を覗き込む。
「……っ、いたぞ!」
「ひっ」
粗野な怒鳴り声と伸ばされた手。
ディーノリアは右腕を掴まれ思わず悲鳴を上げた。その声や恐怖の表情が兵士の怒りを煽ったのか、彼女は箱の裏から乱暴に引きずり出される。床に手をついて逃げようとするディーノリアを、男は無理矢理に立たせた。
「逃げるな。抵抗すれば殺すぞ」
「ど、どうして……」
「お前が王太子殿下を暗殺しようとしたことは既に分かっている!」
「暗殺? 私はそんな……」
「しらばっくれるな!」
細い顎を掴まれ顔を固定されたディーノリアは、痛みと混乱に気が遠くなりかけた。無実を訴えようとし、だが何といえばいいのか分からない。彼女は途切れ途切れの声で喘いだ。
「何も……知りません……私は……」
「ならば何故こんなところに隠れていた? 罪を犯していたからだろう」
「違います……本当に何も……」
彼女を睨む兵士の顔は朱く染まっており、今にも少女の首を締め出しそうである。
ディノーリアは何が何やら分からないながらも、自分が今崖縁に立たされていることだけは理解し、浅い息を重ねた。
口の中がからからと乾く。にもかかわらず背中は冷や汗で湿っており、世界か自分かがばらばらになってしまいそうだった。
彼女は微かにかぶりを振る。
「は、離して」
「牢についたら離してやる」
「今、放してやれよ」
唐突に割り込んできた声。ディーノリアはその声の主を知っていた。大きく瞠目して廊下を見やる。
兵士たちが振り返った先に立っている少年は、不機嫌そうな目でディーノリアと、彼女を捕らえている男を睨んだ。傍にいる灰色の犬が姿勢を低くして唸り声を上げる。
「放せよ。ディーノリアはやってない」
剣を右手に抜いたアージェはそう言って、刺す様な視線で兵士たちを見た。



突如現れた少年にディーノリアは驚いたが、それは兵士たちも同様だったらしい。少年に対する囁きが彼らの間を走った。
彼女を捕らえている男が若干手の力を緩める。
「ならお前がやったのか?」
「違うって。いいからまず放せ。ディーノリアが痛がってる」
少年の苛立たしげな指摘に納得したわけではないだろうが、男は彼女から手を放した。剣に手をかけながらアージェに向き直る。
三人の兵士たちと相対する少年は、けれどそのような状況であっても怯むわけでもない。ただ少し煩わしげに己の左手に視線を移した。
アージェは手袋を嵌めた左手を上げるとそれを己の口元に持っていく。
彼はそのままひどく冷えた目を細めると、宣告した。
「ディーノリア、こっちに来い」
「ふざけてるのか? ただのガキが……」
「ふざけてない。来るんだ、ディーノリア。君を迎えに来た」
強い意志を込めた呼び声。
その声に少女が震えたのは、少年の中に彼自身消化しきれていない憤りや苦味が見て取れたからだ。
彼女の知らない感情。知らない強さ。
それらが持つ光に取り付かれたかのように―――― ディーノリアは震える足を踏み出す。

見えない糸に引き寄せられ歩き出した少女。
隣にいた兵士はそれに気付くと、彼女を再び捕らえようと細い肩に手を伸ばした。
だが一足早くアージェの声が飛ぶ。
「ルト!」
名を呼ばれた犬が兵士の腕に飛び掛る。男は悲鳴を上げてルトを振り払おうとした。
それを切っ掛けとして狭い部屋には戦意と怒気が交差する。
―――― ディーノリアを助けに来るにあたって、アージェには最初から戦うつもりがあった。
そしてそのことは、場数もそう多くない少年に対し、少しだけ有利に働いたのだ。
兵士たちは彼が「どのような人間であるか」を知らず、王太子に生きたまま捕らえるよう命じられていたこともあって、とりあえず拘束しようとだけ思っていた。
まだ子供の域を脱していない少年。権力に屈することなく生意気な目をしている彼を前に、兵士たちは侮りを隠すことはしない。少し殴ってやれば言うことを聞くだろうと単純な心積もりを抱いていた。
アージェはその空気を察しながら、掴みかかってくる男の手に空を切らせる。手袋に歯を立て、己の左手から抜き去った。
誰よりも黒く染まった指。肘までが漆黒の異様な腕を見てディーノリアは息を飲む。
彼以外には見ることの出来ぬ黒い糸が、生きているかのように宙を走り、兵士の佩いた剣の一振りに繋がった。
アージェはそれを見て取ると同時に思い切り手前へ引く。
「な……っ」
意味の分からぬ力に引き寄せられ体勢を崩した兵士は、傍目から見ればアージェの上げた膝に自ら顔をめり込ませたように見えただろう。
少年は顔から嫌な音を立て気絶した男を脇に放り出すと、次の兵士へと向き直った。そっけなく言い捨てる。
「武器は選んだ方がいいよ。前の持ち主が何に使ってたか分からない」
「何だと!?」
男は一瞬で顔の血管を浮き立たせると、先程の兵士よりも荒々しく殴りかかってきた。
しかしその動きは、ケグスやアリスティドに比べれば虫が這う速度に近い。
アージェは抜き身の剣を自分の前に投げ捨てる。男はそれを避けようと僅かにもたついた。
その隙を見逃さず、少年は男のみぞおちを思い切り蹴り上げる。
体を折って硬直する兵士を、彼は更に正面から殴りつけた。
昏倒し床の上で呻く男から目を放さぬまま、アージェはディーノリアへと手を差し出す。
「ほら、来て」
差し伸べられた手は左手だった。
ディーノリアは怯んだように黒い掌を見やる。
アージェはそれに気付いて床の上の手袋と剣を拾い上げた。
「ああ、ごめん。俺ちょっと特異体質で。感染ったりはしないよ」
「す、すみません。少し驚いて……」
三人目の兵士はまだルトを相手にやりあっている。
その間にアージェは手袋を嵌めなおすと少女を手招いた。最初の兵士が鼻を押さえながら起き上がろうとしたので、思い切り頭を踏みつけ、ついでに黒い靄の漂う剣を奪う。
そのまま彼が小部屋を出ようとしたところ、しかしディーノリアは足を留めた。
「あの……私、テスにここで待っているよう言われたのです。私がいなくなってしまったら……」
「大丈夫。あの人ならさっき会った」
「え?」
「それでディーノリアを連れてきて欲しいって言うから俺が迎えに来たんだよ。早く行こう」
小部屋を逃げ出すことに逡巡を見せた少女も、それを聞いて納得したらしい。
もたもたとついて来ようとするディーノリアの手を、アージェは急かすように取る。
彼女は手を繋がれたことに真っ赤になったが、それを振りほどくような真似はしなかった。大人しく少年に従って廊下に出る。
「ルト!」
最後にアージェが叫ぶと、灰色の犬は素早く廊下に滑り出た。
傷だらけの兵士が慌てて後を追うが、アージェはさっさと扉を閉めてしまう。彼はすかさず奪った剣を、つっかえ棒として掛け金に差し込んだ。
激しく中から叩かれる扉を無視して、二人と一匹は走り出す。

広い城の外れにあたる西棟の廊下。
真っ直ぐに伸びるそこは真夜中ということもあり、燭台の炎も全てをまかないきれぬ暗闇の中に浸されていた。
アージェはその廊下を速度を加減しながら走っていく。
彼自身は手近な窓を破って中に入って来たのだが、薄い夜着姿のディーノリアを連れていては、同様の経路を取ることは難しい。硝子の破片で怪我をされても困るのだ。
周囲の様子を窺いながら走るアージェは、ようやく庭に出られる硝子戸を見つけると鍵を外した。ディーノリアを外に出るよう促したところで、廊下を近づいてくる明かりに気付く。
一瞬目の錯覚かと思えるほどの速度で彼らに向かってくる白い光は、どうやら誰かの持つ燭台のようであった。
それが誰であるか、目を凝らして分かったアージェは、思わず「げ……」と呟く。
護衛であるはずの魔法士を大きく引き離し、少年の前に辿りついたアリスティドは、燭台をかかげると朗々とした声を上げた。
「ようやく見つけたぞ! 捕まえるから観念しろ!」
「……まだイクレムにいたんだ……」
「遊び疲れて眠ってしまっていたのだ! おかげで今はすっきりしている!」
―――― この男はひょっとして馬鹿なのかもしれない。
そのようなことを思いながらアージェは剣を抜く。
アリスティドは何故かその様子を満足そうに眺めながら、燭台を近くの窓辺に置き、自身も剣を抜いた。