灰の剣 062

剣を抜いた男は、意気揚々といった表情で少年に向かい、それを構えた。
一方アージェは苦い顔で彼に対する。
アリスティドの腕の程は昼間思い知ったばかりである。正面からやりあってまず勝てる相手ではない。
ましてやアージェは、その時体を痛めてしまっているのだ。無茶な動きをしては痛みに体が鈍ってしまうだろう。
少年は不安に顔を曇らせるディーノリアに、暗い庭を指し示した。
「出て、壁沿いに右にずっと行って」
「え……でも」
「そこにあの人がいるから。ほら早く」
語気を強めた為かテスの存在を示した為か、少女は躊躇いがちに外へと足を踏み出す。
ディーノリアはしかし窓枠に手をかけアージェを振り返った。
「大丈夫、なのですか……?」
気遣うような、離れがたいような瞳。
そのような問いかけに正直なところは答えられない。アージェは「大丈夫」と断言した。
少女は不安を消せないまでも、彼の言葉に押されたのか小さく頷く。
「どうかお気をつけて……」
囁きを夜風に乗せて、ディーノリアは夜の庭へと姿を消した。
その言葉に何だかレアのことを思い出し、アージェは刹那懐かしい気分を抱く。
彼女に会ったのはたった昨日のことだというのに、あの時から随分遠くへ来てしまった気がする。彼は苦笑もせず己の境遇の意味の分からなさを思いやった。
しかしそれも思考のほんの一部のことで、アージェは剣を抜いたその時から、アリスティドへの注意を逸らすことは僅かたりともしていない。
アリスティドは少年のそんな姿を微笑んで見やった。
「いい心がけだ。君は実にいい」
「何が」
「悪い子ではないと言っているのだ。つまりいい子だ!」
「…………」
―――― 一体この男は何が言いたいのだろう。戦う前からとてつもない疲労感を覚える。
アージェは真剣に相手が馬鹿である可能性を疑い始めたが、一応有能な指揮官でもあるという彼だ。これも何かの計算なのかもしれないと思いなおした。おかしな発言で脱力してしまわないよう気を引き締める。
少年は構えた剣の切っ先をアリスティドに向け、余計な思考を追い出した。
「いい子だと思ってるなら見逃して欲しいんだけど」
「だめだめ。いい子は夜中に逃走してはいけないのだぞ! 大人しく捕まりなさい!」
「やだよ」
いい子のありようはともかくとして、魔法士の女が追いつく前にこの場を逃げ出さなければならない。
アージェは牽制の意味も込めて軽く踏み込んだ。長剣を相手の肩に向かって切り上げる。
しかしその切っ先は予想通りアリスティドの剣によって弾かれた。軽い金属音が夜の廊下にこだまする。
アージェは足の位置を変えながら、続く男の反撃を受け流した。

彼の師であるケグスは、格上の相手については「まず逃げろ」と教えてくれた。
無駄に熱くなって戦いに拘り、命を落とすことなど馬鹿らしいと言っていたのだ。アージェもそれは同感だと思う。
けれどアリスティドのように、格上の相手に捕まってしまった時はどうすればいいのか。
アージェは目の前すれすれを通り過ぎていく刃に、早くも手詰まり感を味わった。
そうこうしている間に、アリスティドの後ろには護衛の女が追いついてくる。
細身の彼女はよほど無理して走っていたのか、両手を膝について呼吸を整えようとしていた。すぐには呪文も詠唱出来なそうなその様子に、アージェはふと人の悪い案を思いつく。
「ルト!」
アージェの邪魔をしないようにか、少し離れた場所で唸っていた犬は、少年の呼び声を十全に理解した。床を蹴ってアリスティドの脇をすり抜けると、今にも倒れそうな女へと向かう。
彼女はそれに気付いたが、魔法を使う余裕がない。小さな悲鳴を上げてルトと一緒に床へ転がった。
アリスティドが慌てて振り返る。
「こら、わんこ! エルから離れろ!」
離れろと言って離れるような犬なら、はなから彼女に襲い掛かりはしないだろう。
アージェは勿論この隙を見逃すことはしなかった。背を向けたアリスティドへと剣を振るう。
男は素早く体を返してその攻撃を受けた。
「待て待て! これはよい子の所業ではないぞ! 正々堂々じゃない!」
「正々堂々で何とかなる相手ならそうしてるよ」
よい子の評価を惜しげもなく投げ捨てたアージェは剣を引くと同時に身を屈める。
アリスティドの足を狙って薙いだ長剣を、男は後ろに跳び下がって避けた。彼は悲鳴を上げているエルに叫ぶ。
「エル! 犬は真心だ!」
「で、殿下……」
「真心とかそういう問題じゃないと思う」
反論出来なそうな彼女に変わってアージェはぽつりと呟いたが、その間も攻勢の手は緩めていない。
いつまでもこのようなところで遊んでいる場合ではないのだ。
アージェはアリスティドが背後を顧みた隙に、可能な限りの速度で踏み込んだ。男の腹を狙い、長剣を真っ直ぐに突き込む。
しかしその攻撃もまた、アリスティドの剣によって未然に防がれた。
彼はアージェの剣を大きく振り払いながら、犬ともみ合っている女を見やる。小さな溜息が後に続いた。
「いたしかたない」
短い呟きがどのような意味を持っていたのか。
アージェは次の瞬間、身をもってそれを知った。自分に向き直ったアリスティドの姿が、一瞬ぶれて見える。
―――― 速い。
そう思う余裕さえなかった。
反応出来ぬ速度で迫る剣。夜の中光る切っ先を、アージェはただ注視する。
その刃は彼の動きを削ぐように、右腕の付け根へと向かっていた。
彼は刹那の間に「自分が怪我をする」ということだけを予測する。
まだ届かぬ相手。
格上の敵。
剣の煌きが、残像のように視界に映った。

放たれた矢のような切っ先。
だがそれは、アージェに達する前に別の剣によって弾かれる。淡々とした声が夜の廊下に響いた。
「おいおい、怪我してる子供相手にこれはちょっと大人げないだろ」
隙のない足捌きで割って入った男は自分の剣を払う。
それを見たアリスティドは目を丸くし―――― そして笑った。
「なるほど。お前が彼の教師か」
「さぁね。教師なんてろくでもないものになった覚えはないな」
ケグスはアリスティドに向けて剣を構えなおすと、面白くもなさそうに言い捨てた。



アージェは目の前に見える男の背中を唖然として眺めながら、左手で自分の肩を確認した。
そうしなければ現実を信じられないくらい、「刺される」と確信していたのだ。
しかし当然ながら肩には何の怪我もない。少年は師である男の名を呼んだ。
「ケグス」
「こっちは時間稼いでやるからあの女何とかしろ。魔法士が加わったら不味い」
言われてアリスティドの後方を見てみると、エルは尻餅をついたままながらも、ルトを追い払おうと右手を振るっていた。詠唱をせずとも使える魔法があるのだろう。小さな赤い光球が指先から放たれる。
アージェは頷くとその場を駆け出した。
「ごめん!」
「出世払いで返せよ」
そう広くもない廊下は、すれ違うにはぎりぎりの幅しかない。
だがアージェはケグスを信じて、アリスティドの脇を走り抜けた。
アリスティドは少年を横目で見ながらもその進路を阻もうとはしない。それをすればすぐさま正面の傭兵に隙を突かれることは明らかだった。彼は改めて大きく息をつく。
「エル、犬と子供は友達だ」
「頭大丈夫か?」
弟子よりも容赦ない言葉を浴びせてくる男を、アリスティドは真面目な顔で見返した。落ち着いた、優美とも言える仕草で剣先を上げる。
「では改めてお相手頂こう。……ああ、名を聞いてもよいか?」
「覚えられたくない。適当に呼べ」



背後で相対している二人は気になるが、アージェもアージェでしなければならないことがある。
彼は赤い光球に追われているルトのもとにたどり着くと、剣でその光球を払った。途端、嫌な音をして刃に皹が入る。
「まじ?」
魔法を甘く見ていたつもりはなかったが、この結果はさすがに予想外である。
アージェは立ち上がろうとしているエルと、使い物にならなくなってしまった剣を交互に見やった。直後、いさぎよく剣を床に投げ捨てる。
「結局こうなるのか……」
ぼやいてはみたものの、女相手に斬りつける気になれないことも確かだ。
アージェは半ば予定調和の気分で、左手の手袋を再び取り去った。漆黒の指をルトへと向ける。
無言での呼吸。灰色の犬は頭を垂れて首筋に糸を受け入れた。
エルは少年の左腕と、そして変貌していく犬に両目を大きく見開く。
「あなた、もしかして」
「あんまり怪我はさせたくない」
普通であれば弱い側の人間から言いはしないであろう言葉。
しかし魔法士の女はそれを笑いはしなかった。緊張の色濃い顔で立ち上がる。
彼女は横目で主君を確認すると両手を僅かに開いた。
「私も怪我はさせたくないわ。―――― でも、無理かもしれない」
白い指。その手の中に生まれる「何か」を、アージェは見て取ることが出来ない。
だが彼は、そこに何かがあることを直感した。左手の糸をルトから切り離すと意識を集中させる。
―――― あの遺跡において、黒い短剣を生み出したのは「彼女」で、アージェではない。
彼にはまだそれが出来ないのだ。「彼女」は「あなたにははやい」と言っていた。
けれど彼は、自分の中から道が拓けていくあの時の感覚を今でもはっきりと覚えている。
その感覚が、糸をより深く……他者にも見えるほどに実体化させた。
アージェは左手から伸びる十数本の糸を眺む。
「……やりにくそうだな。縛れるのかな」
それは気になるところであったが、気にしても仕方がないだろう。
今はただ彼女を無力化させることだけ考えればいい。
彼は、自分の意思に即して動く糸を宙に揺らめかせた。糸の隙間からエルの強張った顔が見える。
彼女は詠唱の代わりに、消え入りそうな囁き声で問うた。
「あなたは……女皇の命令でここに来ているの?」
「女皇? 誰それ」
反射的に聞き返してしまってから、アージェは遺跡でのやり取りを思い出す。
『最古の女皇クレメンシェトラ』
エルの言う女皇とは、その人物のことなのだろうか。
だがそうだとしても、知らないことには変わりがない。
少年はそれ以上何も言わず、冷たい床を軽く蹴った。