灰の剣 063

強く可視化させた「黒」は、物体に触れることも出来る。
アージェはそれを遺跡での経験から既に学んでいた。
彼は魔法士の女を挟撃するように、ルトと左右に分かれて走りながら左手を振るう。
彼女の足に巻きつくよう宙をしならせた糸は、しかし火花が散るような音と共に大きく弾かれた。アージェは糸を一旦手元へ引き寄せる。
彼の黒い糸がそうであるように、魔法にも可視のものと不可視のものがあるらしい。
改めて用心するよう認識しつつ、少年は再び糸を投げかけた。ちょうどルトに相対していた女の左腕を絡めとる。
「ルト!」
漆黒に染まった犬は、機を見逃さず巨体を跳ね上げた。エルを押し倒そうと正面から飛び掛る。
しかし女はそれを、右腕を上げただけで空中に留めた。
見えない何かにぶつかったルトは、宙で反転すると床の上に着地する。
その隙にアージェは左手の糸を思い切り引いた。体勢を崩した女は床に手をついて、横転することだけは何とか防ぐ。
更に糸を引き寄せようとした少年の耳に、女の力ある言葉が聞こえた。
「溶け、消え、薄れよ。澱みの手よ」
大して大きくもない柔らかな声。けれどその音は、左腕にかかる黒糸の拘束を緩めた。
女の細い腕が緩んだ糸の中をすり抜けていくのを見て、アージェは目を丸くする。
「何だそれ……」
軽くぼやきながらも彼は手を止めることはしなかった。解かれた糸を操り、今度は彼女の足首を捕らえる。
エルの表情がそれに気付いて焦りに変わった。彼女は再び拘束を解く為の詠唱を始めようとする。
けれどその時、女の死角からルトが飛び込んできた。黒い塊の体当たりを受け、彼女の体は床の上に転がる。
狼より一回り大きいほどのルトは、横倒しになったエルの上に圧し掛かり、彼女の両腕を押さえ込んだ。
アージェは溜息に似た息をつきながら、女の傍へと走り寄る。何かを言おうとするエルの口を手で押さえた。
「怪我させたくないんだよ。逃げたいだけだから」
―――― こうも簡単に彼女を拘束出来たのは、相性がよかったのだろう。
いくら腕の立つ魔法士であっても、無詠唱で行使出来る魔法には限界がある。
おまけに狭い場所で、相手の片方は動物だ。両方の動きを把握することさえ常には難しい。
優秀な魔法士だというリィアも、かつてのルトには歯が立たなかったのだ。
アージェは内心色々な意味でエルに同情しつつ、その口に丸めた布を押し込んだ。同様に布を裂いたもので女の手を後ろ手に縛る。
「よし、これでいいか」
作業を終えて立ち上がると、ケグスはまだアリスティドとやりあっているようだった。
といってもケグスは嫌そうな顔で相手の剣を受け流すことに専念している。防戦に専念した方が確実だと判断したのだろう。
アージェはもう一度エルを見下ろし、彼女が涙目でもがいていることを確認した。
「ごめん。あとであの人に解いてもらって」
若干の申し訳なさに、彼はエルの頭を撫でるとアリスティドの方へと向かう。
ケグスと睨みあっていた男は、気配で気付いたのか振り返った。アージェとその後ろで倒れているエルを視界に入れる。
「エル! どうした!」
緊迫した声で呼びかけようとも、彼女は答えぬままである。口を封じられているのだからどうしようもない。
だがそれは、廊下の薄暗さや倒れている角度とあいまって、アリスティドには分からぬことなのだろう。男は体を震わせてアージェとルトを見た。ついでがっくりと項垂れる。
「よくもエルを……」
「え。そう来るの?」
「もう付き合い切れねえよ。さっさと逃げるぞ、アージェ」
疲れ果てたようなケグスの声に少年は頷いた。頭を垂れたまま動かないアリスティドの横を、そっと通り抜けようとする。
しかしその時、頭の中で女の声という警鐘が鳴り響いた。
(ふせて)
アージェはその声に半ば頭を押さえられるようにしてしゃがみこむ。
同時に頭の上すれすれを、長剣が恐ろしい速度で薙いでいった。遅れて過ぎる風圧が、少年の髪を吹き上げる。
―――― 少しでも遅れていたら、首が飛んでいた。
そのことを実感して、アージェの背筋は冷える。彼は腰を落とした体勢のまま、アリスティドを見上げた。
男の双眸は紛うことなき激情に揺れている。
「エルは私の大事な友だったのだぞ!」
「え。あ、うん。ごめんなさい」
「それをよくも、物言わぬ体に……」
「あれ。合ってるけど何か違くない?」
「問答無用!」
叩きつけるように頭上へと降りかかる剣を、アージェは横に転がって避けた。
更なる追撃を駆け寄ってきたケグスが剣で弾く。彼はまだ体勢を低くしているアージェに目線だけで己の背後を示した。
「ほら、とっとと行け!」
「でもケグスは」
「後からすぐ行く。長くは持たない」
それは明らかな事実である。
アージェは頷くところげるようにケグスの横を抜け、走り出した。背後から剣同士がぶつかりあう激しい金属音が聞こえる。
少年は先程ディーノリアを逃がした窓の前まで行くと、ケグスを振り返った。
「ケグス!」
「先行け」
短い返事は余計な言葉がない分、アージェを不安にさせた。
ケグスはそれ以上言う余裕がないのだ。もっと言えば、離れる余裕がない。
苛烈としか言いようのないアリスティドの剣捌きは、そう長くないうちにケグスを斬り捨ててしまいそうでアージェは蒼ざめる。彼は外に踏み出しかけた足を廊下に戻した。隣にいるルトに呟く。
「戻って……」
「行け!」
重ねての声。
アージェはこの時ようやく、本当の恐怖に襲われた。
かつて暗い森の中、味わった喪失が甦る。彼は半ば無意識に、衝動的に、夜の廊下へと向き直った。
熱くなる左手。女の声が囁く。
(いま、ころしておいたほうが、いいわ。かれも、けいしょうしゃだから)
「出来るのか」
(この場所なら)
彼女の誘惑は、耳に心地よい歌のようだった。
アージェは頷いて左手をかざす。彼の意思と彼女の導きに呼応し、夜の闇がゆらりと蠢いた。
少年はそれが何であるか―――― 魂の根底で理解する。
「行くぞ」
目に見えぬ世界を引き上げる力。彼はその標的を、剣を振るうアリスティドへと定めた。
黒い靄が荒れた波のように跳ね上がる。



一人の人間を飲み込み食らおうとする闇。
しかしその手がアリスティドの足を捕らえかけた時、アージェの顔の横を何かが掠めていった。
「……っ!?」
剣を振り上げていたアリスティドが大きく後ろに跳ぶ。その前を、鈍く光る投擲用の短剣が通り過ぎた。
アージェは身構えながら振り返る。
短剣が飛んできた方向であるそこには、少女に見える二人が寄り添って立っていた。少年は思わず目を丸くする。
「テス。ディーノリアも」
小間使いの格好をしたままの男は、無言で頷くと更に短剣を投擲した。
それは的確にアリスティドへと向かい、彼は再び距離を取る。巧みな牽制が続く間に、ケグスは身を翻しアージェのところまで戻ってきた。彼はテスたちを一瞥すると「戻ってきたのか」とだけ呟く。
「ディーノリア様が、あなた方が心配と仰った」
「そりゃ大したお姫さんだ。いつか命取りになるかもしれんがな」
ケグスは言いながら左手でアージェの頭を押さえ込んだ。
反省しろと、言外に言われているようで少年は神妙な顔になる。ディーノリアは姿形の違うルトをテスの影からこわごわ見ていたが、アージェに視線を移すと消え入りそうな声で囁いた。
「よくぞご無事で……」
「まだ無事に帰れるかどうか分からないけどな。―――― おい! 馬鹿王子! その女生きてるぞ!」
「何だと!? エル、本当か! 返事をしろ!」
―――― やっぱりあの男は馬鹿なのかもしれない。
ケグスの指摘に飛び上がって女の元に駆け寄りつつ、「返事がないぞ! 大丈夫か!」と連呼している男を、アージェは何とも言えない目で見やった。
だがこれは紛れもない好機だろう。アリスティドの頭の中身について考えている場合ではない。
四人はそそくさとその場を逃げ出した。ダルトンたちのいた方向に向かって、城の裏を走っていく。
暗い城の敷地内は冷えた風が吹き、まるで人間たちの騒々しさを嘲笑うかのようだった。
アージェは周囲を窺って草の上を駆けながら、先程のことを思い出す。
―――― 自分が、異能を以って人を食らおうとした。
それは思い起こせばぞっとするような衝動で、アージェは吐き気とも怒りともつかぬ嫌悪感を我が身に抱いて仕方なかった。漆黒の左手を強く握り締める。
これ以上身近な人間を喪いたくないと思ったことは事実だ。
だが何故、「彼女」の甘言をすんなりと受け入れてしまったのか。
かつて夜の森でアージェの母親を屠ったのは「彼女」で、その仇の言うことを聞くなどどうかしている。
けれど先程の彼は、その異常をいとも容易く受け入れようとしていたのだ。
アージェはいつの間にか、自身の体の中にまで黒い靄が澱んでいる気がして、走りながら叢に向かって唾棄した。乾いた喉の奥に血の味に似た苦味が広がる。

人の煩悶を押し隠して飲み込む夜。
走り慣れないのかディーノリアの苦しげな息の音と、草を踏む自分たちの足音だけが近く聞こえる。
だがそれは、他が静けさを取り戻したということではないだろう。
アージェは険しい表情のままのケグスを横目で見やった。
その視線に気付いているのかいないのか、男は呟く。
「不味いな……」
「ケグス?」
何が不味いのか、少年が問おうとした時、テスが不意に足を止めた。彼はディーノリアを背後に庇って木々の向こうを睨む。
城の北西にあたる建物の影。そこには、ダルトンが一人月光の下に巨躯を佇ませていた。
彼の足下には、二人ほど男が倒れているのが見える。暗いこともあって、彼らは生きているのか死んでいるのか分からなかった。
しかしアージェは、それよりもカタリナがいないことに首を傾げる。ダルトンを呼ぼうと口を開きかけたが、ケグスがその口を手で塞いだ。
「待て」
「う?」
「―――― 出てくればいい。既にこの一帯は包囲済みだ」
朗々と響く男の声。
それはダルトンのものではなく、勿論ケグスやテスのものでもなかった。
この城を取り仕切る王太子フィレウス。今夜は毒殺までされかけたという彼が、護衛の騎士たちに囲まれダルトンの前に現れる。
フィレウスは、頭を掻いているダルトンではなく、アージェたちが潜む木々の影に向かって声を上げた。
「既に城内に入り込んだ者たちは制圧している。あとは詳しい調査を行うだけだ。
 勿論お前たちからも話を聞かせてもらおう。
 私としてはきちんとそれぞれの言い分を聞いた上で判断をするつもりだ。出てくるがいい」
余計な感情は差し挟まぬ実務的な呼びかけ。
しかしそれを聞いて、テスの体は強張った。ディーノリアが不思議そうに彼を見上げる。
アージェはケグスに囁いた。
「どうする?」
「……出て行くしかないだろうよ」
何もかも投げ捨てたそうな男の様子に少年は息をつく。
そしてアージェは闇の支配する夜の中から歩み出ると、半日ぶりに王太子の前に立ったのだった。