灰の剣 064

青白い月光に照らされたフィレウスは、平素から血の気の薄い顔色をしているが、今はより一層蒼ざめているようだった。頬には濃い影が差しており、心なしかやつれて見える。けれどそれは、毒殺されかけたという経緯の為なのかもしれなかった。
彼はしかし、背筋の伸びた端然たる立ち姿を見せており、姿を現したアージェたちを落ち着いた目で睥睨する。
テスの影にいたディーノリアが、恐る恐る前へと出た。
「フィレウス様、あの……」
「貴女は」
少女の言葉を遮った声は、ひどく冷たく夜気を震わせた。
アージェ自身、そこに情のなさを感じ取って居心地の悪い気分になる。
フィレウスは氷を思わせる双眸で少女を見下ろした。
「今回のことに貴女が関わっているか否か、それはこれから明らかになるだろう。
 ただこれだけは確かだ。私は貴女を妻にすることは出来ない」
淡々とした宣告。
それを聞いたディーノリアは一瞬、壊れた人形のような顔を見せた。
関節が捻じ切れ崩れてしまったかのように、彼女の表情から生気が薄れる。
倒れそうに揺らぐ少女の体を、テスが横から支えた。
「わ、私……何も知らないのです。一体何があったのでしょう……」
「大したことではない。よくあることだ。
 調査が終わるまで貴女は城にいてもらうことになるが、それが終われば屋敷に帰ることになるだろう。
 もっとも、貴女に何の罪もないと証明された場合のことだが」
「罪など……」
ディーノリアは両手で顔を覆うと、消え入りそうな声で「お父様が……」と呟いた。
それ以上何も言わない彼女から興味をなくしたように、フィレウスはアージェに視線を移す。
少年は自分の左手が露出したままであることを思い出し、苦虫を噛み潰したような表情になった。思わず後ろに隠したくなるが、それをしては余計に注意を引いてしまう気がする。彼は堂々とフィレウスを睨みつけた。
「それで? 俺たちはどうなるんだ」
「……このようなことになってしまい、非常に残念だ」
「こっちの台詞だよ」
招かれたくて城に来たわけではないし、されたくて軟禁されたわけでもない。
しまいにはわけの分からぬ襲撃に巻き込まれるなど不本意の極みだ。
アージェは険悪な雰囲気になることも厭わず吐き捨てた。
少し離れたところではダルトンがあからさまにではないが苦笑を見せている。
だがフィレウスは少年の刺々しい反応にも動じず、落ち着いた様子で頷いた。
「今回の件に関しては、襲撃者に侵入を許した私の落ち度だ。不手際を詫びよう。
 ただもうこれ以上問題を起こさせる気はない。君たちには元の部屋に戻ってもらう」
「だがなぁ、俺たちにはイクレムに居つく気はないんだよ」
普段通りののんびりとした声で割って入ったのはダルトンだった。フィレウスは体の向きを変え傭兵の男に向き直る。
「何故だ? 待遇が不満か?」
「不満っちゃあ不満だけどな。俺は……他の奴らもそうだが、一国の兵士になりたくはないのさ。
 傭兵なんてあんたから見たらけちな仕事だろうが、それなりに自由と拘りはある。
 それを捨てたくないってだけの話だ。期待に添えなくて悪いがな」
男の言葉は、やんわりとした口調ではあったが、交渉の余地がはなからないことを示していた。
自由に、堂々と、戦場を渡り歩く男。大陸にその名を知られる彼の生き様が、短い言葉の中には切り取られている。



冷えていく夜気。
端的な拒絶にあい、だがフィレウスはそれでもダルトンの意思を探ろうとするように、冷徹な目で彼を見据えた。けれどすぐに相手に譲る気がないと悟ったか小さく息をつく。落胆しているようにも見える男の様子に、アージェは意外さを覚えた。
少年が、支配者たる王族たちに抱いている印象とは「まず我を通したがる」ということである。
もっとも王族などフィレウスやアリスティドの他に知らないのだから、これは単なる偏見の類であろう。
だがアージェは心の何処かで「フィレウスはきっと、ダルトンが拒否することを認めはしないだろう」と思っていた。
予想を裏切られた感を味わい、少年は目をしばたたかせる。
しかし話はまだ終わってはいなかった。
フィレウスは次に、アージェの黒い左腕を注視する。
「その腕は何なのだ?」
「見たまんまだと思うけど」
そっけなく返すと、王太子は顎に手を当て沈黙する。
けれどその沈黙は、何かを考え込んでいるような、不穏な空気を感じさせるものだった。
フィレウスはしばらくして顎にかけていた手を下ろす。
「お前はギネイの生まれだと言っていたな?」
「そうだけど」
「今まで国を出たことは?」
「なんで? 今回が初めてだ」
「ギネイからイクレムに直接来たと」
「そう」
何故そのようなことを確認されるのか。
似たような質問は以前簡易の身分証を作った時にも問われたが、何だかおかしな雰囲気に少年は後ずさりたくなった。隣のケグスを見上げると、彼も何だかよく分からないようで軽く肩を竦めてくる。
フィレウスは頷くと質問を変えた。
「では、お前のところに誰か他国の使いが来たことは?」
「使い? 誰だよ」
「女皇の命を受けた誰かだ」
「知らない」
―――― また女皇かとアージェは眉を顰めたが、問いについては率直に答えた。
そもそも国や王族と接するなど今回が始めてである。フィレウスが何を確かめたいのか、アージェは訝しげな目を返した。隣のケグスが、彼にしか聞こえぬ程の声で「そうか……」と呟く。
何か分かったのかアージェが聞きたく思った時、王太子もまた何かを思い出したのか、視線を上げた。
「お前が最初に拘束された時、確かログロキアの貴族の娘と一緒だったそうだな。ケレスメンティアと縁のある……」
「ああ―――― 」
レアのことか、と少年が返そうとした時、ケグスが何かを落としたのか屈みこんで足下に手を伸ばす。
アージェは彼の動きに気を取られて言葉を切った。冷えた風がその場を吹きぬける。その風に乗ってフィレウスの「考えすぎか?」という独り言が聞こえた気がした。

よく分からぬ方へと流れていくやり取り。
しかしそれは、何の結論もなく唐突に終わることとなった。何かの思考に気を取られていたらしいフィレウスが、軽く頷いてアージェを見やる。
「分かった。それについてはおいおい確認しよう。まずお前には部屋に戻ってもらう」
「……嫌だ。俺も国になんて仕えたくない」
「仕える仕えないの問題ではない。お前を自由にしておくことは出来ないのだ」
「何だそれ。継承者ってのはそんなに重要なのか?」
憤りを込めた反問にフィレウスは答えなかった。代わりに右手を軽く上げ、それを合図に騎士たちがアージェの方へと向かってくる。
ゆっくり彼らを包囲しようとする男たちは、皆それぞれ白刃を抜いていた。その中には先日行動を共にした若き騎士、シュマの姿も見える。
アージェは左手を握りなおしながら、近づいてくる騎士たちを睨んだ。
―――― 何故自分が不当に拘束され続けなければならないのか。
諦観よりも苛立ちが腹の底を焼く。
逃げ出せるものなら逃げ出したい。
だがそれは、やはり不可能なことなのだろう。
今いる場所からは見えないが、背後もとうに包囲済みに違いない。風に揺れる葉々が哄笑のようにざわめいた。
少年は隣に立つ男へと囁く。
「ごめん」
「ん」
反省を促すようなことを今この場で言わないのは、ケグスなりの気遣いなのかもしれない。
アージェは大きく息を吐き出して夜空を仰いだ。未熟な自分への苛立ちと、その自分をいいように扱おうとする人間への嫌悪感が頭の中で渾然となる。彼はしかし、癇癪に変じそうなそれらの感情を苦々しくも嚥下した。
いずれは何とか出来る好機が来る―――― そう信じて彼は気分を切り替える。
顔を戻したアージェは、テスに支えられたままのディーノリアを見やった。
「大丈夫?」
「ええ……」
彼女もまた巻き込まれた被害者なのだろう。だがその行く末は、アージェとはまた違った方向に不透明だ。
彼はテスがひどく思いつめた冷たい目をしていることに気付いて、余計なことをしなければいいと不安になる。
だがその場の転機は、まったく別のところから訪れた。



「そろそろか?」
幕が引かれつつある夜。暗闇に落とされた言葉。
それは一人離れたところに立つダルトンのものだった。
フィレウスが、そしてケグスが彼の方を窺う。
揺れる草、伏したままの男たち。何ら変哲のない光景のそこに、不意に軋むような空間の乱れが現れた。
ダルトンは笑ってアージェたちを手招く。
「ほら坊主、来い」
「え?」
「行くぞ!」
「魔法士か!?」
「止めろ!」
一瞬のうちに幾人かの叫びが交錯する。
決しかけた終わりを覆す混乱。
その最中を突っ切るように、アージェは促されるまま地を蹴った。ダルトンと、彼の前に開いていく転移門を目指して走る。
城の結界を越えて繋げられた門は、水のヴェールをかけたように景色を揺らめかせるとそのまま宙に展開した。
それを打ち消そうと城の魔法士が走り出る。しかしその時、転移門の中から一人の少女が飛び出した。
草の上に着地した彼女は、迷うことなく城の魔法士たちに向かい右手を大きく払う。
「構えろ。射よ。貫きの矢」
「リィア!?」
アージェが知己である少女の名を呼ぶのと、彼女の放った矢が魔法士たちに命中したのはほぼ同時であった。
リィアは更に詠唱を重ね周囲に結界を張ってしまうと、ようやくアージェを視界に入れる。
「ほら、早く入んなさいよ!」
「何でこんなところに」
「仕事よ仕事。割に合わない仕事で受けて損した!」
「阿呆か」
呆れたような一言を残して、ケグスがまず転移門の中に消えた。
ダルトンは前に出て、真っ先に駆けつけてきた騎士たち二人をあしらう。
アージェはルトが水鏡のような門の中へ飛び込むのを確認し、後ろを振り返った。
「ディーノリア! 早く!」
蒼い顔をした少女。彼女は緊張が限界に来ていたのか、足をもつれさせ草の上に崩れ落ちた。半歩先にいたテスが彼女に手を伸ばす。
「ディーノリア様」
差し出された手。その掌には、乾いた血がこびりついていた。
一秒にも満たぬ時間、少女は血の跡をじっと見つめる。
テスは彼女の見ているものに気付いて顔を強張らせた。王太子の声が騒々しい夜の中、やけに静かにこだまする。
「今逃げれば、貴女は二度とこの国の土は踏めぬぞ」
岐路を告げる言。
灰色の瞳が大きく見開いた。テスはその目をしんとした表情で見つめる。

ひしゃげてしまった思い出。
偽りの記憶。
彼らの間を繋ぐものはそんな歪な欠片で―――― ディーノリアにとってはしかし、歪な夢こそが現実であった。
その現実が壊れかけた今、テスは何も言うことなく己の手をそっと引く。少女の唇が微かにわなないた。
「テ、ス」
「何やってんだよ!」
テスの背を蹴りつけんばかりにアージェが叫ぶ。
彼は動かない男の脇をすり抜けると、座り込んだままのディーノリアに駆け寄った。彼女を捕らえようとする騎士を黒い糸で払いながら、その背を押し出す。
「自由になりたいなら立て! そうじゃないなら残ってろ! どっちがいいんだよ!」
「自由に……」
「早くしろ!」
アージェの手に押され、ディーノリアは腰を浮かす。
彼女は立ち尽くすテスを見上げ、倒れこむようにその手に己の両手を伸ばした。血に汚れた男の手を、少女の両手が包み込む。
「テス、連れて行って」
「……ディーノリア様」
「行きましょう、私――」
自由になりたい、と少女の唇が動く。
自らが作り上げた慰め。その虚構の中でもがく彼女の、掌だけは偽りのない温かさに満ちていた。
テスは固く頷くと少女の体を転移門へと押しやる。
続いて彼自身が門へと飛び込むのを見て、アージェはほっと胸を撫で下ろしたい気分になった。
勿論そのような余裕はなく、すかさずリィアの罵声が飛ぶ。
「早くしなさいっての! 結界破られちゃう!」
「ごめん!」
もはや周りを確かめている時間はない。
アージェは躊躇わず転移門へと跳躍した。
気圧の変わるような不思議な感覚。周囲の世界が溶け、溢れ、変遷する。
それはしかし束の間のことで―――― 次の瞬間彼は、何処とも知れぬ部屋の中に立っていた。