女皇の騎士 066

遠く南東の領地を統べるムグル・ディーロ・イクレムが、陛下に叛旗を翻してから半年。
彼の者の進軍は留まるところを知らず、既にここに至るまで四つの城が焼かれた。
そして今、貴奴の五つ目の餌食となるであろうこの城は、デイロ平原での戦闘に破れ敵軍に包囲されている。
残存兵力はない。今、城内にいる者は傷病兵や女子供、そして学者たちだけだ。
ムグルは弱き者にも容赦はしないと聞く。夜明けまでにこの城は滅びるだろう。
多くの罪なき者の躯と共に、何の慈悲も与えられず地図の上から姿を消すのだ。
城内には腐った血と肉の匂いが立ちこめ、まるで一足早く死の薄布が被せられているかのようだ。
風に乗って何処からともなく子供のすすり泣きが聞こえてくる。

神代から現在まで、この大陸においては数百万もの城が築かれ、そして陥落していった。
その末席に我が城が連なること、慙愧の念に耐えない。
このようなことになるなら、ニーナをもう一年早く君に嫁がせておけばよかったと、深い悔恨を抱くばかりだ。
妹は、ムグルの手にかけられることをよしとしないであろう。門が破られたその時には、塔から身を投げるに違いない。
そのような女が既に何人も見張り塔の部屋に閉じこもっている。
私にそれら悲劇を止めることは出来ないのだ。私もまた、彼女たちと同じ道を辿る。

願わくば、友よ。君の未来が平穏であるように。
この国が抉られし傷を癒し、あるべき姿を取り戻すように。
そしてムグル自身の流す血が、いつかログロキアの地に染みて我らの無念を慰めんことを望む。

ログロキア暦三百十五年七月二十二日
ログロキア国ズニーゴス領領主フラメン・ディ・ズニーゴス











ログロキアへと転移によってやって来た晩、アージェたちが泊まった屋敷はどうやら王家に連なる有力者のものであったらしい。
彼らは歯切れの悪いカタリナの説明からそのことを知ったのだが、肝心の人物が誰であるのか彼女は教えてくれなかった。
どうやらカタリナとは元々面識のある人間らしいのだが、彼女の批判を素直に受け入れてくれるような関係の相手ではないらしい。
イクレムへの襲撃について苦言を呈したという彼女は、逆に叱りつけられて帰ってきたようだ。
蒼ざめた顔で苦笑したカタリナは、その晩は「とにかく身の安全は保障するから」とだけ彼らに確約した。
兵士の宿室のような質素な部屋での一泊。
前日の疲労が微かに残る体で起きてきたアージェは、食事の席で彼女に再会する。
昨晩よりも顔色がよく、ほとんど元に戻ったかのような様子のカタリナは、パンをちぎりながらこれからについて説明した。
「まずねえ、拘束とか軟禁とかそういうのはなし。
 この城都内―――― あ、ここログロキアの城都なんだけど、この中を好きに探索してもいいし、出て行ってもいい。
 ただ前の夜のことは他言無用。あとイクレムには行かない。これが条件なんだけど……どう?」
「充分」
ケグスのきっぱりとした返答に、女は安堵の表情になった。
元々彼らはイクレムを出たがっていたのだ。これはちょうどよい条件だと言っていいだろう。
カタリナが温かいお茶を手に取る間に、アージェは果物の皿に手を伸ばした。
「それなら俺、探してる魔法士のところに行きたいんだけど」
「ああ、いいんじゃないか? 居場所分かってるのか?」
「大体なら」
旅の目的である魔法士。多くの難病にその力を発揮してきたという男は、ログロキアの城都内の西地区に住んでいるという。
具体的な住居の場所までは分かっていないが、高名な魔法士であれば近くで聞けば分かるだろう。
アージェは、今は包帯を巻いてある左手を見やった。
―――― あと少しで、この黒を払拭してしまえるのかもしれない。
それは村を出てからずっと願っていたことで、だがいざ目的地を目前にしても、まだ実感の伴わぬことでもあった。
彼は左手の指を順番に握り込んでみる。
「坊主はその魔法士に会ったら村に帰るのか?」
「んー、いや、戻らないと思う」
あえて感情を出さずに言うと、ダルトンは「そうか」と頷いた。
それ以上問わぬ男の気遣いに内心感謝しつつ、アージェは剥いてしまった果物の皮を皿に戻す。
村ではまず見ることのなかった紫色の果実。甘酸っぱく舌に残る味は、柔らかい果肉を噛み下しても長く口内に残った。
一通りの品に手をつけたアージェは、最後に手を軽く拭く。お茶を飲んでいたカタリナが立ち上がった。
「じゃ私は学府行ってくる。みんなは宿、何処に取る?」
「どっか適当。多分南のサット通り。俺の名出して聞きゃ分かる」
「分かった」
普段から掴み所のない女は、薄い笑顔を浮かべて部屋を出て行った。
その背を無言で見送ったアージェは、ふと彼女の座っていた席に視線を移して顔を顰める。
「カタリナ、全然食べてないじゃん」
皿の上のパンは小さく小さくちぎられていたが、ちぎられているだけで少しも減ってはいない。
少年は彼女の抱える心労を思って眉を曇らせた。
「大丈夫かな」
「平気だろ。あいつあんなんでもいい年した大人だからな」
「あんまり年相応に見えないんだけど」
「見えようが見えまいが関係ない。人間ってのは、自分が生きてきた年月に伴う責任を負ってるもんだ。
 一人で旅をするような人間なら尚更だろ。あいつのことはあいつが自分で判断する」
「うん」
まず自分の心配をしろと、言われた気分になってアージェはそれ以上の拘泥をやめた。そろそろ出発すべく立ち上がるとダルトンが「一人で平気か?」と聞いてくる。
一見頼りなく思えても、カタリナには自分の判断が求められ、アージェには彼を見守る大人たちの声がかけられる。
それが大人と子供の違いで、アージェに与えられた猶予でもあるのだろう。
彼は、一刻も早く自分のことは自分で出来るようになろうと、改めて心に決める。
それにはまず目的の魔法士を見つけ出すことだ。
少年はカタリナにもらった城都の地図を手に、部屋の出口へと向かった。扉に手をかけ二人を振り返る。
「じゃ、行ってくる」
「気をつけていけよ、坊主」
「うん」
ダルトンが軽い挨拶をする間、ケグスは何故か探るような目で自分の弟子を見ていた。
アージェがもう一度「じゃあ、後で」と言うと、男はようやく口を開く。
「アージェ、お前、自分の本当の親について何か知ってるか?」
「へ?」
その質問はまったく予期していなかったもので、アージェは答も分からない。
結局少年は大きく首を傾げると
「全然知らない」
と言って、主人の分からぬ屋敷を出て行った。



ログロキアの城都は、居並ぶ建物や行き交う人々からして落ち着いた印象を受ける街だった。
多種の学科を擁する学府で有名な「歴史と学問の国」との評判も頷ける佇まい。
古い石造りの壁や街路など派手な色彩のまったくない風景を、ルトを連れたアージェは感心の目で眺め渡す。
旅の間にカタリナから教えてもらったことではあるが、ログロキアはイクレムが独立した際に武力を削り取られ、その後残された学者たちや図書館をせめてもと守ったことで、かえって周囲の戦乱から逃れられたらしい。
イクレムに復讐する力もなく、ただ古い知識だけを抱え込んだ王国は、最盛期の規模の五分の一の小国となってからは、あえて侵略する価値もない国と看做され、今日までの間時を刻み続けたのだ。
それは学問に一生を捧げる者たちにとっては、この上ない環境として映ったのだろう。ログロキアには多くの国から学徒を志望する若者が集まり、学府は他国でも一目置かれる機関となった。
だが、ログロキアという国自体を重視する者はそう多くない。
この国はまるで、イクレムに領地のほとんどを削り取られた時代から時を止めてしまったかのように、忘れ去られた振り向かれることのない存在となっていた。

「っても昨日のことがばれたら、思い切り振り向かれると思うんだけどな……」
頭を掻きながらの呟きは、言った少年以外誰の耳にも拾われることはない。
アージェは地図を頼りに埃っぽい石畳の上を歩いていった。通行人の何人かが、行き過ぎながら彼の包帯に目を留めていく。
少年はそれらの視線に気付いて地図から顔を上げた。
「あー、手袋買わないと駄目か」
買出しは面倒ではあるが、手袋がなければないで不便である。
アージェは「あの時落とすんじゃなかった」としみじみ後悔しながら周囲を見回した。
もっとも、イクレムと違い道沿いには古い建物が並ぶばかりで、店らしい店は一つも見えない。
少年はもう一度地図を見直したが、そこには地区と通りの名前が書いてあるばかりで、いちいち店について記されてはいなかった。
アージェは少しだけ考え、だがあっさり結論を出す。
「途中で店見つけたら買えばいいか。なかったらないで後でカタリナに聞こう」
方向感覚に自信がないわけではないが、見知らぬ街で手袋を扱っている店を探し回るなど、いくらなんでも面倒くさい。
彼は地図を頼りに、何度か人に聞きながら西地区へと向かった。気のせいか目的地に近づくにつれ、街並みが少しずつ、薄汚い暗いものへと変わっていく。
通行人たちも、それまで灰色や茶色のローブを着た者ばかりであったのが、擦り切れたような襤褸布を纏った子供や鋭い目つきをした男たちなどに変わっていった。アージェは思わず腰に提げた短剣を手で確認する。
未だ自分の長剣を持っていない彼だが、それはダルトンやケグスも同じである。
イクレムで己の剣を取り上げられたまま取り返せなかった彼らは、便宜上今は兵士たちから奪った剣を持っているはずだ。
一方それさえも魔法によって砕かれてしまったアージェは、ダルトンから借りた短剣だけを佩いている。
「剣も買わなきゃいけないんだよな……こっちは親父さんに見立ててもらった方がいいか」
長剣がないということはいささか不安だが、ないならないでどうとでも出来るだろう。
アージェは隣を行く犬を見下ろした。
「いざとなったらお前もいるし」
何気ない述懐に、ルトは半眼で少年を見上げる。
アージェは目的の地区へと続く角を曲がった。道の先にしゃがみ込んで石を集めている小さな子を見つけ、その脇に屈みこむ。
「ちょっと道聞きたいんだけど、いい?」
「おかねくれるなら」
「分かった」
アージェは財布から硬貨を二枚出して砂に汚れた手に握らせる。
五、六歳であろう性別の分からぬ子供は、それを見て嬉しそうな顔になった。
「どこいきたいの?」
「人を探してるんだ。難しい病気も治せるって有名な魔法士」
「コデュのこと?」
「コデュ? そういう名前なのか。―――― うん、じゃあ、その人」
当の魔法士の名前までは、アージェは聞いていない。
紹介してくれた魔法士も「ログロキアに腕のよい魔法士がいる」という評判を教えてくれただけだったのだ。
ただ国外にまでその評判が届くくらいの男なのだから、尋ねて間違うことはないだろう。
アージェが頷くと、子供はすっと立ち上がる。土にまみれた指先が彼の顔を指した。
「じゃああんたは、ごみやま行きだ」
「え?」
幼い声音で発せられた予想外な言動に、アージェは一瞬唖然とする。
その時背後でルトの吠える声が聞こえた。彼は振り返ろうと足に力を入れる。
しかしアージェがルトの様子を確かめるより早く、彼の頭上には黒い何かが振りかかり――――
そのまま彼は、声もなく薄汚れた路地の上に昏倒する羽目になったのだ。