女皇の騎士 067

道を聞いていたら突然頭を殴られ気絶させられてしまった。
―――― という事態はどう贔屓目に考えても失態であるし、アージェは自身の失態を贔屓目で見ることはしたくなかった。
自分のことは自分で出来るようになろうと思った矢先、失敗してしまった少年は、鈍く痛む頭を押さえて周囲を窺う。
真っ暗なそこは、どうやら室内のようで、床は木で出来ているようだ。
周囲に生き物の気配はない。ただ辺りには何やら色々転がっているらしく、探る手に固いものがいくつか触れた。
アージェはその中の一つを手にとってみる。少しだけ闇に慣れた目を凝らして、手元の何かを注視した。
「何だこれ……。水差しか?」
彼が抱えるそれは、どうやら金属製の水差しのようである。
何故そのようなものが転がっているのか、アージェは不思議に思いつつも水差しを床へ戻した。用心しながら立ち上がる。
「ルト?」
呼んではみたが応える気配はない。
これは後でさぞ、あの灰色の犬から怒られることだろう。
アージェはそうであればいいなと苦い顔で考えつつ、そろそろと歩き始めた。薄く明かりが漏れている方に向かって音をさせないよう進んでいく。
窓の見えないこの部屋で、縦に伸びる明かりの線はどうやら扉の隙間であるようだった。
その先に何があるのか、少年は息を殺して耳を澄ます。
自分の心臓の鼓動だけが聞こえてきそうな沈黙。しかしすぐに、女の声が扉の向こうから微かに聞こえてきた。
誰のものか分からぬその声は、いささか昂ぶっているようで誰かと言い争いをしているらしい。
仲間割れでもしているのだろうかと、アージェは辿りついた扉の隙間に顔を近づける。
だが次の瞬間、戸は急に彼の方へと開かれた。思い切り額を強打し、アージェは蹲る。
「いってぇ……」
「なんでそんなところにいるのよ」
呆れたような少女の声は、謝る気配を微塵も感じさせない。
後頭部を殴られたり額に戸がぶつかったり散々な頭を抱え、少年は彼女を見上げた。
「あれ、リィア?」
「君、私があげた指輪どうしたのよ」
すれ違う言葉は二人ともを怪訝な表情にさせる。
アージェはとりあえず彼女の言を優先させることにして、自分の首元を探った。革紐を指で探り当て引っ張り出す。
その先に揺れている二つの指輪を示すと、リィアは思い切り顔を顰めた。
「何でそんなところに隠してんの。ちゃんと嵌めてなさいって」
「いやだってこの指輪小さいし……」
正直に彼が言ったところ、リィアは頭をはたいてくる。そろそろ頭部への衝撃が続き過ぎてよくないかもしれない。
しかしそんなことを心配するアージェに、魔法士の少女は白い眼を向けた。
「ついてきなさい。紹介してあげるから」
「紹介?」

アージェが転がされていた暗い部屋は、この家の「いらないもの倉庫」であったらしい。
人間をいらない扱いとはひどい話だが、ごみ山に捨てられるよりはまだましだろう。
勝手知ったる足取りで板張りの廊下を進んでいくリィアに、少年は問うた。
「で、ここ何処」
「私の師匠の家。君が捨てられそうになってたから貰ってきたの」
「ルトは?」
「外にいるわよ。師匠、犬が嫌いなの」
「なるほど」
どうやらルトも無事らしいと分かり、アージェは胸を撫で下ろす。
それにしても道を尋ねただけで捨てられそうになるとは、一体何が不味かったのだろう。
そのことを聞こうとした時、リィアは突き当たりの扉の前で足を止めた。
「ここよ」
「うん。何が?」
「……だから、君の訪ねてきた魔法士」
「へ?」
それはあのコデュとかいう名の魔法士のことだろうか。
意外な展開にアージェが目を丸くしていると、リィアは彼が胸元に下げたままの指輪を指した。
「その指輪が紹介状の代わりだったの。コデュは私の師匠。腕はいいけど変わった人だから……覚悟しなさいよ」
まるで脅しているような忠告。
リィアはアージェの反応も見ず扉に向き直ると、躊躇いもなくそれを押し開いた。
途端中からむっとするような焦げ臭さが溢れ出す。
煙こそ見えないが、中で何かが焼けていたことは確かだ。
まさか火事でもあるまいにと思い、アージェは用心しながらリィアの後について部屋に足を踏み入れた。茶色の壁紙が貼られた室内を見回す。
決して広くないそこは、やはり窓のない部屋である。
しかし先程の部屋と違い、中では十数の燭台がほとんどの闇を払拭しており、心許なさは感じさせない。
多様なものが雑然と棚やテーブルに積み上げられ、混沌を感じさせる中、男は部屋の奥の角にしゃがみ込んでいた。
少し高めの声が、フードに隠された口元からあがる。
「窓がないのは、匂いを洩らさない為だ。近所から苦情が来るからね」
「師匠、まず挨拶してください」
「疑問に答えることが僕の挨拶だよ、リィア」
平然とした声音で嘯く男は、それでも少しだけ弟子の要望を汲む気があるのか、服の裾を撥ね避け立ち上がる。
フードの下の顔が見え、穏やかな双眸がアージェを捉えた。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「相変わらずゆるいですね、師匠」
「生きてるのだるいんだよ」
魔法士の男はそう言って、大きく欠伸した。

アージェがごみ山に捨てられかけた件を、コデュは「新規の客は基本診ないんだよ」と説明した。
どうやら彼は数年前からこの路地裏で隠遁生活を送っているらしく、昔からの客か彼らの紹介がなければ来訪者に会わないのだという。
当然ながらそのことを知っていたリィアは、アージェに紹介のしるしである指輪を渡したが、彼のそれは運悪く見えなかった。
紹介がないと思われる状態でコデュの名を出した少年は、駄賃目当ての近隣住人の手で、危うく街の外へと放り出されるところだったのである。
「久しぶりにリィアに怒られてさ。って言っても会うと必ず怒られるから、久しぶりに会ったんだけど」
「師匠、実験ばっかやってないで、ちょっとは普通の依頼もこなしてください」
「めんどくさ」
椅子に座りなおした男は悪びれる様子もなく子供のように口をとがらせる。
リィアは渋面になったが、何を言っても効果が薄いと知っているのだろう。立っているアージェの方を向き直り、左腕を指差した。
「ほら、それ見せなさいよ」
「あ、うん」
言われて彼は包帯を解く。
肘から剥きだしになっていく黒い肌に、コデュは大きく目を見開いた。
全ての包帯がアージェの右手に巻き取られると、男はほうと息をつく。
「すごいね。ここまで黒いってのは文献にも残ってないと思うよ。神代以来かもしれない」
「これが何の症状だか知ってるんですか? 師匠」
「病気じゃないよ。リィアだって聞いたことあるだろう」
固唾を飲んで結論を待つアージェを、コデュは汚れた手で指差す。
「彼はね、ケレスメンティアの女皇の騎士だ。その一族って言った方がいいかな?
 大陸に彼らしかいない―――― 『澱』を操る異能者だよ」



言われたことは、すぐには頭に入らなかった。
ただアージェはこの左腕が「病気ではない」こと、そして「ケレスメンティアの女皇」と「澱」という単語だけを拾い上げる。
少年は黒い掌を薄気味悪いものを見るような目で凝視した。改めてコデュに確認する。
「病気じゃないって本当ですか?」
「本当。だから治せないよ。それは君の力で、血の現われだ。
 といっても普通女皇の騎士は、褐色の肌に染まるはずなんだけどね。
 そこまで黒いってのは相当潜在能力が強いってことじゃないかな」
「女皇の、騎士……」
今まで何度か聞いた言葉は、おそらくこのことを指していたのだろう。
クレメンシェトラの騎士。「女皇」について彼に問うた人間は一人ではなかった。
彼らはおそらく、アージェが「そう」である可能性に気付いて、確認しようとしていたのだ。
―――― 彼の両親について尋ねたケグスも、或いは。
「俺、まったく身に覚えがないんだけど……」
「だとしてもその力は血によってでしか継がれないはずだよ。一子相伝とも言われてるけど。お父さんは?」
「分からない……捨て子だったから」
「ならケレスメンティアに行ってみれば親に会えるかもね。
 ああ、でも今、女皇の騎士は空席だったんだっけかな」
額に手をあて考え込んでいるコデュを前に、アージェは座り込みたい疲労感に襲われる。
目的の魔法士を探し当て、すぐに腕が治るとまでは思っていなかったが、「治らない」と断定されるとはさすがに予想していなかった。彼は「彼女」が自分を嘲笑っている気がして、無意識のうちに歯軋りする。
そんな彼を気遣ってくれたのか、リィアの探るような問いが聞こえた。
「澱って、瘴気の一種ですか? でも彼、昔はこの腕じゃなかったらしいですよ」
「そりゃ、生まれた時はみんな本来の肌色してると思うよ。あんまり子供の時には魂と肉体が澱に耐えられない。
 だけどね、その力を操れるようになると、肌の色は澱に侵食されてく。
 健康に差し障るってわけじゃないけど、存在が一歩ずつ下りていくんだろうな、この階層の下層に」
「―――― 『澱』ってなんなんですか?」
ようやくアージェが絞り出した質問に、コデュはきょとんとした顔になった。
おそらくそれは、彼にとっては当たり前の知識なのだろう。魔法士は弟子の顔に視線を移し、彼女も首を横に振るのを見ると、椅子に深く座りなおした。
「分かった。じゃあ講義だ。まず結論から教えよう。
 『澱』というのは、この人間階のすぐ下層にある層、っていうか人間階に含まれてるのかな。
 人間の死や情念や強い感情、穢れなんかが澱んで溜まってる階層のことだ」
「瘴気ですか?」
「そうでもある。が、それだけじゃあない。魔力階が人間階の上にあるようにね、下にある澱にもまた力があるんだよ。
 もっともこっちは負に近い性質のものなんだけど」
「負と繋がってるってことですか?」
「あ、すみません、よく分からない」
講義とやらは、魔法士であるリィアを対象にしているのか、前提知識のないアージェには理解しがたい。
コデュは「ああ、そうか」と呟くと、リィアに頷いて見せた。
「リィア、お茶入れてきて。あと板書きしたいから講義用の板持ってきて」
「お茶は淹れますけど……。アージェ、板持ってきてよ。出てすぐ左の部屋にあるから」
「了解」
混乱している思考をとりあえず脇に置き、彼は隣の部屋へと向かう。
薄暗い廊下に出た時ふと連想したものはあの夜の森で―――― アージェは瞬間何もかも虚しくなるような欠落を覚えたのだ。