女皇の騎士 068

アージェが板書用の板を取って戻ってきた時、コデュの部屋からは焦げ臭さが払拭され、代わりにお茶のよい香りが漂っていた。
リィアは板を掛ける場所を指示すると、聴講する自分たちの椅子を部屋の隅から調達する。
その間師である男は何をするわけでもなく、椅子に座って二人の動きを見ていた。ようやく準備が整うとのっそりと立ち上がる。
入れ違いに座したアージェが彼の貌を見上げると、その顔は思っていたより幾分若かった。
三十代半ばから後半といったところだろうか。変わった顔立ちをしているわけではないのだが、何故か薄ぼんやりとした印象を受ける。リィアに紹介されていなかったら、有能な魔法士だとは分からなかったかもしれない。
アージェがそんな失礼なことを考えていると、コデュはくるりと目を動かした。
「人間を見かけで判断してはいけないよ」
「え、いや、ごめんなさい」
「うん。素直だね」
もっともらしく頷くと、彼は石墨を手に取る。
―――― もしかしてこの男は人の心を読むのか、とアージェは戦慄したが、隣にいるリィアが「あてずっぽだから」と耳打ちしてきた。
すぐには信じがたいが、一応弟子として長い付き合いのある彼女が言うのならその通りなのだろう。
少年は若干安堵しつつ、あてずっぽうが当たってしまう自分の単純さに落ち込む。
その間にコデュは、横線を数本、板の上に並行して引いていった。
等間隔に引かれた線は、間に何かが書き込めそうである。彼はその真ん中を軽く指で叩く。
「まずこの世界について、基本的なことを説明しよう」
「はい」
「この世界は、複数の位階が積み重なって存在している。
 普通の人間が視認する世界を『人間階』と呼び、便宜上の基点とするなら、この上位には『魔力階』というものがある」
「上にあるんですか」
「空間的に上じゃあないよ。それじゃ背の小さい魔法士は魔法使えないからね。概念的に上位」
「よく分かりません」
「悪人と善人だと善人の方が『人間的に上』とか言うだろ? そういう上」
隣に座るリィアの苦い表情から言って、コデュの説明は大分乱暴なものであるようだが、少し分かりやすくなった。
アージェが頷くと、魔法士は説明を再開する。
「で、人間階と魔力階だけじゃなくて、この世界には色んな位階がだーって積み重なって存在してるわけ。
 それらの位階を上下で考えてみると、一番上には神がいて、一番下には負がある」
「負?」
「負だね。暗い情念や感情なんかの原型っていうか、まぁどよーんとしたもの」
「…………」
コデュは再び板に向き直ると、数本引いた横線のうち、一番上の線上に「神」と書いた。ちょうど中央に「人間階」と書き、一番下に「負」と書き込む。
「概念的に上になればなるほど、神に近づく。優れた魔法士や学者が、信仰者であることが多いのはこの為だ。
 逆に下になればなるほど、負へと近づく。
 こっちは忌まわしいものと一般に考えられているが、人間の根源的な感情とも密接な関係があるため切り離すことは出来ない。
 つまりは恐怖や憎悪……そういったものだね。他には瘴気なんかも負と強い関係があると思われている。
 ―――― ここまではいい?」
「大体は……」
アージェはいささか自信のない返答を返しつつ、黒い左手を見た。
それを見るたび思い出すものは、暗い夜の闇だ。何もかもが落ちていきそうな闇。
彼の意識の中でその先は底なしの沼となっていたが、話を聞いた今、それは黒い淀んだ負へと繋がっているように思えた。
左手をきつく握る少年に、コデュは不透明な視線を向ける。
「それで『澱』っていうのは、人間階のすぐ下層にあって、二つの層の境界は曖昧だ。
 そこには人間階で生まれた瘴気や、死の穢れ、負の情念なんかが零れて沈殿していてね。
 『澱』とはこの階層の名であり、この階層に沈殿しているものの呼び名でもある。
 たとえば、動植物なんかがこの澱の影響を受けると魔物化したりする。っていうか下等な魔物のほとんどはこれだね」
「分かります」
おそらく出会った時のルトがその状態であったのだろう。
アージェが即答すると、コデュは少し微笑んだ。
「よし、ここまでが前提知識。じゃあここからもっと詳しい話に入ろう。
 あのね、魔法士はみんな、魔力階が見えるんだ。だから普通の人間とは見ている景色が違う。
 そして君は、君にしか見えないものが見えるはずだ。―――― 何が見える?」
「黒い……靄が。人が死んだ跡とかに」
「それが『澱』だね。訓練すればもっと多くを見ることが出来るはずだよ」
「いや―― 」
別に見たくはないと、言いかけてアージェは口ごもった。
そのようなことをコデュに言っても仕方ない。子供の八つ当たりのようなものに思えたのだ。
アージェはささくれかけた気分とぼんやりした嫌悪感を押し込むと、話題を変える。
「女皇の騎士っていうのは?」
「そのまんまだよ。神の国と言われるケレスメンティアが、代々女皇の治める国だっていうのは知ってる?」
「聞いたような、聞いていないような」
「そうなんだよ。あそこは神代より続く大陸最古の国なんだけど、ずっと女皇支配なの。
 女皇以外が即位したことは一度もないし、あの国には皇族ってものがいない」
「女皇がいるのに?」
―――― 女皇がいるなら皇族もいるのではないのだろうか。
ごくごく当然の疑問を持つアージェに、リィアが肩を竦めた。
「女皇は他国から夫を迎えて次の女皇だけを生むの。
 他に子供は生まないし、絶対女を生むから皇族ってものが出来ないのよ」
「え。それ本当に絶対?」
「ほんとに絶対」
強く頷くリィアを見て、アージェはただただ感心する。
大陸最古の国というからにはかなりの年月そのような体制が続いてきたのだろう。
一度くらい男が生まれたことや即位前に女皇の娘が死んでしまったことはないのか、彼は気になった。
しかしコデュからすると、女皇についての説明は一通り済んだらしく、話は「騎士」へと移り変わる。
「そんな感じだから、むしろ女皇の夫ってやつは影が薄いんだ。で、女皇にはもっと有名な『影』がいる」
「影?」
「そう。それが女皇の騎士。ケレスメンティアでは『ディアド』って言うらしいけど。
 一人の女皇に一人しかいない騎士だ。彼女に一生付き従い、その生涯を支える騎士。―――― 君もそうかもね」
「俺が?」
素っ頓狂な声を上げて、アージェは自分の顔を指した。
自分が、誰か一人の女性に付き添い一生支え続けるなど想像も出来ない。
そのような力や覚悟がないという以前の問題だ。あまりにも現実味がないことに思えて、馬鹿馬鹿しささえ覚える。
せめてその相手がクラリベルであれば、まだ思い描くことが出来そうだが、それも家族であるからこそだろう。
アージェは名前も知らない女皇の存在を呈され、思い切り首を傾げた。
「さっき、今は女皇の騎士の座が空席って言ってましたけど……」
「ああ、うん。今の女皇のディアドは、確か大分前に出奔したんだよ。理由とか一切公表されてないけど」
「でも一族がいるってことは、その一族の他の奴がなればいいんじゃ?」
一人しか生まれない女皇と違って、一族ということはそれなりに人数がいるはずだ。
そう思ってアージェは指摘したが、コデュは「そういう細かい事情は僕には分からないなあ」と目を瞑って見せた。
詳しく聞いてもまだ遠く思える話に、少年は思わず嘆息する。

本当に自分はその一族とやらなのだろうか。
コデュを疑うわけではないが、突拍子もなさすぎて信じられない。
だが、彼にしか見えぬ闇があることは確かで、それはあの森で聞こえた声もそうだ。
アージェは意を決すると、黒い左手を睨む。
「―――― そうなのか?」
彼自身よりも多くを知っている女。
彼の母親を屠り、彼の手の中に棲みついている女に、少年は問う。
返答は長く待つ必要がなかった。「彼女」の澄んで静かな声が返る。
(ほんとうよ。あなたは、女皇の騎士たりうるにんげん)
宣告は重くなく、だが軽くもなかった。
アージェはしばし沈黙し、その重みを噛み締める。
今まで気にしたことがない、本当の両親というものが少しだけ輪郭を持って現れた気がした。
少年は沈むような目を左手に落とす。
「俺は、ずっとお前を消せないのか」
(いずれはきえる)
「いつ?」
素早い反問に、「彼女」のふっと微笑う気配がした。何処か悲しげなそれは、しかしアージェを苛立たせるだけである。
少年は目を閉じて答の出ない問いに向かいあった。
―――― 自分は誰で、何故、どうして、ここにいるのか。
全ては彼自身選択を許されなかった事柄だ。物心ついた時、彼は既に「そう」だった。
半ば押し付けられたような出発点。
けれどいつしか、全ての理由を知る日が来るのだろうか。
そんな予感のようなことを考えて……アージェは溜息を吐いた。



コデュの家には色々な要らないものがあるらしい。
その中から肘までの手袋を一つ貰ったアージェは、リィアの案内でケグスたちのいる宿まで行き着いた。
まだ真昼であるとは言え、沈んだ色のローブを纏った人々が多いせいか、辺りからは明るい印象はあまり受けない。
探し当てた宿を前に、リィアは足を止めると犬を連れた少年を見上げた。
「凹んでる?」
「いや……自分でもよく分からない。一番近いって言ったら、腹立たしい、って感じかも」
「何に怒ってるの? その腕に棲む女? 本当の両親? 自分?」
少女の淡々とした列挙は、乾いたようなアージェの心にぴったりと添っていた。
思考にも感情にもぶつかることはなく、逆に癒すこともない問い。アージェは少し考え、結局かぶりを振る。
「どれでもない気がする。どれかのような気もするんだけど」
「そっか」
雑踏の中立ち止まる彼らは、まるで川の中の小石のようであった。
誰もが興味を持たず流れていく中、リィアは少しだけ眉間に皺を寄せる。手を伸ばすと彼の腕を軽く叩いた。
「大丈夫。強くなんなさいよ」
「ん」
「君ならなれるよ」
励ましよりも強く、真摯な言葉。
少女は驚くアージェにはにかんで見せた。
だがそれも一瞬のことで、踵を返した華奢な姿はすぐに人の流れの中、見えなくなる。
くすむ色の街角。一人と一匹になった彼らは、ふとお互いの顔を見つめあった。
―――― この腕を治せぬ自分は、これから何処に行って何をすればいいのだろう。
そのようなことを考えかけたアージェは、だがすぐに思考を切り替えると、顔を上げて宿の建物へと入っていったのである。