女皇の騎士 070

「イクレムはログロキアに報復をするつもりらしいな」
風のない昼下がり、窓辺に置かれた長椅子で寝そべっていた壮年の男は、不意にそのような声を上げた。
傍の床に膝をつき、男の爪を切っていた若い女が顔を上げる。
亜麻色の髪に黒い目をした肉感的な女は、紫がかった唇を三日月の形に曲げた。
「それはログロキアのやったことがイクレムに露見したということ?」
「やり慣れぬことをするからだ。先祖の復讐に目が眩んで尻尾を掴まれたのだろう」
男は心底可笑しそうに喉を鳴らすと、たっぷりと蓄えた黒い顎鬚を撫でる。
獰猛な獣のようと恐れられる瞳が、女の白い胸元を注視した。そこには鮮やかな蜘蛛の刺青が彫られている。
彼女は嫣然と笑ってしなを作った。
「それで? どうするの? ログロキアを助けてやる? 向こうはそのつもりでいるだろうけど」
「さぁ、どうするか」
天井を見上げる男の目は、獲物を選ぶ肉食獣のものによく似ている。
周辺諸国からは「コダリスの野獣」と揶揄され恐れられる男、コダリス国王シャーヒルは、天井に描かれた美しい絵画を眺めた。
草原に佇む数人の乙女。彼女たちは皆手に花冠を持ち、穏やかな笑顔を浮かべている。
その中の一人、透き通るような金髪と青い瞳の乙女に視線を止め、男は笑った。
「必要であれば手は貸す。イクレムが目障りであることは確かだ。
 ―――― しかし儂がそこまで手を出さずとも、ログロキアを助ける者はいるかもしれぬな」
「そのような国が何処かにあると?」
呆れたように肩を竦める女に、シャーヒルは含み笑いを洩らしただけだ。
彼は全ての爪が切り終えられたことを一瞥すると、体を起こし分厚い指で女の髪を撫でる。
「さて、食事の時間だ。お前も付き合え」
「獣肉は嫌よ。匂いが嫌い」
「味の分からぬ女だ」
戦場において彼ほど勇猛な王はいないと言われるシャーヒルは、がっしりとした体躯の上に黒い上衣を羽織ると部屋を出て行った。亜麻色の髪の女が影のようにその後をついていく。
戦争が起こる前のざわめきは、彼らにとって生まれる前から耳馴染んでいた潮騒のようなものだ。
だからこそシャーヒルは、そのざわめきを楽しむ。
肉を食らうように国を食らう男は、研いだ牙を突き立てる時と相手を、今は黙して窺っていた。






街道に沿って移動するアージェたちは、ログロキアの城都を出てから二日、街道沿いの町に宿を取った。
これから先、こうして町を渡りつつ仕事の依頼を受けていくというケグスの説明を受けて、アージェは気を引き締める。
彼自身は剣の稽古と文字の勉強を続けつつ、可能であればケグスの仕事を手伝い経験を積んでいく予定だが、いつでもそう都合よくいくわけではない。
ケグスがその町で最初に引き受けた仕事も事実、単独行動が求められるもので、一緒に行くことが出来ないアージェは宿で留守番することになっていた。
カタリナも調査書のまとめをするということで自室に引きこもってしまった午後、宿の裏にある空き地でアージェは剣の素振りに励んでいた。近くにある木の下では、遊びに来たレアが座って、じっと彼を見つめている。
あのようなどさくさでイクレムを出てきてしまって以来、アージェは少しだけ、レアが彼を探して困るのではないかと心配していたのだが、彼女にはそれも関係なかったらしい。いつものようにふらっと訪ねてきた彼女に、アージェは安心しつつも驚きを多く含んだ呆れを感じていた。きりのよいところで素振りを中断すると、彼女に問いかける。
「レアはさ、どうやって俺の居場所調べてるの?」
「え。きゅ、急にどうして?」
「いや、純粋に不思議だし。国変わっても見つけられるとか」
まさか近い町からしらみつぶしに探しているわけではないだろうと思ってアージェが問うと、レアは悪戯が見つかった子供のように蒼ざめた。今まで不思議に思われていないとでも思っていたのかと、少年は興味深くその様を見やる。
「言いたくないなら別にいいけど。レアって元々変な子だし」
「へ、変!?」
「変っていうか怪しいっていうか。まぁいいんだけどさ」
思考を放棄するかのように彼がそう結ぶと、少女は衝撃を受けたのか肩を震わせる。青紫の目が縋るようにアージェを見上げた。
「私……怪しい?」
「怪しい」
「あ、怪しくないよ」
「そう言われても」
自己申告されてもなんら説得力がない。
アージェは話を切り上げ素振りを再開しようと剣を持ち直した。姿勢や使う筋肉を意識しながら、黙々と長剣を振り始める。
生温い風。薄曇越しの太陽は、彼らのいる空き地にも柔らかな光を注いでいた。
他に人気のない宿の裏に、規則的な素振りの音が響く。
アージェがそうして黙々と稽古に勤しんでいる間、レアは真剣な顔で何かを考えているようだったが、少年が再び休憩のため剣を下ろすと、意を決したように口を開いた。
「あ、あのね、アージェ」
「うん?」
「私ね、あなたのいるところ、大体分かるの」
「へ? 何だそれ。何で?」
「何でって……あ、あなたの存在は、他にないから」
「他にない?」
しどろもどろになっているレアは、どう説明すればいいのか分からないようであった。いまいち要領を得ない口振りで、細い両腕をばたばたさせている。
放っておけば草の上を転がり出しそうな少女を、アージェはしばらく眺めていたい気分になったが、それよりも話の続きが気になる。彼は自ら心当たりのあることを口にした。
「それってひょっとして、この左手のせい? 俺、かなり珍しい異能者らしいんだけど」
「―――― 誰かに聞いたの?」
少女の声はその時、雲がさしかかったかのように、すっと翳って聞こえた。
アージェは微かなその変化に気付きつつ、だが大して気にも留めずに頷く。
「ああ。ログロキアの城都で探してた魔法士に会えたからさ。その人に聞いた」
「何て言ってた?」
重ねて問うレアの目は、ひどく落ち着いて見通せない深さを孕んでいた。
見つめれば飲まれてしまいそうな瞳。それをアージェは、一歩置いた距離から見返す。
「澱っていうやつを操る異能者だってさ。他の国にはそういう一族がいるんだって」
―――― 女皇の騎士という単語は、あえて出さなかった。
それは自分たちの会話においては不要な言葉のように思えたのだ。
アージェは、ケレスメンティアに行く気も女皇の騎士になる気もない。
ならば意味があるのは、彼が特殊な異能者ということだけであろう。
あっさりとした返答を聞いて、レアは何か言いたげに小さな唇を動かす。
しかし彼女は思いなおしたかのように口を閉ざしてしまうと、代わりにほろ苦い微笑を見せた。
普段の少女然とした表情とは違う、愁いを帯びた貌。大人びた顔に、アージェの視線は吸い寄せられる。
そんな彼女の姿を、どうしてか久しぶりに見たような気がした。少しだけ距離が開いたかのような気分になる。
「レア」
「何?」
「いや。呼んだだけ」
名を呼んでも届かないのではないかと思った錯覚はすぐに払拭され、少年は己の杞憂が馬鹿馬鹿しくなった。
レアは軽く目を見開いたが、そっけない彼の付け足しに頬を染めてはにかむ。
いつもの彼女に見える少し稚い表情は、アージェを思いのほか安心させた。
訪れた沈黙の上に、乾いて温い風が吹く。

彼女と二人だけでいる時はいつも、世界から隔絶されているような気がする。
アージェは何の変哲もない小さな町の景色を見回した。
砂の色、草の色、薄曇の空。
ぼやけて溶け合う色の中で、レアの瞳だけは貴石のように鮮麗に見える。
彼女は澄んだ双眸を若干の不安で縁取って、彼の目を見返していた。
その表情にふと、記憶にないはずの幼い彼女の貌がよぎる。妄想か幻覚かと、アージェは紗幕がかかった思考をかぶりを振って落とした。
突然の動きにレアが目を丸くする。
「どうしたの?」
「何でもない」
ぶっきらぼうに言うと、少女は心配そうな顔になった。
「ちょっと休憩してみれば?」
「今してる」
「座るとか」
「立ってても変わらないよ」
さすがに素振りをしたままでは話せないので剣は下ろしているが、疲れているわけではない。アージェは稽古を再開しようと長剣を持ち直した。
その時、探るようなレアの声が彼にかかる。
「アージェ、前私が言ったこと……覚えてる?」
「前? どれ?」
彼女との付き合いはそう長いわけではないが、交わした会話はそれなりに多い。
さすがにその全部を覚えているわけではないアージェは、心当たりを探るより先に聞き返した。
レアは寂しそうに微笑う。
「私の騎士になってくれないかなって」
「ああ」
そう言えばそんなことを言われていたのだ。あまりにも現実味がないので忘れかけていた。
アージェは両手で持っていた剣を右手に持ち変えると、空いた左手を振ってみせる。
「でも俺、これが治らないって確定だ」
「いいの。あなたはそれを気にする必要ないから……」
風に消えかけた語尾。
しかしレアは途端、強い感情に駆られたかのように腰を浮かせた。青紫の瞳に必死な表情が浮かぶ。
「あなたは、怒るかもしれない。でも違うの。私は、そうじゃなくて」
「レア?」
「アージェ、あのね。私は、本当は―――― 」
吸い込まれた息。
突如、二人のいる空き地に強い風が吹き込んでくる。
届くはずだった彼女の吐露は、砂混じりの風にかき消された。
アージェは思わず目を閉じる。ざらつく痛みが瞼の下を動いた。



入ってしまった砂粒を彼が指で擦り出す間、外界の音は何ひとつ聞こえてはいなかった。
アージェはようやく目を開けると、レアの姿を探す。彼女はいつのまにか木の下に立っていた。
折れそうな体。薄青色の服の裾を風の残滓が揺らしている。
少年は彼女が変わらずそこにいたことに、我知らず安堵した。
「ごめん。目にごみが入った」
「……ううん。……大丈夫?」
「もう平気」
彼が頷くと、レアは微笑む。彼女は白い手を上げると、アージェの胸元を指差した。
「私があげた指輪、左手に嵌めておいて」
「いいけど。あれ、落ち着かないんだよな」
小さすぎたリィアからの指輪はともかく、レアから貰った銀の指輪は一時期ちゃんと嵌めていたことがあったのだ。
しかしどうにも指輪をするという感覚に慣れない為、二つまとめて首にかけてしまった。
今はリィアに貰った指輪は彼女に返してしまっている。一つだけならまた指に嵌めた方が扱いやすいだろう。
アージェが了承すると、レアは嬉しそうに頷いた。その瞳の奥に寂寥があるか否か、彼には分からない。
それを読み取れるほどには二人は近くなく、アージェはまだ大人ではなかった。

ただレアリアはこの日、彼に礼を言って帰っていった。
そして彼女の笑顔は確かに幾許か―――― 彼の不安と焦燥を癒していったのである。