女皇の騎士 071

街道を少しずつ西へと進んでいく旅。
アージェたち三人は約二ヶ月半をかけて、国境間近の街バーズルへと到達した。
ここに来るまでの間、厳しい稽古に加え際どい実戦なども経験してきた少年は、一区切りとなるであろう大きな街への到着に、感慨深いものを覚える。
ログロキアの城都から続いてきた街道も、ここから先は枝分かれしていく。
更に西へと進みコダリスへ入るか、もしくは北へ向かうか。
南は山脈地帯を越えてイクレム領であるということ考えれば、選択肢は先の二つに絞られると思われた。
適当に選んだ宿の一室、アージェはテーブルに広げた地図を眺めている。
彼の向かいではケグスが配布されていた広報紙を読んでおり、面白くない記事でもあったのか顔を顰めていた。
同じテーブルで先ほどから書き物に取り掛かっているカタリナが、ふと顔を上げてアージェを見る。
「少年、甘いもの食べたい」
「我慢しろよ。持ってない」
「頭脳労働には甘いものが欠かせないんだよう!」
子供のようにテーブルを叩いてぐずる女に、アージェは白眼を向けたが、自分が暇であることは事実である。
少年は「仕方ないな。甘けりゃ何でも文句言うなよ」と立ち上がった。喜色を浮かべるカタリナから硬貨を数枚預かり、買出しに行く。


「行ってきます」と軽く手を振ってアージェが出かけると、カタリナは途端に真面目な顔になった。紙面から顔を上げないケグスに問う。
「どんな感じ?」
「さぁな。そろそろ始まるかもな」
「……そっか」
溜息もなく目を閉じた女は、憂愁そのものの顔をしていた。
普段は表に出てこない彼女の一面。だがケグスは既にそれを知っている。
彼は興味なさげに問うた。
「お前はどうする? 戻るのか?」
「……戻るなって言われてる」
「そうか。まぁそうだろうな。最悪本が焼かれても学者が生きてりゃいいわけだからな」
「それもあんまよくないけどね……」
カタリナはまとめていた書き付けを目を細めて見つめた。必要なことしか書かれていないそれは、ログロキアが蓄えてきた知の、ほんの一部、砂粒のようなものである。彼女は途端疲れ果てたかのようにかぶりを振る。
「おにーさんは戻るの?」
「戻らない」
躊躇いのない否定は、カタリナが言い終わるとほぼ同時に返ってきた。
それを聞いた彼女は軽く頷いただけで、重ねて何かを尋ねることはしない。
ケグスは読んでいた広報紙をくしゃくしゃに丸めてしまうと部屋の隅に投げた。紙屑は寝台と壁との隙間に転がり込む。
―――― 何を捨て、何を守るのか、誰もが選択を迫られる時間。
彼はおもむろに立ち上がると、「魔法士でも探すか」と呟いた。






バーズルの街は同じログロキアでも、その城都と比べて普通の街並みを持っている。
古い建物は多いがそれだけではなく、大通りには様々な店が立ち並んでいた。
国境間際の街道沿いという立地のせいか旅人らしき人間も多く、人種も服装も実に雑多である。
ざわめきが溢れ賑やかな人通りの中、宿を出たアージェは露店を一つ一つ見ながら歩いていた。やがて色鮮やかな菓子を売っている荷車を見つけ、足を緩める。
子供の目を引く花飾りをつけたそこは、木で出来た荷車に十数個の桶を積んでいた。
その全てにはぎっしりと菓子が詰められており、雑踏に混じる子供たちが羨ましそうな目でそれらを見ていく。
中には荷車に張り付いて桶の中に手を伸ばそうとしている子供もいたが、店番をしている男は彼らが金を持っていないと分かると、にべもなく追い払った。
アージェは逃げていく子供たちとすれ違い荷車の前に立つと、どの菓子にしようか選び始める。
条件はただ一つ「甘いこと」であるが、きっとどれも味は甘いのだろう。
アージェは複数ある桶の中から、薄く色がついた砂糖玉の菓子を指差した。
「これ一袋」
「あいよ」
店番の男は鉄匙で砂糖玉を袋詰めしていく。
まちまちの大きさを持つ玉菓子は、まるで硝子球のようで、中に固まった気泡が小さく見えた。
薄赤や黄色の玉は、鉄匙が差し込まれるたび日の光を受けて鮮やかに輝く。
追い払われた子供たちが物陰から垂涎の目で見つめる中、アージェは手折りの紙袋に詰められた菓子を受け取った。代金の半分をカタリナに貰った硬貨から、もう半分を自分で払う。
少年はざらざらと音が鳴る紙袋を手に荷車の前を離れた。道の端に寄ると、隠れている子供たちを手招く。
「一個ずつだからな」
降って湧いた幸運にはしゃぎ回る幼児たちを並べて、アージェはその小さな掌に一つずつ砂糖玉を落としていった。
彼らが口々に礼を言って駆け去っていくと、少年は袋の中から新たな一個を手に取る。振り返って、背後に立っていた少女の唇にそれを押し込んだ。 少し前から黙って様子を見ていたレアは、青紫色の瞳をまん丸にする。
「き、気付いてたの?」
「そりゃ気付くさ。それ、やるよ」
花弁のような唇の間に砂糖玉を押し込まれた少女は、白い手で小さな透明の菓子を押さえていたが、真っ赤になって頷くと砂糖玉を口に入れた。嬉しそうに口の中で転がし始める。
女の子は皆甘いものが好き、などと言えばリィアなどに怒られそうだが、少なくとも彼が知る限り、クラリベルもカタリナも甘いものが好きだ。そしてそれはレアも例外ではないのだろう。彼女は機嫌が良さそうに彼の後をついてくる。
しかしふと何かに思い当たったのか、少女は眉を寄せて少年を見上げた。
「アージェは、他の子にもこういうことするの?」
「ん? する」
―――― 他の子、と、聞かれた言葉に彼は先ほどの子供たちを思い出したのだが、レアにとってそれは望んでいた返答ではなかったらしい。数秒前まで嬉しそうであった美貌は、みるみるふてくされたものに変わった。
アージェは半ば感心してその変化を見やる。
面白いな、と思ったがそれを口にしては更に機嫌を悪化させてしまうだろう。それくらいのことは彼にも分かった。少年はぽりぽりとこめかみを掻く。
「何で怒るんだ?」
「怒ってないもん」
「いやどう見ても怒って―――― 」
青紫色の瞳に睨まれて、アージェはそれ以上の拘泥をやめる。代わりに彼女の頭を軽く叩くと、レアは複雑そうな表情になった。吊りあがっていた眉が和らぎ、空気から険が消える。
「アージェ、背伸びたのね」
「そう? 自分じゃよく分からない」
「私より大きいもの」
「レアより小さかったことなんてないよ」
とりあえずはそう指摘したものの、思い返せば初めて出会った時には身長差はもっと僅かであった気もする。
アージェは自分の肩ほどの高さになってしまった少女の顔を覗きこんだ。
「レアは大きくならないな」
「私、これ以上は伸びないの。外見も変わらないし」
「充分綺麗だからそのままでいいと思う」
「…………」
今度は俯き押し黙ってしまったレアだが、アージェは彼女がどのような表情をしているか見なかった。別のことを口にする。
「そう言えば最近よくこっち来てるけど、家の方は本当に問題ないのか?」
「あ、うん」
ログロキアを移動した二ヵ月半の間、レアはしばしば彼のもとへやって来たが、空けている家では問題になっていないのだろうか。
身代わりがいるからいいとレア自身は言うが、それにも限度がある気がする。
或いは貴族令嬢の一人がいてもいなくても、周囲に支障はないということなのかもしれない。
アージェがそんな可能性をいくつか考えていると、少女は困ったような微笑を見せた。
「私ね、普段は皆に顔をはっきり見せていないの」
「何それ」
「ヴェールを被ってるから……背格好とか、顔立ちが大体似てればばれないの」
「ふぅん?」
よく分からないが、レアの国ではそうなのだろう。
同じ貴族令嬢でもディーノリアは顔を出していたな、と彼は思ったが、口には出さなかった。―――― 何となくそれを言ってはレアの機嫌がまた波打つような予感がしたので。
半ば野生の勘によって危険を回避した少年は、隣を行く少女のふわふわとした金髪を見やる。
彼の妹よりももっと淡い、透き通る光そのもののような金糸の髪。
それはアージェにとって、自然と平穏を連想させる、眩い色だった。






彼の研究室にはいつもと変わらず異臭が満ちていた。
引き受けていた仕事が終わり、師の家を訪ねたリィアは顔を顰める。
「師匠、部屋にこもって実験するのはやめてください」
「外でやったら怒られちゃうだろう?」
軽い口調。普段と変わらぬ挨拶を返してきた男は、しかし椅子に座るとすぐに真顔へと変じた。まだ若い魔法士を見やる。
「どうして戻ってきた?」
「……戻ってくるに決まってるじゃないですか。何言ってるんですか、師匠」
「お前にはやるべきことがあるだろう」
軽い調子で流そうとしたが、コデュはどうやらそれを許してくれなそうである。
リィアは横を向き溜息を吐いた。
「私のやりたいことなんて、お金さえ無事なら誰かがやってくれます。
 それより師匠はなんでこの国を出ないんですか?」
「僕は見張られてる。今回はさすがに国から命令が下っているからね」
「すぐに滅びる国の命令なんて、何の力があるっていうんです」
「彼らを見捨てられない」
長年の付き合いにおいても数回しか聞いたことのない男の真剣な声音。
それを今聞くこととなり、リィアはこれ以上ないほど苦い表情になった。
師の言う「彼ら」がこの国の王や兵士たちを指しているのなら、彼女はそれに反論しただろう。
だがコデュをここに留めている人間たちは、貧民街の住人たちなのだ。
緩い連帯感を持ち、無言でお互いを助け合って生きてきた彼ら。それは孤児であったコデュもまたそうだ。
彼にとってこの辺りの住人たちは皆家族のようなものであり―――― リィアはその関係を否定することは出来なかった。
二ヵ月以上前、師に面倒が及ばぬよう自ら国の仕事を負った時のことを彼女は思い出す。
あの時は、あれで終わるのならと師に内緒で代わりを務めたのだが、今から思えばあの一件が間違いなく今日を招いたのだ。
だからといって彼女にはあれを止める力はなく、また失敗すれば死んでいただけだったろうが、それでも悔しいことには変わりない。
神具の一つで何が変わるというのか。リィアは心の中で呪いの言葉を吐き捨てた。
コデュは窓のない部屋を見回す。
「リィア、お前は行きなさい。国の死は、所詮人の死ではない」
「嫌です。私は戦って、生き抜きますから」
何処に逃げても、戦いは常に人々を飲み込んでいく。リィアはそのことを知っている。
だから退かないと言い張る弟子に、コデュは憐憫の目を向けた。無言で己の膝を抱く。
「なら不味いと思ったら逃げなさい。もし彼を見つけたら、傍にいなさい」
「彼? 誰です?」
「あの少年だよ。あの異能はね、戦場でこそ力を発揮するんだ。傍にいなさい。きっとお前は守られる」
「……そんな」
コデュは、アージェが何処にいるか知らない。リィアもそうだ。
彼らは少年がこの城都を発ったことだけを知っている。
だから男の言葉は、半ば賭けのような願いのようなものなのだろう。
リィアはそう理解したが、身の内には妙な悪寒が残った。彼女は「大丈夫です」とだけ返す。

国の死は人の死ではない。
だが、国が死ぬ時人もまた死ぬ。
それを知る人々の目に落日が鮮やかに見え出す時間は、もうまもなくに迫っていた。