女皇の騎士 073

空を飛ぶ鳥は、丘の上に黒い影を落としながら弧を描いて森の向こうへ消えた。
清澄な日。果てのない天の下には、緑の草がまるで一個の生き物のように波打っている。
穏やかな空気と暖かい日差し。その只中に立つ男は、眼下に広がる美しい景色を眺めた。二百二十年前ログロキアがイクレムによって蹂躙された時、かろうじて踏み穢されなかったこの地のことを思う。
かつてログロキア国王に忠誠を誓っていたはずの領主ムグル・ディーロ・イクレムが叛旗を翻した当時、ログロキアの人間は止められぬ彼の進軍に滅亡を覚悟していたという。
だがムグルは軍を挙げてから八ヵ月、城都へと進めていた軍を突如引き反転すると、元の領地を中心に国を建てた。
あと一週間彼が進軍を続けていたのなら、この丘陵地帯もまたイクレムの領土になっていただろう。
まるで気紛れのようにログロキアの手に残された、戦火を逃れた地。
だがこの地も今、過去の遺恨の清算の為、新たなる戦場となろうとしている。
今日の事態を招いた彼、イラード・スィ・リオンは皮肉げに唇を歪めた。背後に控えている部下を振り返る。
「状況は?」
「諸公の布陣は済んでおります。ただ中には難色を示されている方もいらっしゃり……」
「ドロヴァ公爵か。あの男は仕方ない」
嘲弄混じりのイラードの声に、配下の男は恐縮して頭を下げた。
だが報告されるまでもなくそれは、はじめから分かっていたことである。
今回の件に、彼の伯父であるログロキア国王は元々乗り気ではなかった。
そしてそれは、ドロヴァ公爵をはじめ王の信頼篤い者たちもやはり同じである。
イクレムからの侵攻が確定されている今であるからこそ、彼に反対していた者たちも兵を出しているのであって、「若い者たちの独断」と批判的な意見を持っている人間も中には多くいるのだ。
おそらく彼らは、一度敗北が決したならイクレムに頭を垂れ、イラードに罪を被せ慈悲を請うのだろう。
或いはそうすれば城都だけはまたログロキアの手に残るのかもしれない。かつてそうして、この国が生きながらえたように。
「馬鹿馬鹿しい。そんな卑屈さが何を生み出す?」
誰にも聞こえぬほどの声で吐き捨てたイラードは、一通の書簡を思い出す。
二百二十年前ムグルによって滅ぼされた城の領主が、城の陥落前夜、彼の先祖へと書き残した手紙だ。
強い無念を思わせる文章は、初めて読んだ時少年であった彼に強い憤懣を抱かせた。
あの日より祖国の尊厳について考え始めたイラードは、ようやく訪れた機会を前に、怒りと期待が渾然となった高揚を抱く。
「奴隷のように人の顔色を窺って得られる平穏に、何の意味があるというのだ。
 血を贖うことが出来るものは血でしかない。イクレムもそろそろそのことを思い知るべきだ」
風にかき消される述懐。イラードはふっと、ある女の弾劾を思い出す。
少女時代より戦争を厭っていた彼女は、どうやって知ったのか今回の件に気付いて、彼に直接抗議を申し立ててきたのだ。
国力が違いすぎることを分かった上での挑戦。そこに反対を述べたくなる気持ちは分からないでもないが、所詮彼女は他国からの亡命者だ。ログロキア人である彼の気持ちなど分からないのだろう。
かつては隣に机を並べていた女に向けて、イラードは呟いた。
「終わりの箱など探して何になる?
 仮に戦争をなくせたとして―――― それまでに踏み躙られた国は、泣き寝入りをしろとでもいうのか」
論外だ、と心中で結論づけて、男は空を仰ぐ。
誰に何も答えることのない空。天は澄んで青く、果てしない沈黙を保っていた。






イクレムにとって二十年以上ぶりとなる侵攻。
それはよく晴れた日の午後、ログロキア北東部丘陵地帯への進軍という形で幕を開けた。
指揮を執るフィレウスは、軍の後方で予定通り部隊を進めながら相手の出方を窺う。
既にログロキアも布陣しているとの情報は偵察の魔法士を通じて入ってきていたが、今のところまだ向こうに動きは見られないようだった。
ログロキア全軍に軽く匹敵するであろう六万の軍。
歩兵四万と騎兵二万で構成されたイクレム軍は、王太子の采配で奇をてらうことなく、ゆっくりと丘陵地帯に踏み入っていく。
緑の景色を武装した歩兵たちが侵食していく様は、フィレウスを皮肉な気分にさせた。
日の光を反射する鋼の鈍い輝き。鎧の鳴る音が重なり合って潮騒のように広がる。
踏みしだかれた草と鉄の匂いが混じりあい、それを嗅ぐ者たちへと緊張を促した。
魔法士たちが時折放つ白い光の矢が、近づく小さな森の中へ飛び込み、刹那の閃光を弾けさせる。
美しい景色に入り込んだ、異物というには大きすぎる軍隊。
まもなくこの地を変貌させるであろう人間たちは、今は整然と草の中を進んでいく。
馬上にあるフィレウスは、壮観とも言える眺めに苦い顔を見せた。
「早くかたがつけばいいが」
彼にとっては予想外であったログロキアの反抗。
今回この衝突に至るまで、フィレウスは一度だけこの国に城への襲撃事件について問い質すことをしたのだが、向こうからの返答はなかった。
その沈黙はつまり、イクレムへの敵意を意味するのであろう。
向こうの出方によっては侵攻以外の方法も考えていたフィレウスは、対応を長引かせて足を掬われることを嫌うと、武力を用いた制裁に出たのだ。
イクレム自体が他国へ侵攻するという事態は約二十年ぶりではあるが、軍は半年前にもセーロンへの援軍という形で動かされている。
どちらかというと勇よりも知の印象が強いイクレムはしかし、強国の評判にふさわしく、実戦において確実な戦果を得ることを常としていた。
フィレウスはまもなく滅びるかもしれぬ隣国を、感情の薄い眼差しで見渡す。
二百年以上もの間戦乱から遠ざかり、ただ学問のみを追求してきた国。
そのような小国が何故「今」になって揺らぐこととなったのか、彼は不思議に思うよりも誰かの見えざる手を感じて仕方なかった。ログロキアを挟んで西にあるコダリスのことを思い出す。
「あの野獣はこれを傍観するつもりか……?」
はっきりとした証拠こそ残らなかったものの、コダリス国王は二年前に、部下に命じてイクレムの離宮を焼かせている。
今回の一件においても彼の手が絡んでいるのか否か、今のフィレウスには判断がつかなかった。
―――― ただ用心は怠らぬ方がいいだろう。
この侵攻に関してコダリスが動けば、イクレム側にはセーロンが参戦することになっている。
血気盛んに自国へ帰って行ったアリスティドを思い出し、フィレウスは苦笑いした。
「―――― あとは、あの女が動くかどうかだが」
無視できぬ可能性を呟く最後の言葉。それはまだ、誰に伝わるわけでもなく消える。
男は表情を消し、束の間思考を戦場より先へと広げた。
そうして彼が広い大陸の「今」について考え始めた時、だが遥か前方にて兵士たちの声が上がる。
丘上に姿を見せた敵軍を指しての鋭い声。
それは膨らんだ空気に刺さる棘のように、穏やかな空を一転、争乱へと導いた。



丘の上から一斉に射かけられる矢。
風向きもあり勢いに乗って届くその攻撃を、イクレム軍は盾をかざして防いだ。
そうしている間にイクレムの魔法士たちが歩兵の盾の影から狙撃を始める。
この大陸において強国とそうでない国の違いは多々見受けられるが、そのうちの一つが擁している魔法士の人数だ。
無論魔法士にも調査研究を本分とする学者よりの者や、魔法具作成や医療に特化した専門職よりの者など傾向の違いはあるが、戦闘に特化した魔法士を多く育てているのは、ほとんどが力ある国の王城である。
実際イクレムとログロキアもその例に洩れず、従軍している魔法士の人数には三倍以上のひらきがあった。
先日の襲撃で十人以上の魔法士が殺されたとはいえ、イクレムの宮廷魔法士はまだその倍近くの人数が前線に配されている。
復讐の念に燃える彼らは詠唱を絶やすことなく、遠くに見えるログロキアの射手を逆に射抜いていった。魔法を防ぐ術を持たぬ兵士たちは、軽鎧の上から体を焼かれ絶叫を上げる。

肉の焼ける匂いと次々飛来する炎球に、ログロキアの兵士たちは恐れを見せ後ずさりかけた。
しかしそれを、イラードの声が叱咤する。
「臆するな! 結界を発動させろ!」
彼の命令と同時に、青草の下から白い光が洩れ出た。
あらかじめ用意されていた結界。土の上に引かれた構成が発動し、薄い壁を前線の全面に渡って張り巡らせる。
魔法士以外には見ることの出来ぬ防御結界は、しかし充分な効力をもってイクレムからの狙撃を打ち消し始めた。
途端漂う安堵の気配に、後衛から結界を操作しているコデュは暗い笑いを零す。
「魔法士を魔法士で抑えられるのは最初だけだ。
 ―――― 結局最後にはみんなぐちゃぐちゃになっちゃうんだよな」
彼の言葉を証明するように、イラードは右翼軍に突撃を命じた。
怒号を上げて丘を駆け下りていく騎馬兵。はじめから死兵のような彼らに、コデュは諦観の詰まった視線を注ぐ。
彼は黒いローブを上げて溜息をつく口元を隠すと、兵士たちの中を後方へと退いていった。振り返らぬ彼の耳にも、最初の剣戟の音が届く。



草の上に飛び散る血は、てらてらと輝きながら葉の上を伝い滴っていった。
その滴が土に吸い込まれる前に、だが馬蹄が荒々しく青草を蹴散らす。
血臭と草の匂い。混ざり合う生臭さに兵士たちの怒号が重なった。鈍い金属音が、痛んだ刃をもって戦場を切り拡げていく。
喉を貫かれた兵士が、刺さったままの槍を抱いて崩れ落ちた。その体を別の兵士が踏み砕く。
みるみる積み重なっていく屍。倒れひしゃげた体が数分でただの肉塊へと変わる様は、正常な人間が見れば嘔吐を誘われたであろう。
だが、自らの死を目前に戦う人間たちにとって、肉塊は単なる肉塊でしかなかった。
己の剣を抜いたダルトンは、馬上で軽く目を伏せる。
「やっぱなあ。おもしろいもんじゃないぞ、坊主」
隊を任された男の呟きに、近くにいた若い兵士が不思議そうな目を向けた。
だがダルトンはそれ以上私情を見せない。与えられた役目を果たす為、軽く左手を上げる。
丘陵に数多くある森の一つ。その影に伏兵として潜んでいた彼らの部隊は、それを合図として次々躍り出た。本軍の右翼と呼応として、裏側であるイクレム軍の右側面へと襲い掛かる。
放たれた矢のように食らいつく騎馬隊。伏兵に気付いたイクレムの兵士は、間近に迫るダルトンの姿を見て戦慄の表情になった。
けれど彼は、何を言う間もなく大剣に首を刎ねられる。遅れて体がその場に倒れこんだ。
射かけられる近矢を弾いて、ダルトンはイクレム軍の只中へと切り込んでいく。
途端狂乱が始まる周辺。だがそれは、丘の上を彩る戦闘のほんの一部分にしか過ぎなかった。