女皇の騎士 074

小さな森を構成する木々の中に、頭一つ抜きん出た大木が一本、空へと顔を覗かせている。
その広がる枝には今、黒い翼を持つ鳥たちが数羽止まり、繰り広げられる一帯の光景を見下ろしていた。
緩やかな傾斜を持つ緑の丘は、いまや死屍の積み重なる血生臭い塵芥の場となり、美しい青草は見る影もなく踏み躙られている。
獣のような叫びと金属同士のぶつかりあう音。絶え間なく響き渡るそれらは、代わり映えのしないこの大陸の一風景であり、鳥たちも何ら恐れるような素振りは見せなかった。戦がやめば異臭を放つ死肉を啄ばもうと、ぎょろぎょろ目を動かしながら待っている。
イクレムの侵攻によって引き起こされた今回の衝突。
それは戦闘の始まりからしばらくは拮抗状態を保っているように見えた。
侵攻を迎え撃つログロキア軍は兵数こそイクレムに劣れども、丘上の布陣という地形を生かし、また風向にも恵まれ、前進しようとするイクレム軍をうまく傾斜の只中に縫い止め続けていた。
一方イクレムは開戦当初から守勢に回っており、突撃してくるログロキア騎兵や伏兵に翻弄されることもあって、なかなか敵の本軍へ到達出来ない。楽観的なログロキア貴族の一人は、それを見て「このまま国境まで押し返せる」と喜んだほどだ。
しかしこの拮抗は、見る者が見ればほんの序章に過ぎないことは明らかであった。
遊撃部隊を指揮していたダルトンは、「そろそろやばいな」と呟くと、傭兵や一般兵で構成された部隊を下げさせた。一旦戦闘の渦中を離れる。
その直後、守りに徹していたイクレム軍は、突如陣形を変えながら猛然と丘を駆け上がり始めた。
鋭い矛に似た形を取るイクレムは、優勢を信じて雑然と崩れかけていたログロキア軍を瞬く間に貫く。勢いに乗ってイラードのいる本営へと肉薄した。
馬上から直接状況を目視していたイラードは、その光景に血の気が引きかける。
彼は、今の今まで指揮官としてのフィレウスを侮っていたことを後悔した。
軍の指揮官としては、フィレウスよりも、セーロンのアリスティドの方が手強い。
それは両国を相手取ろうと考える者なら誰しもが手に入れる知識であり、イラードも勿論分かっていたことであった。
だからこそ彼はセーロンが参戦してこなかったことに安堵したのであるが、無意識下で天秤にかけたフィレウスのことを甘く見ていたのだろう。
イラードは声を張り上げ魔法士たちに命じた。
「防げ……っ!」
彼の叫びに呼応し、本営のすぐ前に何重もの強固な防御結界が生まれる。
それは突撃してきたイクレム騎兵たちを止め、不可視の壁を前に馬が急停止すると、何人かが振り落とされそうになった。
しかし立ち入りを禁ずる防御結界も、僅かな時間稼ぎにしかならない。イクレム騎兵の中に混じる魔法士が三人、即座に詠唱を始めた。
結界に穴を開けようとする彼らの行為を見て、イラードは歯軋りと共に短剣を抜く。彼の傍に護衛として配されていた魔法士が、白い短剣を見て顔色を変えた。
「リオン公、それはまだ……!」
「今使わずにいつ使う! ―――― 撃て! ベルディエド!」
古き言語による呼び名。
発動の鍵となる音に続いて、白い短剣が眩い光を放つ。
網膜を焼く白光は瞬時に膨れ上がると、内側から結界を貫いた。
大地と並行に伸びる太い柱。その進路上にいた騎馬兵たちが、一瞬で塵も残さず蒸発する。
続いて連鎖していく爆炎に、イラードの傍にいた魔法士が悲鳴を上げた。
吹き付ける爆風が彼らの肌をちりちりと焼く。



全てはほんの数秒の出来事で、何が起こったのか分かる者は、十二万以上の人間たちの中で一握りもいなかった。
そのうちのもっとも自覚的な一人、イラードは、前方にいた味方の兵たちごと飲み込んでいった焼け跡を見て、しばし呆然自失する。
これが傾斜のある丘ではなく平原での戦闘であったのなら、結果はもっと大きくなっていただろう。
丘の上から発された光は、途中から宙を貫いて消えたのだ。
イクレム軍の大半が未だ傾斜の途中にいなければ、それは敵軍を最後列まで貫通していたに違いない。
恐怖の目を向けてくる護衛の魔法士とは別に、イラードは喉に引っかかるような笑いを零した。
「は……はは……これは凄い。取り戻した甲斐があった……」
「リオン公……」
「勝てるぞ、この戦」
確信的な男の声。しかし魔法士はそれを聞いて、喜びでも安堵でもなく恐怖の目を向けた。
薄い光を放つ短剣。その柄には何かの珠が嵌っていたと思しき窪みがあるだけで、他には何もない。
イラードは、唖然とした表情で自分を見つめてくるログロキア兵たちを睥睨する。
「お前たち、イクレムを留めろ! 全て焼き払ってくれる!」
傲然と言い放つ男の眼は、その時既に正気を半歩逸脱しているかのように見えた。
イラードは白い短剣をかざす。彼は自ら馬を駆って焼けた草の上を進むと、状況を掴めていないイクレム軍を眺め下ろした。
そこかしこでざわめきが起こる戦場を前に、薄い笑いが男の口元へと滲む。


イクレム軍の後方にて指揮を執っていたフィレウスは、頭上を通り過ぎて行った白光とその後の爆発に息を飲んだ。乾いた言葉が唇を滑り落ちる。
「そういうことか……」
自身も先日「神具」について調べた彼は、それがやはり人ならざる力の為したことだと直感した。
背筋に落ちる汗。指揮官である王太子はどうこれに対処すべきか、考えを巡らす。


部隊を引き様子を窺っていたダルトンは、顔にあたる熱風に目を閉じることもしなかった。
苦い表情に溜息が続く。
「あれは『許される』ことなんだろうかなあ」
答など出ないと、分かっていながらも彼は天を仰いだ。
今までどれだけの人間が何度同じ問いを抱いてきたのか。ダルトンは積み重なる足跡に皮肉な共感を覚える。
しかしこれで今、戦が終わったわけでもない。
彼はあらためて部隊を整えると、動揺するイクレム軍に向かって馬の腹を蹴った。


突如使われた謎の力によって、戦場のあちこちで混乱が沸き起こる。
まるで好き勝手に波がざわめく大海のように、統率が揺らぎ兵たちがただの人となる様を、コデュは冷然と眺めた。
ログロキア軍後衛に位置する彼の目には、哄笑を上げるイラードの姿も見える。
コデュは不快さを隠そうともせず吐き捨てた。
「ありゃ、長くは持たないね」
それが何について言った言葉なのか、彼以外には分からない。
浮き足立つ周囲。彼は少し考えると、そのざわめきにまぎれるようにして一つの詠唱を始めた。






後から思い返せばそれまでの数日は、まるで不思議なほど平穏であったように思える。
風のない日のような凪いだ空気。
街を動くこともなく、新たな仕事を受けるわけでもなく、ただ稽古と勉強を繰り返すだけの日々は、アージェにとって何の不満もない心地よいものだった。
ただ少しだけ気になることがあるとすれば、三日ごとに遊びに来ていたレアが、ぴたりと姿を見せなくなったことだろうか。
アージェは彼女の不在に若干の物足りなさを覚え、何かあったのだろうかと心配した。
しかし結局は、彼女にも忙しい時期はあるのだろうと結論づけて終わる。
それはこの時点において、彼とは関係のない事柄に思えていた。

静穏の終わりは、アージェの前には突如現れた。
一人街に出て買い出しをしていた彼は、その日大通りから路地へと入った角で、声を潜めて何かを話している二人の商人たちを見かける。
服装からいって、街道を旅して商売をする行商人たちであろう。アージェは何を気にするわけでもなくその脇を通り抜けようとした。すれ違う瞬間、耳に不穏な囁きが飛び込んでくる。
「ログロキアはもう駄目だ。城都にまで攻め込まれたらしい……」
「―――― は!?」
思わずあげてしまった声に、二人の男が振り返った。アージェの父親ほどの年の男が苦い顔で少年の肩を叩く。
「大きな声を出すな」
「城都に攻め込まれたって、どういうこと?」
「イクレムが侵攻してきたんだ。ログロキアは国境付近で迎え撃ったが、敗走して城都にまで押し込まれた」
「でも、こっちは誰もそんなこと言ってない!」
すぐには信じられぬ話に声を荒げかけたアージェは、再度肩を叩かれ口を噤んだ。もう一人の男が呆れ顔で諭す。
「ここは城都から大分離れているし、コダリスの影響が強い。領主が情報を差し止めてるんだろう。
 それでも知ってる人間は知っているし、城都がもうすぐ陥落するのは事実だ。
 坊主も旅の人間ならさっさとコダリスに逃げるんだな。
 こっちまでイクレム軍が来ることはないだろうが、しばらくは荒れることになるぞ」
通りすがりの少年を思っての忠告は、しかし別の効果をもたらした。
アージェは城都に残っているはずの人間を思い出し顔色を変える。驚く商人たちを振り返ることもなく、その場から駆け出した。
彼は脇目もふらず宿屋へと戻り、乱暴に部屋の扉を開ける。―――― そして、そこで凍りついた。
普段であれば、窓辺などにだらけて座っているはずのケグスが、武装した姿で立っている。
長剣を佩き、鎖を編みこんだ部分鎧を各所に装備した男。
それは普段の仕事でもよほど手強い依頼でなければ見せることのない様相で、アージェは彼の姿に瞬間でおおよそを悟った。
ケグスは表情の読めぬ目で、帰ってきた少年を見やる。
「戻ってきたのか。―――― ちょっと出てくる。お前はカタリナと留守番だ」
「出てくるって、もしかして城都に? 今、イクレムに攻め込まれているって……」
「……ああ。すぐ戻ってくる」
部屋の隅を捉える男の視線。そこで初めてアージェは、室内に見知らぬ人間がいることに気付いた。
魔法士のフードを目深に被った老婆は、引き攣ったような笑い声を上げる。
「あたしがやれるのは、あんたを城都に送ることだけだよ。帰りは自分たちで何とかしな」
「分かってる」
「俺も行くよ」
間髪入れず声を上げたアージェに、ケグスは顔を険しくさせた。幼児を追い払うように手を振る。
「待ってろ。大したことじゃない」
「でも、親父さんが……」
「ここにいろ。ちょっと離脱を援護してくるだけだ。さすがにお前のことまで面倒見きれない」
それを言われては、アージェは黙るしかない。
ログロキアの城都が現在どのような混乱に見舞われているのか、アージェには想像も出来ないが、経験も実力も不足している彼がそのような戦場で充分な働きを出来るとは思えない。ましてやイクレムは、おそらくまだアージェを捕らえたいと思っているのだ。ケグスは黙り込む弟子に軽く頷いた。
「三日経っても俺たちから連絡が来なかったら、お前はカタリナを連れてコダリスに行け。
 ただ長居はするな。すぐに南に抜けてイズル国へと向かえ」
「イズル……」
「そこのビエラ・バルって街で待ち合わせだ。分かったな?」
ケグスはそう問いながら、アージェの返事を待たなかった。老婆に向かって「頼む」と口にする。
魔法士は歪んだ笑いを見せながら、詠唱をはじめその場に転移門を開いた。
水鏡のような歪みの向こうに、ログロキア城都の裏町が映る。間をおかずそこに向かって飛び込む男の名を、アージェは叫んだ。
「ケグス!」
「無理だよ」
掻き消える門。部屋の反対側からかけられた声に、アージェは振り返った。
そこにはカタリナがルトを抱いて、床に蹲っている。
「少年、頭が痛いよ」
苦しげに頭を垂れた女は、それきり微動だにしない。
アージェはその言葉に自身にも頭痛が伝染してしまったかのような錯覚を抱くと、強張った手でこめかみを押さえた。