女皇の騎士 075

あれが神具だって? おめでたい。実におめでたいね。

神具でないのならば何だ。あれは、単なる魔法具という力ではない。

そんなことも知らないのかい? ダニエ・カーラが喜ぶね。あの性悪の女。悪辣な魔法士。
ああいうものは、西の大陸では「禁呪」と呼ぶんだ。
禁じられし構成を使った、単なる魔法だよ。あってはならない魔法具だ。

禁呪……? 何故そんなものが存在している。

簡単なことさ。ダニエ・カーラは人々が間違う様が見たかったんだよ。
神の力と有難がって、禁じられた魔法を貴ぶ人間を嘲弄してた。
まったくろくでもない女さ。―――― でも神はそれを、咎めなかった。






かつて大陸の片隅で交わされた王と老婆の会話を、イラードは知らない。
だから彼もまた己の持つ短剣を、神具の一つと信じて疑っていなかった。
壊れかけていた短剣に必要とされるものは、古代の文献によれば魔力を帯びた血だという。
その為彼は雇った暗殺者をイクレム城に侵入させ、強い魔力を持つ宮廷魔法士たちを殺させたのだ。
「下がるな! 前進しろ!」
力に狂う男の命令に、兵士たちは混乱の色を見せたが、やがてゆっくりと前へ動き出す。
何が起きているのか、どうすればいいのか分からぬ彼らにとって、イラードの言葉は唯一の指針であった。
ログロキア兵たちは乱れたままの隊列で、残るイクレム軍を追撃し始める。
一方イクレム軍は、波が引くように後退を始めた。
丘の傾斜を僅かに混ざり合いながら下っていく両軍。
その内には、先程戦場を貫いていった白光への畏れが滲んでいるようである。ログロキア軍は背後への恐怖を振り払うがごとく敵軍を追っていった。
丘の上から一連の光景を見下ろすイラードは、イクレム全軍を視界に入れると傾いた笑いを見せる。
「神の力を畏れるがいい」
二発目の攻撃。空を裂く光は、斜め上からイクレム本営を狙って撃たれた。
あわよくばフィレウスを消し去ろうとした白光。その光がイラードの思惑通りの働きをしていたのなら、後の展開は大きく変わってきただろう。
だが偶然か必然か、光はフィレウスよりも遥か右を貫いていった。遅れて起こる爆発にイクレム軍は大きく揺り動かされる。
すぐ傍を白光が通り過ぎていった兵士は、即死こそ免れたものの続く爆風に巻き込まれ、分厚い盾ごと宙に跳んだ。
次々地に叩きつけられひしゃげる体。阿鼻叫喚の光景に、ログロキア本営にいた者たちは思わず息を詰める。イラードは口の端を上げた。
「外したか? だが次はない」
彼は敵軍に止めを刺そうと短剣を掲げる。
しかしそれは、三度目の発動を命じようとした時、イラードの手の中で小さく震えた。見ると半球型の窪みから蜘蛛の巣状に薄く皹が入っている。
「これは……」
―――― このまま発動させ続けては、短剣はきっと壊れてしまう。
イラードは瞬時にそう直感した。蓄えておいた力がつきかけているのだ。彼は舌打ちすると短剣を握りなおす。
隣に控える護衛の魔法士が怪訝そうな表情になった。
「リオン公、どうかなさいましたか」
「血が足りない」
ぞんざいな返答と、白い短剣が振るわれたのはほぼ同時だった。
何をする間もなく己の胸に刺さった短剣を、魔法士は呆然と見下ろす。
イラードは表情一つ変えず、血塗れたそれを引き抜いた。鮮血の飛沫が彼の足に跳ねる。
言葉はない。
絶命した魔法士の体は、短剣が離れた反動で傾き、馬上から消え去った。
にわかには受け入れがたい悪夢のような出来事に、周囲で見ていた者たちも唖然としている。
しかしイラードはその様子に気付く素振りもなく、短剣の柄を確認した。
「まだ足りないか……? ―――― 誰か魔法士を連れて来い! 早急にだ!」
魔法士を呼んで何をしようというのか。言葉にされずとも皆がそれを理解した。
凍りついたかのように動かない周囲を見て、イラードは眉を上げる。
「何をやっている、貴様ら」
狂気を孕んだ男の目。そうしている間にも、丘の斜面では両軍がもつれあっている。
塵を見るような目で混戦を一瞥したイラードは、重ねての命を下そうとした。
だがそこに、魔法の火球が着弾する。
敵軍がいる前方からではなく、本営後方から白い短剣を狙って撃たれた火球。
それはしかし、短剣自体が帯びている障壁によって飛散した。イラードは怒気も色濃く振り返る。
「誰だ!?」
殺気を帯びた誰何。しかしそれに向き合う者はいない。
周囲の硬直した視線が集中する中、イラードは、遥か遠くで黒いローブを着た魔法士が踵を返すのを見た。
それが誰であるのか、彼はすぐさま看破する。
「待て、貴様―――― 」
血に汚れた短剣を手に、味方であるはずの魔法士を追おうとする男。
乱心としか見えぬイラードの行動は、しかし背後から轟く馬蹄によって留められることになった。
剣戟の音が近づいてくる。白い光条はやんだと判断したのか、イクレム軍が再度の突撃をかけてきたのだ。
彼は舌打ちして周囲を見回した。誰にともなく叫ぶ。
「結界を張れ! イクレムを止めろ!」
先程と同じ命令。だが今度は何も起こらない。未だ残る魔法士たちは遠巻きに彼を見やるだけだ。
イラードはそのことに気付くと、白い短剣を握り締める。
血生臭い風。それは彼のすぐ足下を中心として、這うように草の上を広がっていった。






国境間近丘陵地帯での両軍の衝突は、イクレム軍がログロキアを押し切り敗走させたところで決着した。
最後には半ば自壊したかのように崩れていったログロキア軍は、多くの兵もまた捕虜として捕らえられたが、肝心の総指揮官イラード・スィ・リオンは行方不明である。
その為彼が持っていたと思しき兵器も見つかっておらず、フィレウスはそこに一抹の不安を覚えていた。
彼は軍を集めて被害状況を確認すると、次の戦いに向けて再編成を指示する。
正体不明の攻撃によって多くの兵が失われたことに、士気は多少落ちていたが、あまり時間はかけていられなかった。
せめて他の周辺国が介入してくる前に、ログロキアの城都だけは押さえておきたい。
イクレム軍は兵士たちに休息を取らせつつ、偵察を送り出す。
陣中のフィレウスに次々入ってくる情報。その中には、丘陵での戦いにおいて敵方にダルトンがいたとの報告もあった。
それが事実であるらしいと複数の報告から確認した王太子は、思わず渋面になる。
「ということは、あの少年もログロキアにいるのか」
迅雷が敵軍にいるということは厄介なことではあるが、それでも致命的なことではない。
しかしあの黒い左腕を持った少年がいるのなら話は別だ。
フィレウスは既に、アリスティドの部下である女に確認し、彼の少年が確かに「女皇の騎士」であったと知っていた。
どういう事情か少年自身己の素性を知らず、またケレスメンティアからも接触は受けていないようだが、彼の存在を女皇が知ることになれば厄介だ。現在騎士を持たない彼女は、彼を保護しようと介入してくることもありうるだろう。
そうなれば、計画を前倒しにせざるを得なくなる。フィレウスは、多くの負傷者が出ている現状には酷だと知りながらも、早急な進軍再開を指示した。
そしてその四日後、戦場はログロキア城都へと到達する。










ケグスが転移門の向こうへ消えてすぐ、魔法士の老婆も何処へともなくいなくなってしまった。
取り残された二人と一匹は、重苦しい空気の中、何も言えずに沈黙する。
アージェはしばらく迷っていたが、壁に寄りかかると結局思ったことを口にした。
「きっと俺たちがあっさり城都を出られたのって、親父さんが残ってくれたおかげ……なんだよな?」
過ぎ去ってしまったことを確認しようとする少年に、カタリナは俯いたまま答えない。
そしてそれは彼の指摘が正しいことを意味しているのだろう。アージェは大きく息を吐いた。
あの時イクレムからどさくさで脱出してきたにもかかわらず、彼らにはほとんど制限が課されなかった。
口止めだけをされ、城都を出ることさえ許可されたのだ。きっとその時には既に、ダルトンとログロキアの間では交渉が済んでいたに違いない。
一人城都に残るという男の真意を考えてみようともしなかった自分に、アージェは行き場のない苛立ちを覚えた。ダルトンに貰った剣の柄に触れる。
「カタリナも最初から知ってたんだよな? 俺にだけ黙ってた?」
もう一度問うと、女はしばらくして微かに頷く。彼女の腕の中でルトが窮屈そうな声を上げた。
全てを知って溜息も出ないアージェは、重い視線を床に落とす。
「……気を使わせてごめん」
「少年のせいじゃないよ。私とか今はログロキアの人間だから、知って欲しくなかったし、巻き込みたくなかった」
「うん。でも」
言いかけてアージェはかぶりを振る。言いたいことが上手く言葉にならない予感がしたのだ。
彼はぐちゃぐちゃと感情に引き摺られそうな思考を、一度断ち切った。
そうして核となる考えだけを自分の中で確認すると、壁を蹴って体を起こす。
女は僅かに顔を上げた。
「カタリナ。俺は、そうやって守ってもらったり色々教えてもらえたこと、本当にありがたいと思ってる。
 ―――― でもこれ以上はいい。大丈夫だ。守られなくても平気なようになるよ」
「少年……」
初めて出会った日、ケグスは確か「大人が助けてくれる間に経験を積んでおけ」とアージェに言ったのだ。
それは確かに、得られるのならそれに越したことのない猶予で、だがいつまでも甘えていられるものではないだろう。
今この時がいい機会だ。アージェは煩悶を抱えつつも毅然とした目で女を見つめる。
「とりあえず、これから二人でいる間は、俺が面倒ごと引き受けるから。
 ケグスからの連絡を待ってる間に情報を集めよう。コダリスにどういう手順で抜けるかも―――― 」
彼の言葉はそこで小さくなって消えた。二人は同時に同じものを凝視する。
カタリナとアージェの間、部屋の中央の空間に突然水が揺れるような歪みが現れたのだ。
以前も同じものを見たことがある彼は、すぐに剣の柄を握りながら息を殺した。ケグスが戻ってきたのか、それとも別の誰かが転移して来ようとしているのか、様子を窺う。
答はすぐに出た。
転移門の中から飛び出してきた少女は、アージェを見るなり叫ぶ。
「お願い! 助けてよ!」
「……リィア?」
名を呼ばれた少女は、右手を精一杯彼の方へと伸ばした。
何の説明もなく、ただ求められた助力。アージェはじっとリィアの掌を見た。彼女は初めて見る表情で懇願する。
「お願い……っ!」
血に汚れた手は、変えられぬものを変えようと足掻く絶望のようだ。
剥がれかけた爪と、深い裂傷の走る指。
アージェはその掌を見て―――― 何も考えず己の手を重ねる。リィアの肩越しにカタリナの驚く顔が見えた。
繋いだ手が強く引かれる。

何も知らない彼は、こうして空間を越え、戦場に立った。