女皇の騎士 076

予想はしていた。
だがその予想を現実が上回ったことは確かだ。リィアは血塗れた手で髪を掻き毟る。
時間はない。今も街のあちこちで凶刃が振るわれ、物言わぬ屍が生まれ続けている。
迷っている時間はないのだ。出来るだけ早く行動しなければならない。
彼女は詠唱を重ね複雑な構成を生んだ。居場所の分からぬ少年を探し、転移門を開こうとする。
彼を見つけ出そうにも、リィア自身が渡してあった指輪は目印にはならない。それは返され、今は彼女の手元にある。
―――― 分の悪い賭けだ。
探し当てられるかどうかも分からぬ未熟な異能者に頼るより、師が望んだ通り一人でもこの街を脱出した方がいいのかもしれない。
しかしリィアはどうしても諦めることが出来なかった。構成を調節し、転移座標を彷徨わせ―――― ふとあることを思い出す。
探している少年が首からかけていた革紐。彼はそこに、二つの指輪をまとめて通していた。
一つは彼女が渡したもの。そしてもう一つは、底知れぬ力を秘めた「何か」だ。
彼はどうやってそれを手に入れたのか。
ともかくリィアは慌てて自分の服の中を探る。返された指輪に微かに残る、移り香のような力の残滓に意識を集中させた。その残滓に半ば頼って、強引に転移門を開く。

求めて望んで、救いの手が得られるのかどうか。
そのようなものがこの世界にあるというのか。
彼女は考えない。ただ汚れた手を前へと伸ばす。
魔法の構成越しに歪んで見える視界。
それはいつも通りあるがままで、変わらず傾いていた。






転移門を通り抜け彼が立った先は、見覚えのある暗い部屋の中だった。
リィアの師匠である男がいた部屋。しかし今のそこは散々に荒らされ、部屋の主人の姿もない。
代わりに床の上には二人の兵士が伏しており、彼らの流す血が散らばった本の上に厚く染み出していた。
アージェは眉を寄せて二つの死体を見やる。
「これって―― 」
言いかけた少年はしかし、次の瞬間激しく前へ転びそうになった。何とか踏み止まりながら背後を振り返る。
そこにはルトを抱いたままのカタリナがおり、アージェの背中に激突して呻き声を上げていた。
彼は呆れて彼女を見やる。
「何で来たんだよ」
「少年を一人では行かせられないよ……」
「だからそういうのはもういいって言って―――― 」
「子供だからとかじゃなくて」
きっぱりとした声にアージェの苦言は遮られた。カタリナは顔を上げ、強い意思を含んだ目で彼を見返す。
「君のこと、仲間だと思ってるから。だから来たの。ごめん、足手まといなのに」
「カタリナ」
頭を下げる女は、床に転がる死体を見つけて沈痛な面持ちになった。
その顔に、アージェは彼女の抱える感情を想像し息を詰める。自分の未熟さを改めて意識した。
「ごめん、カタリナ」
「ん」
女の腕をルトが逃れ出る。床の上を蹴ってアージェの横をすり抜けた彼は、リィアの隣で止まった。
彼らをここに連れてきた魔法士の少女は、厳しい表情で廊下の気配を窺っている。
アージェは死んでいるイクレム兵を見下ろした。
「リィア、コデュは?」
「はぐれた。師匠は両軍に追われてるの。だから助けて欲しくて……」
「追われてるって何で」
「後で説明する!」
言うなりリィアは扉を蹴り開ける。
明かりの乏しい廊下は、まるで突風でも行きすぎていったかのように荒らされていた。
アージェは、足音を抑えて走り出す少女の後を追う。
どうやらこの家の中にコデュはいないらしく、彼女は真っ直ぐに裏口へと向かった。
再び扉に背を預け、外の音に耳を澄ますリィアは、険しい表情のまま頷く。
「今、外は酷いことになってる。乱戦状態だから、覚悟してて」
「分かった」
アージェはふと、ディーノリアがどうしているか心配になった。
ログロキア城都の何処かにいるであろう彼女は、今この状況にあって無事でいるのだろうか。
事態を察したテスが戻ってきていればいいと思いながら、アージェはとりあえず意識をこの場へと引き戻す。
彼はあることを思いつくと、左手の手袋を外した。黒い糸を作りルトを変化させる。その上で糸を切り離すと、ルトに「カタリナを守ってやって」と頼んだ。
リィアは扉の掛け金に手をかける。
外に出てしまう前にと、アージェは確認した。
「俺たちはコデュを見つけて一緒に離脱すればいいのか?」
リィアはその為の人手として自分を呼んだのだろうと、半ば以上確信しているアージェに、彼女はかぶりを振る。
少女の双眸は彼の上を彷徨い、最後に嵌めなおされた左手の手袋を見つめた。
「それもそうだけど……それだけじゃなくて」
「じゃあ他に何を?」
―――― 必要であるのなら今すぐ走り出せる。
剣を手に先を見据えようとする少年は、両足の爪先に力を込めた。その視線の先で、少女は一瞬困惑の表情を見せる。
いつも強気な態度を崩さず傲然と顔を上げていた彼女は、この時、まるで不安げな子供のように見えた。
大きな瞳に翳が差し、爪の剥がれかけた指先が震える。
リィアは戸惑いを窺わせる顔で、乾いた唇を僅かに動かした。
「何をして欲しいって、そういうわけじゃなくって……。もうどうにもならなくて。
 私はただ……君に、助けて欲しくて……」
「分かった」
不明瞭な答。それに返せるものは断言でしかない。
アージェが頷くと、少女は目を見開く。その肩を叩くように少年は応えた。
「出来る限りのことをするよ。援護は頼む」
この家を出た先に何が広がっているのか、未だ知らない彼の言葉は単なる安請け合いなのかもしれない。
しかしリィアは力強い答に睫毛を伏せると、肩の荷が軽くなったかのように「ありがと」と微苦笑したのだった。



リィアに協力を約束した時、覚悟がなかったわけではない。
けれどそれでもアージェは裏口を出てすぐの角で、「うっ」と声を詰まらせ足を止めてしまった。
元々薄暗かった裏町の路地。そこにはしかし、いまや黒い靄がみっしりと立ち込めている。
道の先が見通せなくなるほどに濃いそれは、道端に広げられた黒い布から染み出しており、その下には何かが隠されているようであった。
盛り上がった布の形から、それらが何であるか察してアージェは気分の悪さを噛み締める。
隣に来たリィアが彼の肩を叩いた。
「行こう。時間が惜しいわ」
「……うん」
こうしている間にも、何処かで何かが手遅れになっているのかもしれない。
三人と一匹は辺りに人の気配がないことを確認すると、狭い路地を走り出す。
アージェは遠くから聞こえるいくつもの怒号に顔を顰めながら、女二人に言った。
「一応断っとくけど、俺、あんまり靄が濃いとその先が見えないんだ。前に一度それでしくじったことがある」
「見えないって……それ、君の異能じゃないの?」
「そうなんだけど。靄で隠されて向こう側が見えなくなったりするんだ。狭いところなんかは危ない」
「自分で調節出来ないの? 魔法士は魔力視を調節する訓練とかするんだけど」
「調節……出来るものなのか? 訓練もしたことないから分からない」
「私も分かんないわよ」
リィアの返答は当然のものだろう。非常に珍しい異能者である彼のことだ。その詳細を彼女が知っているはずがない。
しかしアージェは、彼女の師の言葉を思い出し考え直した。
あの時確かコデュは「訓練すればもっと多くを見ることが出来る」と言ったはずだ。
それが、魔法士の訓練を踏まえてのことであるなら、同様に視力を落とすことも出来るのかもしれない。
アージェは、今を乗り切ったらリィアにやり方を聞いてみようと頭の中に書きとめた。
先頭を走る少女は、斜めに折れた角を曲がる。
しかし直後、彼女は「あ……」と呟き、急停止しようとした。すぐには止まりきれない体を、アージェが後ろへ引く。
少女を庇って間に割り込んだ彼は、素早く剣を抜き、そこにいた人間へ構えた。
全身薄汚れてぼろぼろの男は、悲鳴を上げて跳び下がる。リィアの手がアージェを留めた。
「待って。知り合いなの」
「知り合い?」
「リ、リィア、探してたんだ。女子供を避難させた。転移門を開いて欲しい」
「分かった。何処?」
「すぐそこだ。ドクの家の裏の―――― 」
男の指が右後方を指差す。しかしその時、同じ方向から女の悲鳴が上がった。
リィアはそれを聞いて弾かれたように駆け出す。あとの三人を振り返ることもなく、建物の狭い隙間をすり抜け、声のする方へと向かった。そのすぐ後をルトが追う。
女の悲鳴はやむ気配がない。むしろ狂乱の様相を呈して響き渡る。
更には子供の泣声が加わったそれは、明らかに尋常ならざる事態が起きていることを示していた。
アージェは路地に転がる箱を飛び越えてリィアの後に続く。身軽な少女の体は二つ目の角を曲がったところで見えなくなった。間髪置かず、彼女の怒声が空気を震わす。
「あんたたち何してんのよ!!」
アージェは足を止めない。ルトの尾が消える角を、僅かに遅れて曲がる。
そこにはリィアの背があり、彼女は両手を広げて、数人の男たちに対していた。感情の塊である声が、薄笑いを浮かべる彼らへと投げつけられる。
「……っ、殺してやる! お前らみんな死ね!」
少女の足下をルトが駆け抜けた。アージェは自身も身を屈めてリィアの脇をすり抜ける。
四方を建物に囲まれた空間。くたびれた倉庫の前には黒い靄が充満し、ほとんど視界が効かない状態になっていた。
何が起きているのか全貌が見通せない少年は、それでも一番手前にいたログロキア兵へと向かう。
片手に赤ん坊の首を握っている若い男は、まるで光のない眼でアージェを見下ろした。現実に自身を適応させようとしない隔絶感が、そこには垣間見える。
アージェは男が動くより先に、その体を一閃で斬り上げた。頭のすぐ後ろを熱風が吹きぬけていく。
やけに何もかもがゆっくりと動いて見える時間。一言も言い残すこともなく、男は仰向けに倒れていった。
その手からずり落ちる赤ん坊を、アージェは左手で受け止める。
別の兵士の悲鳴。周囲の靄があまりにも濃いせいか、左腕がざわざわとした感覚に襲われた。
少年は「澱」を吸い込みたくなくて息を止める。
吐き気を堪えながら彼が取り戻した赤子の顔を見下ろすと、火がついたように泣き出す子供の白い肌には、男の血の飛沫が鮮やかに跳ねていた。