女皇の騎士 077

闇が広がっていく。
人の血を、魔力を食らい拡大していくそれは、夜の草原を駆け抜ける風のように混乱の満ちる城都を移動していった。
何処までも追ってくるそれの気配を背後に感じながら、男は自嘲を浮かべる。
彼は肩から引きちぎられた右腕を押さえて、狭い裏道を走った。倒れそうになる意識をぎりぎりのところで保つ。声にならない呟きを、血の混じる唾と共に吐き捨てた。
「参ったなあ」
本来ならば動くことも苦しい大怪我をしているのだが、止血を施し痛覚を殺してあるので、まだ何とか走ることが出来ている。
しかしそれでも体は正直で、全身を伝う冷や汗は止まらず、血の不足は彼に眩暈を誘った。
コデュは頭の中で一つの構成を組み立てる。
この場から脱出する転移の構成。けれどそれは形になることはない。
彼の存在は、この街の中に繋ぎ止められてしまっている。―――― その右腕を食らった禁忌の短剣によって。
「あー……めんどう。諦めたい」
ぼやいてはみるものの、彼は足を止める気にはなれない。目の前に見えてくる三叉路を半ば引き返すようにして曲がる。追ってくる闇が同様に角を曲がる気配がした。
コデュは薄汚れた建物の隙間から見える空を仰ぐ。
そこに神はいない。それを知る男は虚しく、だが朗らかに笑顔を見せた。



女子供に暴行していたログロキア兵を排除すると、リィアは息のある者に手当を施し、転移門を開いて城都の外へと逃がした。
魔力を使いすぎたのか、最後の子供が転移門をくぐると同時に倒れそうになる少女を、アージェは左手で支える。
彼はリィアの肩を抱いてその場に座らせつつ、ふと傷ついた指の爪に目を留めた。
「それ痛くないのか? 治さなくていいの?」
剥がれかけた爪と肉の間からは、血が滲んでいる。
どう見ても「少し痛い」では済みそうにない有様で、アージェは何故彼女がそれを放置しているのか分からなかった。
しかしリィアは苦々しい顔でかぶりを振る。
「治せないの。これ、食われてるから」
「食われてる? 何に」
「神具もどき」
「もどき?」
何処か滑稽な印象を受ける言葉。
アージェはそれが何を指しているのか聞きたく思ったが、リィアはぴりぴりとしていてすぐには聞ける雰囲気ではなかった。
少女は彼の手を借りて何とか立ち上がると、路地を元来た方へ歩き出す。
最後尾をついてくるカタリナが、ぽつりと問うた。
「もどきって、『ダニエ・カーラの針』?」
「知ってるの? 多分そう……なんだと思う」
「それ何?」
リィアには聞きづらいが、カタリナには気軽に聞ける。
アージェが問うと、彼女はリィアの後を追いながら肩を竦めた。
「ずっと昔の魔法士のことだよ、ダニエ・カーラ。主神に選ばれた人間の一人」
「ああ」
そう言えば以前カタリナに、神が選んだ人間は王だけではなかったと聞いた気もする。
名前は知らなかったが、ダニエ・カーラという女もその一人なのだろう。
カタリナは頭を掻いた。
「ダニエ・カーラは主神ディテルが選んだ人間の中でも変り種でさ。
 自分の手で強力な魔法具……それも人の魂や血肉を触媒とする禁忌の道具を沢山作って、大陸中にばらまいたの。
 で、それらを神具と偽った」
「うへ。何でそんなことしたんだ」
「さぁ……? 彼女についての資料ってほとんど残ってないから。
 で、人々は彼女の作った禁忌の魔法具を神具だと思って使いまくって、あちこちで混乱が起きたわけ。
 その魔法具を総称して『ダニエ・カーラの針』っていうのだよ」
「それが今回関わっているってことか」
言いながらアージェはふっと、このログロキアにやって来た時のことを思い出した。
ディーノリアの小間使いとして潜入したテスが、請け負ったという仕事。
それは白い短剣で魔法士十二人を殺害するという奇妙なものだったのだ。
「もしかしてあの短剣が……」
「そう。あれが今、この街の何処かにある」
リィアの声はあえて感情を押し殺した不透明なものだった。
偽の神具に「食われた」という指が何を意味しているのか、コデュはどうしているのか、アージェはあまりいい予感を抱けない。ダルトンやケグスは無事でいるのか、彼は改めて心配になった。
リィアは少し体調が落ち着いたのか、小走りになって路地を駆け出す。掠れた声が吐き出された。
「さっきさ、師匠を見つけて欲しいっていったけど……見つけてももう駄目かもしれない」
「駄目って何で」
「あの短剣に目をつけられてるから。師匠の魔力が気に入ったのか、持ち主の妄執が感染したかは分からないけど」
魔法士の少女は腕を上げて、剥がれかけた爪を目の上にかざす。
痛々しい傷には、うっすらと黒い靄が滲んでいた。土に汚れた指先には赤黒く血が凝り固まっている。
「―――― わたしのせいだ」
彼女はそれだけをぽつりと零して、固い地面を蹴った。

ログロキアの城都内は、リィアが言った通り酷く混沌とした状況に陥っていた。
踏み込んできたイクレム軍を前に、街は逃げ出そうとする人々で混乱の只中にある。
長い間戦乱とは無縁でいた国はその反動も大きく、ログロキアの民のほとんどが精神の極限に立たされているようだった。
その彼らを、目を血走らせたイクレム兵たちが乱暴に追い立てていく。
母親とはぐれた子供が泣き叫び、兵士の一人に弾き出された老人が道端でえずいていた。
剣を手に人々を追う兵たちは、民衆の中から黒いローブを着た男を引きずり出すと、無造作に斬り捨てる。倒れ伏した男の体は、もはや無と同義であるかのように、何人もの兵士に踏みつけられていった。
何の言葉もかけることの出来ない血生臭い騒乱。
アージェはしかし、それらとは別の不可解な光景を見つけて愕然とする。
人々が逃げ惑う大通りの中央に、まるで塗装されたかのように太く赤い線が引かれているのだ。
いったいそれが何であるのか、目を凝らした少年は、線の上に点々と転がっているものに気付いて絶句した。
彼が何を見ているのか、気付いたらしいリィアが言い捨てる。
「あれが、神具もどきの通った跡よ」
「は?」
「何とか止めないと……」
言いながら少女は、食い残されたかのような人体の部分が残る、赤い線の先を睨んだ。
多量の血で塗装された道は、凄惨を通り越して歪な非現実味をアージェに抱かせる。
建物の陰から様子を窺っていた彼は、刻一刻とあちこちで増していく黒い靄に口元を押さえた。
徐々に侵食してくる澱が、いつか自分の視界全てを覆ってしまう気がして、こみあげる嫌悪を飲み込む。
その時、人々を追い立てていたイクレム兵の一人が、彼らの方を振り返った。
男と目があったのは一瞬、だが相手は鋭い声を上げる。
「おい! お前ら!」
―――― 逃げるのか戦うのか。
当然前者だろうと思いつつ、アージェは今のリィアの様子からいって、後者を選ぶ可能性がまったくないわけではないと分かっていた。
そして当たって欲しくなかったその予想通り、彼女は短い詠唱と共に男を指差す。
「撃て!」
「やっぱりか……」
放たれた銀色の球体は、避ける間もなく兵士に直撃した。大きく目を見開いたまま男の体が跳ね飛ぶ。
周囲の目がリィアへと向かい、殺気立つ叫びが次々に重なった。
「魔法士だ!」
「殺せ!」
剣を手に殺到してくるイクレム兵たちは七人。
周囲の混乱が酷いせいか、それ以上の兵士はアージェたちに気付いていないようだった。
とはいえ、一度に相手が出来る人数でもない。
彼は詠唱しているリィアの妨げにならないよう、後ろから彼女の腰に手を回して抱き上げた。細い路地の中へ引き戻す。
そうして一人ずつしか剣を振るえない狭い道に陣取ると、アージェは改めてリィアの前に出た。
無造作に突撃してきた最初の兵士は、少年の肩越しに撃ち出された魔法を受け崩れ落ちる。
それを見越して踏み込んだアージェは、二人目の兵士と切り結んだ。少年より十以上は年上の男は、顔をどす黒くさせて恫喝する。
「どけ、ガキ!」
「嫌だよ」
押さえつけるように加えられる力に抗しながら、アージェは背後を窺う素振りを見せた。
一瞬の間。先の仲間のことを思い出したのか、男の力が緩む。
武器を引き、慌てて後退しようとする兵士の腿を、少年はすかさず剣で突いた。
絶叫を上げて男が膝をつくと同時に、その頭上を魔法の炎が突き抜けていく。
「リィア、きりがない!」
「だって邪魔なのよ! こいつら!」
二人の兵士を飲み込んだ炎は、アージェにも容赦ない熱気を伝えてくる。
その炎が残る兵士たちを足止めしていると見ると、彼は剣を収めリィアを肩上にかつぎ上げた。
「ちょっと! 何すんのよ! こいつら残しておくと師匠が……」
「先にコデュを探す」
激しい罵倒を耳のすぐ傍で聞きながら、アージェはその場を離脱する。
背を叩いてくる少女の手。しかしそれはすぐに、彼の服を力なく握るものへと変わった。
口には出さないが相当消耗しているらしきリィアに、少年は不安を覚える。
このまま事態を打開することが出来るのか。何をすればいいのか、確信が持てない。
だがそうはいっても立ち止まっている時間はないだろう。
彼は先程見た血の跡を思い出しながら、ただ彼女の師を探して細い道を走っていった。



事態は芳しくない。むしろ最悪と言っても差し支えない状況だ。
ログロキア城都の東門に陣取り、制圧の指揮を行うフィレウスは、一連の報告を聞き内心そう呟いた。
早急な決着を求めて辿りついた敵の王城。この街で待っていたものはしかし、制御出来ぬ混乱である。
彼は自身の判断にいくつかの誤りを見て、ささくれのような後悔を抱いた。
「まさか『ダニエ・カーラの針』だったとはな……」
先だっての戦場で、イクレム軍を焼き払った「何か」。
それを神具と判断したフィレウスは、行方をくらましたイラードを確保し、短剣を奪取するよう命じたのだ。
しかしその命令が結果として、イラードの暴走を許してしまった。
イクレム軍の先兵が門に到着した時、男は城門の上に血塗れた短剣を持って佇んでいたという。
正気を失ったような目に、騎士たちは皆、戦場でのことを思い出し、嫌な予感を抱いた。
後から思えば、その時さっさとイラードを射殺していれば、今の事態は防げたのかもしれない。
しかしイクレムはまず彼に投降を勧めた。その間に、暴走は起こったのだ。
―――― イクレム軍に向かって短剣を振りかざした男と、それを留めに入った二人の魔法士。
白い短剣は、まず少女を庇った男の魔法士の腕を屠り、そのままイラードを飲み込んで黒い闇となった。
見た者に本能的な恐怖を抱かせる黒色。それが生まれた瞬間、居合わせた人間たちはただ硬直していたという。
そして続く虐殺の標的となった者は、イクレム軍の先陣にいた魔法士とその周囲にいた者たちだった。
どうやら魔法士を探して食らっているらしい闇は、それに気付いた者たちが急いで魔力を持つ者を遠ざけると、殺し損ねた最初の魔法士を追って街の中へと戻っていったのだ。

人間の血肉を食らい力とする禁忌の道具。
久しぶりに行き当たった『針』の異様さに、フィレウスは唾棄したい衝動に駆られる。
「とにかく、あれには近づくな。特に魔法士は。魔力を食らえば力が増す」
そう厳命して街を制圧に行かせた兵士たちは、『針』への恐怖のせいか、魔法士を見つければ『針』より先にと殺害してしまっているらしい。フィレウスからしてみれば苦々しい事態ではあったが、起こっている現実を思うと、それを禁ずることは出来なかった。
今も街の何処かを這っているであろう闇と、自軍に蔓延する恐怖。
それに指揮を失ったログロキア兵の無軌道があいまって、城都はすっかり制御出来ぬ混沌に陥ってしまっている。
この分では制圧が完了しても、傷痕は深いだろう。
フィレウスはせめて少しでも早い終息が得られるよう、落城を急がせた。
王が立てこもっているという城は、イクレム軍だけでなく『針』をも恐れているのか、跳ね橋を上げたまま微塵も動きを見せない。
本当ならば魔法での潜入を行いたいのだが、徘徊する『針』の為、フィレウスも魔法士を投入できずにいる。
「せめて『針』を排除出来ればな……」
ダニエ・カーラの針は、決して破壊出来ぬものではない。
以前、首飾りの形をしたそれを叩き壊したアリスティドを思い出し、フィレウスは思案顔になった。
しかし結局は、答が出せぬまま嘆息だけが洩れ出でる。
「西の大陸であれば、『針』に対抗出来る魔法士もいるのだろうな……。魔女とかいう化け物さえいる場所だ」
埒の明かない閉塞感。―――― しかしここで退くことは出来ない。
だがそう思った彼の耳に数分後、現状を覆す一つの報告が届いた。