女皇の騎士 078

(ダニエ・カーラの針が暴走している……)
囁きよりもひっそりとした女の思考は、宿主である少年の精神にさえ届かなかった。
それを承知で思案する彼女は、彼の五感を把握しながら状況を見極めようとする。
本来であれば、女皇の騎士として一陣営に属しているはずの少年。
しかし今の彼は、ただ親しい人間たちの為に動き足掻く未熟な人間に過ぎない。
状況を変えるには未だ力不足が否めない一要素。彼女は自分が代わるべきか否か、しばし悩んだ。
だが彼女の迷いにもう一人の自分が「信じろ」と伝えてくる。
今はもう大半が溶け合い、分化している部分も少ない「彼女」の反応。それが返ってきたこと自体に彼女は軽く驚いた。だがやがて肯定を返す。
(しんじるわ)
かつて多くを奪われた彼女には、もはや彼しか残されていない。
その唯一つを、けれど何よりも貴んで、女は思考を閉ざした。



何処にいるのか分からない男と、やはり何処を動いているのか分からない針。
その先回りをしたいと考える少年は、闇雲に路地を曲がりながら隣を走る女を呼んだ。
「カタリナ。ここどの辺?」
「んー、多分北東地区だとは思うけど。さすがに私も全部の道知ってるわけじゃないから」
「だよな。あの血の跡を追っていけばいいのかもしれないけど」
アージェから見ると、あの血路の上には澱が充満しているのだが、それでも一つの道であることは確かだ。
あの上を走っていけばいつか針そのものに突き当たるだろう。
しかし後追いのそれでは間に合うかどうかも分からず、更にはイクレム兵たちに追われる可能性も高い。
アージェは先程見かけた血の道の向かう方向を思い出し、何とかその先に出られないかと大きく道を右に曲がった。
だが直後、剣を抜いて徘徊しているログロキア兵二人を行く手に見つけ、嫌な顔になる。
少年は何も言わず更に角を曲がって接触を避けようとしたが、運悪く先に相手の方が気付いた。
だらしなく下着を着崩した男は、アージェに「おい!」と声をかける。
「その娘はどうした。ちょっと見せてみろ」
敗残兵らしい荒れた空気を漂わせる男が、親切心でそう言い出したわけではないことは、薄笑いの表情を見れば明らかだ。
アージェは侮蔑の目で彼らを一瞥すると、カタリナの更に後ろに声をかけた。
「ルト、頼んだ」
その声に応えて漆黒の大きな犬が、足音をさせず姿を現す。
今まで建物の影になっていたせいで、その獣の存在に気付いていなかったのだろう。二人の兵士は引き攣った悲鳴を上げた。
アージェは彼らを無視して曲がりかけていた角を先へと進んでいく。カタリナがそれに続いた。
「ね、少年。何で私にはああいう声がかからないのかなー。ちょっと真剣に悩んでる」
「声かかっても嬉しくないだろ」
「かからないのも何だか……」
「じゃ、次はカタリナ置いてくよ」
「やだよー。はぐれたらもう会えないよ」
生産性の感じられない応酬ではあるが、担がれたままのリィアは咎めようとはしない。
それは彼女の心が広くなったというより、単に体力がほとんど残っていないからだろう。
アージェは彼女を何処かに休ませて自分たちだけコデュを探しに行くべきか迷う。
しかし鈍くなった彼の足取りからそれを勘付いたのか、リィアは浅い息をついた。
「平気だから……」
「本当に?」
「当たり前でしょ。自分でだって走れるし……下ろしていいわよ」
「走るのは俺がやるからいい。リィア軽いしな」
東の方角へと向かいつつ、アージェは軽く請け負った。少女は彼の肩上で沈黙する。
「…………この体勢苦しいんだけど」
「なら背負おうか?」
「前に抱っこしてあげればいいじゃん」
「それだと両手が使えない」
実際に人一人を運ぶ状況になって、ようやくアージェは、カタリナを拾ってきた時のケグスの気持ちがわかった。
重くはないのだが、咄嗟の事態には対処出来る状態でいたいと思う彼に、リィアは「このままでいいわよ」とふてくされたように言う。アージェは頷いて彼女の体を担ぎ上げなおした。
「で、どっち行ったらいいのか、分かるなら教えて欲しい」
「そこを右よ」
「了解」
指示された通り道を右へ折れながら、アージェはふと左手の道の向こうに見える建物に気付いて視線を移した。
薄灰色の巨大な建物。それは、この国の王が住まう城である。
今現在、街を徘徊する針とは別に、国同士の争いはどういう状況にあるのか。
気になってはみたものの、アージェにはそれを知る術はない。彼は代わりに、ついてくるカタリナを首だけで振り返った。
「この状況で、ログロキアってこの後どう挽回すると思う?」
「無理だよ。滅びるね」
あっさりとした返答は、アージェに一瞬聞いたことを後悔させる程である。
しかし彼女は、少年のそんな心中に構わず続けた。
「もともと兵力も全然違ったし、ここまで踏み込まれてるならもうどうしようもないよ。
 ダニエ・カーラの針って未確定要素はあるけど、それだけでどうこう出来るとは思えない。
 もっとも、イクレム王太子が死亡したりしたら、ちょっと分からないけど……」
「逆転の可能性か」
ならばログロキアはそこを狙ってくるのだろうか。
特にログロキアに肩入れしているわけではないが、イクレムには嫌な思い出しかないアージェは、それが実行可能であるか少し考えた。
結論としては当然ながら「自分にはどうしようもない」である。
彼に出来ることはリィアの足代わりになることと、彼女を守る前衛を務めることくらいで、あとは身近な人間たちが難を逃れられれば上等だと思っている。
勿論、兵士たちに追われる子供や背中から斬り捨てられる魔法士を見て、何も思わないわけではない。
だが彼という個人には、圧倒的に力が足りないのだ。
アージェはそのことを意識してしまえば、自分こそが苛立ちに捕らわれ、判断を誤ってしまいそうで、今は出来ることだけに集中しようと自制していた。半ば無心で角を曲がり、人気のない道を走る。
彼の肩に担がれたまま頭にしがみついているリィアが、進んでいる方向を振り返った。
「もうすぐ広場に出るわ」
「広場?」
「もし私の考えがあっているなら、師匠はそこに来ると思う」
弱弱しさが窺える声は、一本だけの希望の糸をかろうじて握っているかのようである。
アージェはその希望を前に、改めて気を引き締めた。気を抜けばあちこちに散っていってしまいそうな思考を取りまとめる。

リィアの言った通り、路地の先はひらけた場所に繋がっているようだった。アージェはその手前で一旦彼女を下ろす。
物陰から様子を窺うと、広場の中にはログロキアの民たちはほとんど見えなかった。
むしろイクレム兵たちが、ログロキアの人間を追い出して、ここを拠点の一つにしているらしく、騎士たちや一般兵が忙しなく行き来している。
アージェは一通りを確認すると、小さく唸り声を上げた。
「本当にコデュここに来るのか? 広場に入った瞬間殺されそうなんだけど」
「なら全部片付ければいいでしょ……」
「待て」
ふらっとした足取りで広場に出て行こうとする少女を、アージェは片腕でひょいと持ち上げた。
昔はよくこうして逃げ出そうとする妹を確保してから苦言を呈したものだが、今の彼はその間に対策を考える。
リィアは浮いてしまった足をばたばたと動かすが、当然ながら前に進むはずもない。アージェは少なくとも三十人は常駐していそうな広場の方を窺った。何か案はないものかとカタリナを見ると、彼女は大げさに肩を竦めて見せる。
「近くで何か騒ぎを起こせば、そっちに引き寄せられるんじゃない?」
「あ、それいいな」
その案でいけば、出来るだけ戦闘を減らして場所を確保出来るかもしれない。
簡単に手筈を打ち合わせると、アージェは女二人とルトをその場に残し、広場の反対側へと迂回した。頭の中で数を数えながら、皆が逃げ出してしまった無人の街路を選ぶとそこに罠を張る。
―――― 時間の猶予はない。
迷えばそれが失敗に繋がるだろう。アージェは手袋を外した左手を見やった。そこにはレアに貰った指輪が、言われた通り嵌められている。
漆黒の指に輝く銀の指輪は、少しだけ彼に平穏への恋しさというものを呼び起こした。
道の真ん中に立つ彼は、苦笑して顔を上げる。
「―――― 四百九十七、四百九十八、四百九十九、……五百」
示し合わせた数。
多少の誤差はあれども、それは予想の範囲内だ。
すぐに広場の方から、複数の叫びが聞こえてくる。
悲鳴や絶叫、怒号を交えながら沸き起こるそれは、打ち合わせ通りかなりの速度でアージェの方へと近づいてきた。
まもなく先の角を曲がって漆黒の獣が現れる。
広場を派手に突っ切り、追ってくる兵士たちを引き付けて来たルトの後ろには、十人近い兵士の姿が見えた。
予想通りの人数にアージェは頷く。彼は左手を地へと向けた。
道の真ん中に立つ少年に気付いて、イクレム兵の一人が声を張り上げる。
「危ない! どけ!」
ルトに彼が襲われると思って発したのであろう忠告は、しかしすぐに裏切られることとなった。
漆黒の犬はアージェの隣まで来るとくるりと反転する。
牙を剥いて威嚇の声を上げるルトと、その横に立つアージェに、彼らが敵対者であると気付いた兵士たちはいきり立った。
「お前ら! どういうつもりだ!」
普通の少年であれば怯んだかもしれない恫喝に、アージェはまったく動じず左手を上げる。
その動作にあわせて、地面に張り巡らされていた黒い糸が跳ねた。糸は違わず彼らの足を絡め取る。
「なんだ!?」
急に足を取られた兵士たちは、見事な勢いで転倒した。もんどりうってぶつかりあうと、情けない叫びを上げる。アージェはそんな彼らを義務的に確認した。
締め上げる糸を彼が調整する傍ら、ルトが調達してきてあった油壺を倒す。
その壷から黒い油の筋が地面に伸びていくのを見て、兵士たちは一瞬言葉を失くした。
よく見れば彼らの周囲は、油の染みが作る線によってぐるりと囲まれている。
「な、何をするつもりだ……」
「大丈夫。水場は近くにあるから」
アージェはこともなげにいうと、袖の中から小さな火付けの魔法具を取り出した。リィアから借りたそれを軽く鳴らし、油を染み込ませた布に火を灯す。
そして兵士たちの注視する中―――― 彼は火のついた布を無造作に放り投げた。
油の上でゆっくりと上がる小さな火。
それが着実に炎の輪となって自分たちを取り囲んでいく様を、動けぬ彼らは恐怖の目で見やる。
狭い路地を吹く風はすぐに炎を煽り、その高さを増していった。
「じゃ、いっぱい仲間呼んで何とか脱出して。街が火事になっても困るし」
アージェはそう言って、彼らを拘束する黒い糸を切り離すと、助けを求める叫びに背を向ける。
こうして彼は剣を抜くことなく陽動を成功させると、その場から駆け去った。