女皇の騎士 079

アージェが広場より東で騒ぎを起こしてからまもなく、救援を求める叫び声によって広場はすっかり閑散としてしまった。
おそらくは人目を引き付けていったルトの容貌に、針との関連性があるのではないかと思われたのだろう。
リィアは予定通りの状況を確認すると、少年の帰りを待たず、広場の中へと歩み出た。
一番近くにいた若い騎士が、彼女に気付いて眉を上げる。
「君、もしかして城門で―――― 」
リィアはそれ以上を聞こうとはしなかった。
既に組まれていた構成が発動し、不可視の攻撃が走る。
騎士の頭が唐突にはじけ飛ぶ光景に、広間に残っていた数人の兵士は絶句した。
男の顔面を貫いた空気の槍はそれだけで消えることなく、広場を突っ切り更に二人を屠る。
リィアは残る数人を視界全体で捉えながら、次の詠唱を始めた。
―――― 針の存在により、彼女と師は現在窮地に立たされている。
だがそれは、回りまわってこの場に魔法士がいないという有利を生み出していた。
リィアはその皮肉さに笑い出したくなる。
普通の人間が魔法士の結界や魔法具なしに、魔法攻撃を受けることなど出来ない。
つまり彼らにとって魔法は避けるか、もしくは撃たせないことしか意味がないのだ。
だからこの場にあってリィアは、自分の勝利をはなから確信していた。
彼女へと到達する前に次々と崩れ落ちていく兵士たち。
最後の一人が首から血飛沫を上げて倒れ伏すと、少女は両手を膝についた。乾いた笑いが洩れる。
「は……、はは……ッ」
口の中はカラカラで、血と汗と泥の苦味だけが広がっていた。
リィアは体を起こすと、全身を奮い立たせて両腕を上げる。
剥がれかけた爪。それはじくじくとした痛みを彼女に伝えながら、消えない失態をも甦らせる。
リィアは泣き出したい気分で微笑を浮かべた。長い詠唱を始める彼女を、後ろからカタリナが悲しげな目で見つめる。
アージェはまだ戻ってきていない。
だがリィアはそれを、戻ってこなければいいと何処かで望んでいた。
―――― 彼に頼ってしまったことは自分の弱さだ。
戦場でこそ力を発揮するという彼の異能に期待し、彼女が彼をこの場に引き込んだ。
それはどうしようもない身勝手で、謗られるに充分な横暴だろう。
しかしそれでもリィアは、彼に後ろめたさこそ覚えても、後悔は抱かなかった。

詠唱が生み出す構成が広場いっぱいに広がっていく。
何を打ち合わせていたわけではない。ただこの構成が必要になるだろうと、彼女は知っていた。
そして予想した通り、北側から広場へと入る道にコデュの姿が現れる。
彼は弟子の姿を見て一瞬愕然とした表情になり、だが何も言わず彼女の前まで来て足を止めると詠唱を始めた。
ログロキア城都の中央近くに位置する広場。その更に中心を挟んで、二人の作り出す構成は絡み合い、巨大な一つの構成と成っていく。
広がる構成は次に、城都の外周付近にある六つの構成と繋がっていった。
もしもの為にとコデュがあらかじめ用意してあった外周構成。
彼は針に追われながらもその全てを発動させてきたのだろう。
リィアは、彼がそれを為してくるということを、もとから確定事項として捉えていた。残る魔力を全てつぎ込み膨大な構成を作り上げる。
コデュは弟子からそれを受け取り一つのものと為すと、深い溜息をついた。
「逃げなかったのかい」
「私も、乱世の魔法士ですから」
少女の微笑に、男は落胆の色を見せる。
だがそれも長くは続かなかった。コデュが入ってきた道に、這いずる闇が現れる。
不定形にさざめく闇はまるで粘質の雲のように蠢きながら、広場の中へと進み入ってきた。くぐもった男の声が辺りに響く。
「ここま、でだ、裏切り者、め」
かつては針の持ち主であり、今は闇に飲まれた男の嘲り。
その挑発にコデュは何も返さなかった。ただ近づいてくるそれをじっと見返す。
二人の魔法士が一つの膨大な構成を組んで、忌まれし針を待ち受ける―――― その後ろで、カタリナが呆然と呟いた。
「……イラード?」
旧知の男の名を呼ぶ声は、この場においては塵芥ほどの意味もない。
闇は引かれるように隻腕となった魔法士へと近づいた。蒼白の顔色をしたコデュは、その様子を鼻で笑う。
「あー、やだやだ。……消えちゃえよ、もう」
巨大な構成の要となる最後の一滴。
それをコデュは、僅かな指の動きだけで完成させた。
ここ百年の歴史を振り返っても、類を見ないであろうほどの規模の大魔法。
その発動と同時に、城都全体を範囲として緻密な多段構成が浮かび上がる。
―――― 一度暴走してしまった針を破壊することは容易ではない。
だがそれは、不可能なことでは決してないのだ。リィアはその為に師が嫌々ながら準備をしてきたことを知っている。
彼女は疲弊しきった体へかかる圧力に、悲鳴を堪えながらその場に踏み止まった。
二人の魔力だけではなく、この城都に漂う自然の魔力をも取り込み動かす六角形の構成。
そこからの力が全て広場の中央、這いずる闇へと注がれていく。
丹念に編み上げられた力は赤熱の糸となり、糸は複雑な網となって現出した。
それはコデュの操作によって闇の外側へと覆いかぶさる。
イラードであったものの絶叫が、広場にあがった。

体が軋む。
かかる圧力に精神が捻れ、リィアはあまりの苦痛に発狂しそうになった。
だが彼女は僅かに自由が利く意思によって、構成を支え続ける。
もし自分がこの場にいなかったのならば、これら全てを師が一人で支えたのだ。―――― そう考えれば、限界はまだ遠いように思えた。
リィアは、赤熱の網に締め上げられる闇を見やる。
それは耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げながら、少しずつ小さくなっていくようだった。網の隙間から切り離された瘴気が洩れ出でて宙に消える。
このまま闇の消滅まで耐え切ってしまえば、あとは何の憂いも存在しない。
ログロキアは滅びるだろうが、それはリィアやコデュには大して変わりのないことだ。別の国に移り、またそこを拠点とすればいい。
あちこちで仕事をして溜め込んだ金もあるのだ。それは彼女の理想を叶えるにはまだまだ不十分な額だが、新たな生活の足がかりにはなるだろう。
少女はその想像を現実のものとする為、残る力全てを振り絞った。指先の血管が圧力に耐え切れず破裂する。
だがその痛みも今は感じることはない。彼女は、自分たちの勝利を信じかけた。構成を制御する手に力を込める。
「―――― そこで何をしている!」
場の均衡を崩す声は、彼らの背後から唐突にかけられた。
リィアは顔の角度を変え、それがイクレムの騎士であることを確認する。
男は広場に転がる同胞の死体を見つけ、顔色を変えた。
「貴様ら……」
剣を手にリィアたちの方へと近づいてくる騎士。
彼女は不味いと思ったが、対処のしようもない。
現在広場にいるのは彼女と師の二人、そしてカタリナだけであり、そのカタリナは呆然と焼けていく闇を見つめていた。
リィアは白刃の煌きを視界の隅に見止めながら歯噛みする。
―――― せめてもう少し待って欲しい。状況を見極めて欲しい。
だがそう強く願ったにもかかわらず、騎士は憤りを漲らせて剣を構えた。闇に向かい続けるコデュに向かって誰何する。
「何者だ、貴様……。イクレムに抗う気か?」
その問いにコデュが答えることは出来ない。
リィアは意を決して彼を守る為、構成を手放そうとした。
けれどその時、彼女の肩に誰かの手が置かれる。
「ごめん。遅くなった」
ささやかな風。すぐ隣を抜けていく少年の背に、リィアは深い安堵を抱く。
そしてアージェは、苦悶の声を上げる闇を前にして長剣を抜いた。



イクレム兵たちを罠にかけてから戻ってくる途中、他のイクレム兵を迂回した為若干戻るのが遅れたアージェは、しかし自分が何とか決定的な場面に間に合ったことを把握すると、小さく息をついた。
イクレムの騎士はそんな少年を見て訝しげな表情になる。
「何だ、お前は」
「さぁ……」
アージェの答は彼なりに真剣なものであったが、相手はそれを挑発と取ったらしい。続く問いもなく斬りかかってきた。
彼はその攻撃を自らの長剣で受け流す。
「諦めろ! ログロキアはもはや制圧寸前だ! 怪しげな魔法具に頼っても結果は変わらん!」
「あ、うん」
気のない返事は、アージェがこの戦争の部外者であるからなのだが、相手の男はますますいきりたった。速くなる剣の速度に少年は多少の緊張を抱く。
イクレムにおいては家柄か、実力がなければなれないという騎士。
その称号を冠するだけあって、男の剣筋はさすがにそつなく整っていた。
しかし剣の修行を始めてから数ヶ月とは言え、今まで腕の立つ人間たちと幾度となく対面してきたアージェである。
数段上の実力者たちを知る彼にとって、男の剣は無理なく捌ける範囲内だった。
十数合の攻撃を防ぎきったアージェは、横目でリィアの様子を窺う。
彼女の苦しそうな表情には変わりがなかったが、それでも事態は少しずつ進んでいるのだろう。
少年は背後に感じる闇の存在感を、あえて意識から締め出した。ざわざわと落ち着かない左手に力を込める。
一向に彼を切り伏せられないことに苛立ってか、騎士は大きく後ろに跳んだ。
「投降するなら今のうちだぞ。すぐに応援が―――― 」
風を切る音。
全てを言い終わる前に、騎士の体はゆっくりと揺らぐ。
仰向けに倒れた男の鎧の継ぎ目には、深々と矢が刺さっていた。
誰がそれを射たのか、振り返ったアージェは目を丸くする。
「坊主、なんでここにいるんだ?」
次々広場へと入ってくるログロキア兵たち。その先頭で強弓を手にしているダルトンは、少年を見て心底不思議そうに首を傾げた。



広場に現れた男たちは、ログロキアの正規兵だけでなく、傭兵たちもある程度含まれているようだった。
既にログロキアの敗北は決定的だというのに、何処からこれ程の兵が出てきたのか。―――― アージェは疑問に思ったが、それを問える人間が見つからない。
少年は他の人間たちに囲まれているダルトンを見ながら、改めてまだ闇と対峙している魔法士二人に近づいた。
しかしその時、耳に馴染んだ声が彼の名を呼ぶ。
「アージェ、お前、何でここにいるんだ」
傭兵たちを掻き分けて現れたケグスは、緊迫した声でそう言った。
後を追ってきたことを怒られると思ったアージェは謝罪を口にしようとする。しかし男は、周囲を窺いながらアージェの傍に寄ると、声を潜めた。
「不味い。多分お前がいるせいだ。リィアに言って早くこの国を出ろ」
「へ? 俺が何?」
「だからつまり……」
「これは何だ! いつまでこのようなものに煩わされている!」
ケグスの話を遮る尊大な声に、アージェは顔を上げた。
見るとログロキア兵たちの中から魔法士のローブを着た老人が歩み出て、赤熱の網に捕らわれた闇へと近づいている。
コデュたちの魔法によって大分小さくなったそれは、幼児大の大きさとなって広場の中央に蠢いていた。
老人は汚らわしいものを見るように、網越しの闇を見下ろす。
「まったく、リオン公もこのようなものに惑わされ…… 」
「近づくな!」
そう叫んだのはアージェで、だがそれを言いたかったのはコデュも同様だろう。
ただその場でこれから起こることを知り、なおかつ動き得たのはアージェだけだった。
老いた魔法士が網の上にかざした手。皺だらけのその手に、闇の飛沫が食らいつく。
飛沫は一瞬で魔法士の肘から先を食いちぎり、空中で肥大した。
剣を手に駆け寄った少年の目の前で、それは更に魔法士を完全に飲み込む。
アージェはその闇に長剣を振り下ろした。しかし剣は何の感触もなく闇の中を突きぬける。コデュが声を張り上げた。
「失敗した! 下がれ!」
赤熱の網が、外と内から圧され消滅する。
そうして一つの塊となった闇は、広場の中央で風もなく揺らいだ。先ほどよりもしわがれたイラードの声が哂う。
「お、おおおおろか、な、ものども、め!」
人の形を成そうとして、だが成り切れない泥人形。
まるで悪夢のような闇は歯軋りするアージェを目の前に、愉悦に満ちた快哉を叫んだ。