女皇の騎士 080

着慣れた正装は、紫を基調にした薄布を十数枚重ねたものであったが、彼女はまったく重みを感じなかった。
それは気がついた時には既に彼女の衣裳で、或いは産着と大差ないものであったのかもしれない。
顔を隠すヴェール越しに、彼女は乾いた街道を見やる。
いつの間にか溜息をついていたらしく、隣に馬を並べる灰色の髪の男が「輿にいたしましょうか」と問うてきた。
馬上にいる彼女は気だるげにかぶりを振って答える。
「構わないわ。それよりイクレムの様子はどうなっている?」
「まだ動きは見られません。情報は入っているでしょうが」
「そう」
興味のないような様子は演技ではなかった。彼女は本当に相手方がどう出てもいいと思っている。
それは所詮瑣末事なのだ。彼女が望むことは全て叶えられ、そこに至るまでの道程はささいなことでしかない。
彼女は宝石のような青紫の双眸を閉ざした。
罅割れた街道。そこを歩む道筋に終わりはない。
怖いと、思うこともない。
そのような感情は、彼女にはあってはならないものなのだ。






老魔法士を飲み込み人間大となった闇。
それは広場内の空気を一瞬、凍りつかせることとなった。
ゆらゆらとぶれる輪郭は、蠕動する内腑を思わせ、見る者に少なくない嘔吐感を与える。
その闇の正面にいるアージェは、黒い表皮がぴたりと動きを止めた刹那、咄嗟に左手を上げた。
背筋を走る戦慄。闇から伸ばされた鋭い触手が、彼の黒い掌に当たって止まる。
手を貫かれるかもしれないと、思わないではなかったが、剣が効かなかったところを見ると、これは澱と同種の存在なのだろう。
反射的に意識を集中させた左手は、何とか闇の攻撃を防ぐことに成功していた。鋭い切っ先を受け止めた皮膚が、ちりちりとした刺激を伝えてくる。
無言での睨みあいのような時間。
闇はそれを無為と思ったか、アージェの手から切っ先を引いた。代わりに矛先を、少年の後ろで倒れている少女へと向ける。
「リィア! 逃げろ!」
アージェは何とか闇と彼女の間に割って入りながらそう叫んだが、リィアが動く気配はない。彼女は全力を込めた魔法を破られ、気を失ってしまっているようだった。
一方コデュも何とか彼女に歩み寄ろうとするが、体力の限界がきたらしくその場でよろめく。
アージェは苦し紛れにリィアへと伸ばされる闇の手を掴んだ。唖然としている周囲の人間に叫ぶ。
「誰か手貸してくれ! 後ろの二人を……」
「世話焼ける女だな」
面倒くさそうにケグスがリィアを抱き上げた。
彼は立ち尽くしたままのカタリナに「お前もさっさと逃げろ」と言って広場の中心から消える。
その間にコデュもまたログロキア兵の一人に支えられ、闇から距離を取った。

魔法士は当然、他の兵士たちも遠巻きに様子を窺う中、アージェは掴んでいた黒い触手を払う。
彼はそれが他の人間に攻撃の手を伸ばさないよう牽制の意味を込めて睨みつけた。
大剣を手に近づいてきたダルトンが、闇を挟んで少年に労わりの声をかける。
「またおかしなことになってんなぁ、坊主」
「いや本当、これどうしよう」
「う、ぬぼれ、るなよ、こぞう」
憎悪溢れる脅しにアージェは顔を顰める。
それを聞いたダルトンは何の前触れもなく一歩踏み込み、大剣で闇の胴を薙いだ。
しかし鋼の刃はやはり闇の中を何の抵抗もなく通り抜けただけである。彼は反撃で伸ばされた闇の手を避けて、二歩下がった。
アージェはその間に左手の指を握ったり開いたりしてみたが、いつかのように短剣を作ることは出来ない。
少年は足を狙って伸びてくる黒い矛先を、軽く跳躍してかわす。
「ルトがいればな……」
少し前まで行動を共にしていた黒い犬は、現在アージェと分かれて街の中を動いているはずである。
それはイクレム軍をこの広場から引き離す為の策の続きであったが、ルトがいない間にこのようなことになるとは思わなかった。
アージェは、黒犬に与えた澱が切り離されたままでいる為に、普段より少し染まっている部分が少ない左腕を見やる。
この黒の量では武器を作れてもそう大きなものは無理だろう。彼は仕方なく糸を紡ごうと意識を切り替えた。
一方闇も、自分に対抗出来る異能者を忌々しく思っているようだが、他の人間は皆遠巻きに構えている為、狙いを変えることも出来ない。
一時は街中を徘徊し人々を食らって回ったそれも、先ほどの巨大魔法の攻撃によってほとんどの力を削がれているのだろう。激しい苛立ちだけが空気の揺れとなって伝わってきていた。

まるで滑稽な緊張状態。
けれどそれだけが長く広場を支配していることは出来なかった。
息を飲んで闇の動きを注視していたログロキア兵たちの中から、何人かの騎士が現れて囁きを交わす。
そのうちの一人が背後からダルトンに歩み寄った。
「ダルトン殿、もう時間が……」
「ああ、そうか。こりゃ困ったな」
「親父さん?」
睨みあう闇と少年。広場の中央にいる彼らを避けて、兵士たちは動き出す。
事態が飲み込めぬアージェに、ダルトンが補足した。
「坊主、もうすぐここは本格的な戦場になるかもしれない」
「戦場って……既にそうなってるんじゃ」
「違う違う。状況が変わったんだ。ログロキアにケレスメンティアがつくことになった。
 このまま戦闘が長引くかもしれんし、イクレムが停戦を希望してくるかもしれない。
 でもケレスメンティアが到着するまであとしばらく持ちこたえられれば―――― ログロキアの負けはなくなる」

神に愛された国。女皇が治める最古の皇国。
神代から唯一在り続けたケレスメンティアに、匹敵し得る国は過去にも現在にも存在しない。
その為、この国を正面だって相手取ろうとした国は、大陸の長い歴史においてもそう多くはなかった。
逆にケレスメンティアの方でも、神具さえ擁しているというその力を、他国に対し正面から振るったことはない。
ただ他国同士の争いに間接的な関与をしてくることがあるくらいで、今回のように隣国でもない国に軍隊を持ち込むということは非常に稀な事態だった。
―――― そのことをアージェは、もっとずっと後になって知った。



これからの戦闘をしのげるかどうかに、ログロキアの存亡がかかっている。
それは敗戦を覚悟していた人間たちに大きな希望を与えたのだろう。
王の命令で城内で守りについていた人間たちもまた、イクレム軍の侵攻を街中で留めることになった。
そうして今に至るのだと、ダルトンから手短に教えられたアージェは嘆息したい気分になる。
「えーと、で。これどうするの?」
「さぁなぁ」
これ、と指し示された闇は、未だアージェと緊張状態にある。
少年は眉間を狙って突き出された黒い穂先をすれすれで避けた。ひやりとしたものが背筋を走る。
いくらログロキアに好機がめぐってきたのだとしても、この闇については計算外の要素なのだ。
何故かそれと敵対する羽目になってしまったアージェは、舌打ちを堪えて黒い輪郭を見据えた。先ほどから左手のざわめきが次第に大きくなっている気がする。
―――― 妙に落ち着かない。
それがこの状況のせいか、それとも目の前にいる闇のせいかは分からないが、アージェは眩暈未満の気分の悪さを覚えて仕方なかった。効かない長剣を鞘に戻すと、伸びてきた闇を左手で切るように払う。
黒い手によって切断された闇は、そのままほとんどが宙に消えたが、一部は少年の腕にかかって吸い込まれた。アージェはそれに気付いて眉を寄せる。
闇はその体を震わせた。
「お、のれ、こぞう」
ますます強くなる怒りの気配に、アージェの方は嫌気が強くなる。
ここが人里離れた山奥などであったなら、彼は間違いなくこの闇を放置して帰っていただろう。
少年は闇との間に一定の距離を取りながら吐き捨てた。
「もうこれ、イクレムにぶつけた方がいいんじゃないの?」
「そう出来るならそれでもいいとは思うけどなあ」
完全にアージェを敵視している闇を、ここから引き剥がしてどう動かせばいいのか分からない。
おそらくはイラードの意識は僅かに残っていても、思考出来るほどの知能はもはや存在しないのだろう。
埒があかないと思ったか、闇は連続して槍状の触手を打ち出してくる。
アージェはその攻撃を大きく右に跳んで避けた。目の前に突き出された槍を左手で掴む。掌を痺れが走った。
―――― やはり落ち着かない。
この落ち着かなさは何に起因するものなのか。ただ嫌悪感とは別に、居心地の悪さを感じる。
アージェは正体の分からぬざわめきに闇から少し距離を取った。
そこに他の兵士から何かを耳打ちされたダルトンが近づいてきて、声をかける。
「坊主、平気か?」
「あー、うん。今のところは」
「もうすぐここでイクレム軍を迎え撃つ。だからそれまで持たせられれば」
「向こうに押し付けられるかも、ってことか。分かった」
もともとの敵であるイクレムを相手にするということになれば、針に飲まれた人間も本望だろう。
そのように自分の中で結論づけると、アージェは闇に視線を戻す。上げた左手の指に、銀の指輪が見えた。
少年はふと、右側に立ち尽くしている人物に気付く。
彼についてこの街に来た女。
彼女は虚脱しきった空っぽの表情で、かつて人であったものを見ていた。アージェは灰色の瞳を訝しげに覗き込む。
「カタリナ?」
「少年……」
彼女の貌に、いつもの稚気や知性は見られない。
ただひどくむき出しの人間の顔がそこにはあった。彼女はぽつりと呟く。
「もう、つかれたよ」
何処までも沈んで、黒い海へと落ちるような述懐。
それきりカタリナは、石のように動かなくなってしまった。



この街を舞台とした戦況がどうなっているのか、アージェにはまったく窺い知ることは出来ない。
それは広場にいる多くの兵もそうなのだろう。ただあちこちで情報を告げる声が飛び交い、布陣が作られていく。
彼自身その様子をまじまじと眺めることは出来ないが、周囲の空気が一秒ごとに張り詰めていくのが分かった。
初めて嗅ぐ戦場の空気。その只中にあってまるで全てから取り残されたように、アージェは異形と対峙している。
魔法士を食らう闇に、近づく者はいない。
同様に、黒い左手を持つ彼に対しても、周りからは訝しむような空気が漂っていた。
だが彼はそれで構わないと思っている。なまじ助けの手を出されても困るのだ。彼の実力では他人まで庇うことは出来ない。
「―――― よし、やってみるか」
戦場であろうとも、彼が動かせるのは彼自身のみである。
少年は意を決すると一つの仮定を胸に、左手を構えた。