女皇の騎士 081

さぁ、愛していると、言いなさい。

ケレスメンティアが、ログロキアへ援軍を出したという情報は、当然ながらフィレウスの元にも届けられていた。
予想できた展開の中でも、最悪の状況。
その只中に置かれることとなった彼は、自軍と自国、そしてもっと先の為にどう動くか決断を迫られる。
―――― 自国の利を考えるのなら、ここでログロキアから調停を申し出させた方がいい。
そうなればイクレムは戦勝国としてログロキアの上に立ちつつ、ケレスメンティアとぶつかる前に退くことが出来る。これが最善だ。
しかしログロキアも、あと少しで神の国を味方につけられると分かっている以上、ここで下手に出てくることはあるまい。
よほどの窮地にでも追い込まねば、イクレムこそ折れるべきだと構えて譲らないだろう。
事実、王城に残っていたログロキア軍の残党は、現在街中に布陣を始めているらしい。
フィレウスは強者の威を借ろうとするログロキアに冷笑を浮かべた。
彼の近くに控えていた魔法士が声を潜めて問う。
「いかがいたしましょうか。兵を退かせましょうか?」
「いや……」
ここで退けば、それこそログロキアの思うつぼだ。
フィレウスはそう断じると、首を横に振った。
離宮が焼かれた二年前の事件も、フィレウスは首謀者を公表出来ていないのだ。今回のことまで退いて済ませてはしめしがつかない。
それでは第二第三のログロキアを生むだけのことだろう。ましてやダニエ・カーラの針まで使われたのなら尚更だ。
フィレウスは短い間にそう結論付けると、魔法士に確認する。
「針は今、動きを止めているのだな?」
「そのようです」
「ならば、街中に兵を投入する。制圧は不要だ。
 ケレスメンティアが来る前に、布陣しているというログロキア兵を叩き潰して来い」
ログロキアに残る武力を徹底的にそぎ落とし、それを以って報復とする。
そうすれば早期の回復は困難であろうし、回復を待つ間に他国からの侵略を受けないとも限らないだろう。
今まで長い間微温湯の中にいたログロキアだ。大陸の風を受けながらの復興というものは存外堪えるに違いない。
フィレウスはそれくらいで切り上げてやろうと、長年の隣国を眺め渡す。
―――― もし自国のことを二の次に出来るのなら。
そこにはまた別の選択も待っている。だがフィレウスは今この時、その選択を選ぶにはまだまだ時期尚早と考えていた。
彼は自嘲ぎみに唇を上げ、この戦争の終わりを至近に定める。
視界の先、城都を挟んで近づいてきているであろうケレスメンティアを、意識の先に睨みながら。



布陣が為されていく広場の中央で、アージェは人間大の闇を前に軽く構えを取っていた。
右足を後ろに、左手を前に出した格好。
僅かに腰を落とした姿勢は、ケグスに教えられた「短剣を使って戦う時の体勢」を応用したものである。
しかし今の彼は、左手に何も持たぬまま闇に向かい一人対峙していた。先ほどから波のように打ち寄せる居心地の悪さを、あえて無視する。
イラードであったものは、そのような少年を見て失笑を漏らした。
「それで、なに、を、するつも、りだ?」
「ちょっと思いついたから。実験」
「お、ろかな。おも、いつきで、いのち、を、おとすと?」
まだ若い人間の愚かさを嘲笑う声に、アージェは顔を顰める。
彼は慎重に間合いと機を見計らいながら、人の残滓に返した。
「馬鹿はどっちだよ。そんな姿になったくせに」
人を捨て、妄執の塊となった男。針に食われた彼に、少年の言葉は真っ直ぐに突き刺さる。
真実を突かれたことによる沈黙。間を置いて唸り出す闇に、アージェは何の同情もない眼を向けた。
「それに―――― あんたがそうしていると、カタリナが傷つく」
彼は、背後で俯いたまま動かない女の名を挙げる。
だがそれに対し、闇は何の反応も見せなかった。ただ彼女の肩が僅かに震えただけである。
二人が旧知であったことさえ知らないアージェは、しかしかつて垣間見た女の様子から、彼女がこの「戦争の象徴」のような存在に打ちのめされていることを感じ取っていた。
忌まわしいもの、煩わしいもの全てを切り離すように、少年は息を吐き出す。
そして彼は、闇を見据えた。
「来い」
鋭い穂先。
恐ろしい速度で伸びたその闇は、彼の胸をただ貫こうとしていた。
しかしそれは、はなから彼の予想していた反応である。
アージェは伸びてきた闇を、左足を引き、半身になってかわした。
そうしながら彼は、目の前を通り過ぎるそれを、左手で掴む。
―――― ここまでは全て、頭の中に思い描いていた通りだ。
そしてこれからがどうなるのか。アージェは槍を握る指に力を込めると、それを一息に手元へと引き抜いた。罅割れた絶叫がこだまする。
周囲の兵士たちもがぎょっと振り返る悲鳴。
闇はまるで人間のように、表面を波立たせその場で暴れ狂った。
だがアージェはそれを無視する。彼は、自分が引き抜いたものをじっと注視した。
彼の手の中に残る槍。それは今にも四散して、宙に溶け入ろうとしている。
短剣と長剣の中間程度の長さのそれに、アージェは意識を移した。
―――― もし自分の予想があたっているのなら。
彼は本体からもぎ取られ、霧散しかけている槍に精神を集中する。
いつかと同じように自身の中を啓き、精神によって外へと繋げた。短剣を握るように、奪った闇を握る。
意図的に作り上げた確信を、現実が追うまでの数秒。
アージェはその二つが重なると、何も言わずにただ、手の中のものを闇の本体に向けて構えた。
柄のない黒い剣。いまや少年の武器となった己の一部を、闇はその時目の当たりにする。
破綻を思わせる震えが空気を伝った。
「おお、おまえ、は、なんだ?」
「さぁ? でも、出来てよかった」
剣を握る左手の指は漆黒で、その刃はいまや彼自身と繋がっている。
かつて夜の森でそうして闇を取り込んだように、今も敵そのものを自身の力とした少年は、からかうわけでもなくそう慨嘆した。
実際、失敗する可能性も考えてはいたのだ。
だがアージェは、左腕に闇の飛沫が沈んでいく様を見て、もっと多くを奪うことが出来るのではないかと踏んだ。
目論見通りの結果を得た少年は、左手に握る黒い剣を軽く振ると、改めてそれを闇に向かって構える。
「よし、じゃあ、もう少し小さくしてやる」
彼はそう嘯くと守勢から一転、攻撃に移ったのだった。



闇本体の動き自体は鈍重だ。
鋭いものはその突きくらいで、それさえ避けられればどうということはない。
アージェは慎重に相手の攻撃を予測して間合いを変えながら、徐々に闇の外側を削り取っていった。
比例して長くなってくる左手の剣。それは、あともう少しで彼が佩いている腰の剣と同じまでの長さに近づく。
その間に闇の大きさも、アージェと同じか一回り小さいほどの姿に縮んでいった。少年は闇の姿に自分自身を連想する気がして、唾棄したくなる。
淡々と為していく作業。
彼は一歩踏み込んで、闇の前面を斬り下した。
アージェがその剣によって存在を削り取っているせいか、先ほどから闇も攻撃の手数を減らしてきている。
迂闊に手を伸ばしてはその手ごと切り取られると思っているのだろう。
ただその代わり、憎悪の念だけは刻一刻と目に見えそうなほどに濃くなっていった。途切れ途切れの怨嗟の声が響く。
「のろ……われよ……おそれを、しら、ぬ……ものよ」
「畏れ?」
アージェはその単語を一笑に付すようなことはしなかった。だが、そうしたいと思ったことは確かだ。
彼は剣を握る左手に右手を添えて構える。このまま攻撃を続ければ、闇を消滅させることも出来るかもしれない。
しかしそう思った時ふと、アージェは足下に違和感を覚えた。
見るといつの間に伸ばされていたのか、そこには水溜りのような闇が薄く広がっている。
彼は自分の両足がそれを踏んでいることに気付くと、闇を蹴って大きく後方へ跳ぼうとした。
だが素早く撥ねた闇が彼の足首を絡め取る。アージェは体勢を崩して右手を闇の中へとついた。
「くそ……」
元が石畳であるここは、底無し沼ではありえない。
それが分かっていながら、彼の頭の中にはあの夜の森でのことがよぎった。取り込もうとしている闇に、逆に侵食される気がして身震いする。
アージェはすぐに立ち上がろうと、足に力を込めた。
けれど次の瞬間、彼の意識は真っ白に焼かれる。
鋭い闇。
激痛が、全ての思考を一瞬にして無にした。
「……っ、あ……!」
思わず悲鳴を上げそうになって、少年は息を飲み込む。彼は己の左腿を見下ろした。
皮の軽い鎧をつけたそこは、闇の本体から伸びた切っ先によって、真っ直ぐに貫かれている。
血の滲み出す傷口。そのまま不恰好に石畳へと縫いとめられたアージェは、立つことも出来ず、気の遠くなるような痛みに喘いだ。右腕を這い上がってくる闇の滴から、歓喜のさざなみが伝わってくる。
「どう、した? こぞう」
揶揄の声。
少年は苛立ちを覚えたが、何を返すことも出来ない。体の中で誰か女が微かに笑う。
貫かれた足から、何かが体内に忍び込んできた。
彼は吐き気に何も考えられなくなって、両目を閉ざしかける。しかし背後から、それを留める声が響いた。
「少年! しっかりして!」
焦りの濃いカタリナの声。アージェは振り返って、自分に駆け寄ってくる彼女を見る。
いまだ蒼白の顔をしている彼女は、それでも僅かながら生気を取り戻した様子で、アージェに向かい手を伸ばした。灰色の瞳が、深い悲しみを湛えて闇を見据える。
そこから先に言葉はない。彼女は唇を噛んで、アージェの左腕を掴んだ。闇から彼を引き上げようと身を屈める。
「ごめん、少年……ごめん」
「カタリナ」
「まちがっちゃったんだ。こんなこと何にもならないのに……過去に目が眩んだんだよ」
彼女が何のことを言っているのか、全ては分からない。
けれどアージェは腕にかかる力から、彼女の強い悔恨を感じ取って目を瞠った。カタリナの顔に口惜しさが滲む。
「本当にごめん……、私が……」
「いいよ」
アージェは首を横に振った。足の痛みが薄らぐ。
先ほどまで精神を焼いていた激痛。それは本当に少しだけ、彼の意識から退いた。
少年は黒い剣を以って、その身に刺さる棘を切り払う。
更に長くなる剣。だがアージェはその剣を自らの腕に取り込んでしまうと、再び空となった左手を足下の闇についた。溜息が黒い手の甲に落ちる。
―――― 愚かであったのは誰か。
それを問うことこそ、愚かなのかもしれない。少年は過ぎてしまった夜を胸に目を伏せる。
苦痛に脂汗を浮かべる彼を、カタリナは泣きそうな目で見つめた。
「カタリナは頑張ってるよ。謝ることなんてない。そんな顔しなくていいよ。
 この闇ももう……俺が消すから」
周囲の喧騒は聞こえない。
彼にはもう届かない。
アージェは腕を染め上げた時の夜のように、意識を集中させる。
黒い指先から、繋がる闇から、更に外に広がる澱を感じ取った。
この黒こそが、どうにもならぬ人の忌まわしい情念だというのなら、それは表に出てきてはいけないものだろう。
ましてや人を害することなどあってはならない。アージェは冷えた目で全ての黒を見渡した。
そして更に意識を集中させる。
(……やめなさい)
囁くような忠告。「彼女」の声に、アージェは耳を貸さない。
少年は意を決すると、己の左手によって闇を吸い上げ始めた。体の奥に熱が灯る。
(アージェ! やめて!)
みるみる縮んでいく闇の体。消失の恐怖に引き攣ったような男の呻きが聞こえた。
だが彼は、それでも構わず触れる澱全てを己に取り込んでいく。

耳鳴りがする。
まるで潮騒のような音。女の笑い声。
身のうちに感じるざわめきは、レアと二人でいる時に感じるものと、何処か似通っていた。
アージェは息苦しさに右手で喉を押さえる。
「……何だ?」
闇は縮こまっている。彼の腕は肩付近まで黒く染まっていた。
おかしなものは何もない。そのはずだとアージェは断じる。
けれどその時、頭の奥で確かに、知らぬ女の声が響いた。

―――― さぁ、愛していると、言いなさい。