女皇の騎士 082

―――― やっとやっと手に入れた! さぁ、貴方は何番目の貴方? 

女の声は、爛れるほどに甘く、そして何ものもを許さぬ強さに満ちていた。
頭の中で鐘を鳴らされているような頭痛にアージェはよろめく。彼は両手で耳を押さえた。
「何だ……?」
(ダニエ・カーラ)
答たる女の名は、苦渋に満ちた「彼女」の声によってもたらされた。
アージェは聞いたばかりのその名を反芻する。
「ダニエ・カーラ……針の、製作者」
「少年?」
―――― 私のものに、なりなさい。

心配そうに覗き込んでくるカタリナの呼び声。その声にまた、知らぬ女の声が重なった。
アージェは一歩後ずさる。何人もの女の声が重なり溶ける錯覚に、気が狂いそうになった。
「澱が……」
体の中が落ち着かなくざわめく。それが何によるものなのか、今の彼には明らかだった。
取り込みすぎた澱の、その中に潜んでいた残滓。
おそらくディスヴィウェルドと同じだ。アージェの中にはいまや「ダニエ・カーラ」がいて、彼を手に入れた歓喜に、艶のある快哉をあげ続けていた。
頭の内側でがんがんと鳴り響く女の意思に、少年は意識を手放したくなる。
よろめきかけたアージェは、けれど足下の感触にはっと我に返った。まだ取り込みきれていない闇が、薄く広がっていることを思い出す。見ると幼児大になった闇が、苦しむアージェの様子をそっと窺っているようであった。
「くそ……あと少しで……」
(これいじょうは、むりよ)
「分かってる」
こうなってしまった今なら、自分の選択が愚策であったと分かる。
だがそれを今更言っても仕方ないだろう。アージェは取り込んでしまった澱を剣として外に出そうとしたが、どう意識してもそれは叶わなかった。「彼女」が焦った様子で囁く。
(意思を、しっかりもって。しはいされるわ)
「って言われても……こいつ、すっげえうるさい……」
今も頭の中ではしゃいでいる残滓。押さえつけるように彼の意識に圧し掛かるダニエ・カーラは、まるで強すぎる香を持つ花のように「女」としての感情をぶつけてきていた。彼女が愉しそうに笑うと、体内のざわめきが強くなる。
アージェは覚束ない足取りで闇の水溜りを離れ、後ろへ下がった。右手でこめかみを強く押さえる。

周囲の様子さえ満足に見ることが出来ない状況。
だがそれでもアージェは、微かに意識へと割り込んでくる金属音に、近くで軍同士の衝突が起こっていることを知った。
やはりイクレムは軍を退かなかったのだ。
アージェは早く状況を見極めて動きたいと願ったが、それは容易いことではない。彼は自分の肌に爪を立てる。
―――― どうしたの? カルド。早く屈しなさい。
「誰だよ、それは……」
人間違いでこのような目に遭っているのだとすれば、迷惑この上ない。
自分の中に二人の女の声が響くという発狂寸前の状況に、アージェは力なくかぶりを振った。傷の痛みも分からなくなるほどに何もかもがぐちゃぐちゃとしている。
目を閉じれば目の裏側に女の哄笑が刻まれていそうで、少年は反射的にえずきそうになった。
喉元にせりあがってくる胃液。ダニエ・カーラの声が耳のすぐ内側で聞こえる。
―――― 貴方は、私のものよ。
「黙れ……」
内側から支配される苦痛。
それは味わってみれば、加えられる外傷よりもずっとままならぬものだ。
ダニエ・カーラの残滓が体の中でさざめき、支配下に下れと誘ってくる。
(拒絶しなさい)
「……出来るならやってる」
息が出来ない。天地が分からない。
何が現実なのかも認識出来ない状態。アージェは再び膝をつきそうになった。
その時、現実の女の手が彼を支える。
「少年」
カタリナの声は、今まで聞いた中で一番澄んで通った。
確かな声。確かな感触。あるがままの現実を纏う彼女は、アージェの肩をきつく握る。
「少年、大丈夫だよ」
「カタリナ……」
「ダニエ・カーラは、『もう死んでる』」



ケレスメンティアが介入するという報が入ってから約半時間。
一時は軍の更なる投入を控えていたイクレムは、今現在明らかに短期決戦を意識し、城都内に全軍を進めているようだった。或いはフィレウスが撤退を選択するのではないかと期待していたログロキアの人間たちは、落胆しながらも緊張を湛え迎撃の準備をする。
ダルトンは、広場に通じる四本の道をそれぞれ確認すると、自身も戦線に加わった。
もしフィレウスが戦闘を避けて城を落したいと思っているのなら、この場所を大きく迂回するだろうが、状況からいってその可能性は低い。
ケレスメンティアが迫っている以上、イクレムも時間を無駄にはしていられないはずだ。
ならばフィレウスは半ば傀儡のようなログロキア王より、ログロキアの武力に掣肘を加えることを選ぶだろうと、ダルトンは踏んでいた。
事実彼の読みどおり、小刻みに折れている街路にはまもなくイクレム兵の姿が現れる。
広い場所ではないことを考慮してか、両軍ともに歩兵ばかりで構成された彼らは、しかし指揮自体はそれぞれの騎士が執っているようであった。
ただこのような場所では、細かい戦術など必要ないだろう。
攻める側と守る側。両陣は何の駆け引きもなくまたたくまにぶつかりあう。
ダルトンは大剣を手に、衝突の最前線へと踏み込んだ。

広場へと繋がる複数の道のうち、この一本を選ぶこととなったイクレム兵は不運としか言えない。
長剣を手にダルトンへと躍りかかった最初の兵士は、顎から上を大剣の一閃によって失った。
鮮血を撒き散らしながら立ち尽くす体は、けれどすぐに別の兵士によって押しのけられる。
歴史の刻む年月だけが、深く染み渡っていた街並み。
いまやそこは血と肉片が彩る、叫喚の場と化していた。
防衛線となった衝突地点には物言わぬ屍が積み重なり、骨肉を踏み砕く耳障りな音が僅かな空隙を埋め尽くす。
その最前線にて、恐ろしいほどの膂力を発揮しイクレム兵を薙ぎ払っているダルトンは、何の感情もなく自身の為す作業に集中していた。
逃げ場のない場所。戻ることも退くことも困難な路地の一角で、「迅雷」の凄まじさを目の当たりにしても崩れてしまわぬ敵兵に、他のログロキア兵たちは感心の念さえ抱く。
だがそうしてダルトンの手で死体が量産されていく光景も、しばらくして別所の防衛線が突破されたことにより終わりを告げた。
状況の変化を伝える叫び声。
広場に残るアージェを気にして振り返った彼に、すかさず鋭い剣が打ち込まれる。
ダルトンは難なくその剣を受けると、相手の顔を見て苦笑した。
「お前さんか」
「おかげさまで」
フィレウスに重用されるイクレム騎士の一人、ノーグは一見柔和な笑みを見せた。
けれどその剣筋には緩むところがまったくない。たちまち混戦状態になる広場を気にしながら、ダルトンは少しずつ相手の剣に押されて後退していった。視界の隅に、立ち尽くしているアージェと彼を庇うように周囲を窺うカタリナの姿が見える。
「ありゃ、なんかあったか?」
「彼らを気にしていられる場合でしょうか」
緩急をつけて突きこまれる剣。経験の少ない剣士であれば、翻弄され受けきれないであろう剣を、ダルトンはこともなげに弾いていった。皮肉でもからかいでもなく、単なる苦笑を彼は浮かべる。
「あの坊主にはまだまだ教えることがあるからなあ。こんなところで死なせるには惜しいさ」
未だ多くを知らず、ただ黙々と目の前のことを消化し歩いていく少年。
彼の背負う異能は特異なものであるが、あの堅実さがあればいずれ何かにたどり着けるだろう。
ダルトンは、自分の目には見えぬ真実に彼であれば到達できるのではないかと、淡い期待を抱いていた。
この大陸の何処かにあるという扉。その御伽噺を、皆で少しずつ紐解いていく旅路―――― そんなものをダルトンは一瞬、夢想して微笑む。ノーグは戦場には不釣合いなその微笑に、訝しげな顔をした。
だがそれも刹那のことで、隙のない騎士の剣を、ダルトンは半ば強引に押し切って弾く。ノーグは重すぎる一撃に僅かによろめいた。
その間にダルトンは、混戦の中を横切ってアージェの方へと向かう。
無秩序に斬り合う両軍の中、男たちの隙間から少年の姿が見える。
顔色の悪いアージェはその時、冷ややかな目を、何処とも知れぬ空間へと注いでいた。



彼の内で踊り狂うダニエ・カーラ。
神の選んだ異端児であった彼女が、生前どのような人間であったのか、何を思って何故針を作ったのか、アージェは結局一生知ることがなかった。
ただ彼女が呼んだ男が誰のことを指すのか、それだけを後に彼は知る。
はるか昔に死した神代の残滓。
彼らのことを、アージェは顧みない。遠い過去のものとして踏み越えていく。
そして彼は現実の人間に支えられ、自分の中にいる女へと吐き捨てた。
「消えろ」
死した人間を葬り去る意志。ダニエ・カーラが幼子のように笑う。
―――― どうして? 貴方には私しかいないのに。
「お前もいない。お前は存在していない」
―――― ディテルダを否定した貴方に何が残るというの? クレメンシェトラはいつか、貴方を裏切る。
「俺はもう聞かない。俺にはお前の声は届かない」
アージェはそれきり言葉を切る。
彼の中で女が嘲笑し、困惑し……やがてうろたえはじめた。
先ほどまで喜色を浮かべて跳ね回っていたのが嘘のように、ダニエ・カーラは窺うような問いかけをする。
―――― ねぇ、聞こえているんでしょう?
少年は答えない。彼はむしろ現実の光景を見回した。東側の道で、イクレム兵の猛攻を耐え切れなくなったのか、兵たちが広場へとなだれこんでくる。アージェは自分を支えるカタリナを横目で見やった。
「そろそろ逃げてた方がいい」
「でも少年」
「俺は平気。もう大丈夫。……ありがとう」
気が狂うとさえ思った声の反響が、今はひどく遠い。
しきりに訴えかけるダニエ・カーラの哀願。それさえもまるで風のざわめきと大差なく思えた。
先ほどまでの全てが部分となった現在。
アージェは意志によって追いやった過去を、少しずつ精神の内で閉じていく。
拒絶され、顧みられず、消し去られようとしている女が、子供のようにぽつりと呟いた。
―――― また、私を殺すの?
少年は何も答えない。彼は足の痛みを堪えて、長剣を抜いた。