女皇の騎士 083

「全ては気の持ちよう」などと、楽観的なことをケグスは教えなかった。
むしろアージェにそう教えたのは育ての両親の方で、そこには一抹の真があると、彼は思う。
左腿の傷は相変わらず鋭い痛みを伝えてくる。だがアージェは今はそれを意識しないよう割り切った。長剣を抜き、襲い掛かってきたイクレム兵に対する。
軽い金属音。アージェを一瞥した騎士は彼の足の怪我に気付いたが、少年を見逃そうとはしなかった。その代わり剣に若干迷いが現れる。
アージェはその迷いにつけ込む形で、重さのない攻撃を外側に弾いた。素早く踏み込みながら相手の喉を短剣で突く。
左手に握られた黒い短剣。それは彼が、彼自身の意志によって作り出したものだ。
アージェは自分が殺した相手の体を見下ろし、小さく溜息をついた。
「カタリナ、逃げてて」
「でも……」
「俺も無理そうだったら退く」
イクレムにもログロキアにも属していないアージェは、この戦争の勝敗というものにこだわりがない。ましてやこのように混戦になってしまっているのなら、尚更無理して居残る意味はないだろう。自分とカタリナさえ無事でいれば、ダルトンたちは自力で何とかするだろうと、彼は思っていた。

円形の広場は既に半分以上が両軍の混じり合う混沌で占められている。
無作為に目についた敵を排除しようとする狂乱。だがそれも、いつまでも続くものではないだろう。
比較的乱戦の外周にいるアージェは、兵士たちの中でも頭一つ抜きん出ているダルトンを見つけ、声をあげようとする。
しかしその時、後ずさりかけたカタリナの死角から、彼女を狙ってイクレム兵が剣を振るった。
アージェはそれに気付くと女の体を押しのける。
誰しもが酔う戦場の空気。その狂騒にあてられているらしい兵士は、何もかもを叩き潰すように、血塗れた剣をアージェに振り下ろした。彼は咄嗟に半歩下がってその剣に空を切らせる。
体重をかける度に痛む左足。アージェは目の前にいる兵士を下したら、この場を離れようと考えていた。
少年が反撃の剣を振るう間、カタリナは息を飲んでその攻防を見守る。
彼の剣に押された兵士はよろめいて、女の方へ転びかけた。カタリナは慌てて跳び下がる。
追撃をかけようとしたアージェは、けれどその時足の痛みに、僅かに動きを鈍らせた。

視界の隅に見えたものは、存在を半ば忘れられた闇だ。
アージェだけがその動きに気付いている中、闇はゆっくりと残り僅かな体をくねらせ、細い槍を作ろうとしていた。
鋭く研がれて生まれた穂先が、カタリナの背を見上げる。
それは、ほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。
だがアージェにはその時、闇の動きがひどくゆったりとしたものに映っていた。駆け出そうとするが、自分の動きもままならぬ鈍重さに絡め取られている。
せめて警告の声をあげようと、彼は思うより先に口を開いた。
けれどその時彼女の体を、駆けつけたダルトンが抱きこむ。
巨体に抱え込まれ見えなくなる女。遅れてダルトンの右肘を、闇の槍が串刺した。伸びきった槍は微かに震えて見える。
男はその時一瞬、ひどく口惜しそうな顔になった。アージェの口からようやく、言葉が発せられる。
「親父さん」
少年に応えようとして、ダルトンは顔を上げた。何かを言いかけ、だが彼は素早く剣を振るう。
肘を貫く槍が、大きく折れ曲がり霧散した。傷口の穴から血が激しく滴る。
しかしそれでも彼の剣はすぐ傍にいた兵士を貫き―――― ダルトンの腹には直後、剣が刺さった。

軽鎧の継ぎ目から差し込まれた刃。それは二度目に込められた力によって、深々と男の腹に埋まった。
自軍の兵士を囮として、その脇からダルトンを狙ったノーグは、皮肉げな笑みを浮かべる。
傷口から溢れ出す血。致命傷となる内臓からの出血を、騎士は確認して剣を引いた。
白けて静止しかける時間。
ダルトンはだがまるでそれが掠り傷であるかのように、不意に大剣をノーグに向けて薙ぐ。騎士はぎょっとして跳び下がった。
「本当に化け物ですか、あなたは」
呆れたように騎士は感嘆したが、それは最後に燃え上がる火でしかない。
またたくまに出来上がった血溜まりの中へ膝をつくダルトンを見て、ノーグは改めて剣を振り上げる。
「残念でしたね」
アージェは痛みも忘れ、地面を蹴った。二人の間に割り込もうと剣を上げる。
周囲の音は聞こえない。何も届かない。
左手のことさえ今は忘れた。アージェはただ手を伸ばす。
とめどなく人が死していく戦場。
嗅覚を麻痺させる血の匂い。
そして少年の剣が届く寸前で、騎士の剣は男の頭を叩き割った。



立ち尽くしている時間があったとは、思えない。
けれどその時アージェは確かに自失して、絶命した男の体を見下ろしていた。
ダルトンの腕の中にはカタリナがいて、彼女もまた、黒い槍に胸を貫かれたのか死んでいる。
くるくるとよく動いた灰色の瞳は、路傍の石ころのように光を失って見開かれていた。
アージェは二人の死を、起こり得ない現実として見つめる。
―――― 頭が痛い。
彼の奥底からやって来て徐々に大きくなっていくそれは、またたくまに全てを飲み込み広がっていった。
少年は目を閉じながら一つの言葉を思い出す。
『人は死ねば、何も残らない』
そう言った「彼女」は今は、何も語らず沈黙していた。
アージェは暗闇に向かって問う。
「何でだよ」
伸ばした手は何にも届かない。
彼は閉じた視界の中で、二人の体を見下ろしていた。反響する耳鳴りの中、アージェは絶叫する。
「ッ……何でだ!!」
問うことが愚かと、思うことさえ出来ない。
増していく頭痛。せり上がる闇。
そのどれをも止めぬ彼に訪れたものは、自身を越えて何もかもを飲み込む濁流だった。






戦闘が飛び火せぬであろう離れた空き家へリィアを置いてきたケグスは、混戦の舞台となっている広場に戻ると、まずコデュを見つけた。顔色の悪い魔法士を、半ば引き摺るようにして後方へと移動させる。
「体調戻ったら逃げろよ」
「ありがとう……」
「にしても、あの変なのはどうなったんだ?」
広場の真ん中にいた闇を探して、ケグスは目を凝らす。
彼は遠目からでも目立つダルトンの姿が見えないことを疑問に思ったが、特に心配することはしなかった。
それよりもアージェやカタリナの方がよほど危なっかしい。
変なところで頑固な少年はともかく、カタリナはさすがに逃げ出しているのだろうが、ケグスは出来るなら弟子の少年も避難させようと考えていた。
「あいつの存在がケレスメンティアを動かしてたら厄介だからな……」
女皇の騎士一人の為に、神の国が今回関与をしてきたのだとしたら。
それはアージェにとって、あるいは女皇本人にとっても本意ではない展開だろう。
ひとまず彼をこの場から引きはがし、当人同士で話し合いをさせた方がいい。―――― ケグスはそう思って、アージェの姿を探した。その時、少年の叫びが広場に響く。
「―――― 何でだ!!」
「……何だ?」
一体何があったのか、尋常ではない声にケグスは視線を彷徨わせた。
その後ろでコデュが、片手で口を押さえる。
「これは……不味い、暴走するぞ」
「何がだ?」
「彼だ。あの異能の強さじゃ、おそらく全部の澱が実体化する」
「は?」
ケグスは、コデュほどには「女皇の騎士」について知識がない。
だからその異能が「戦場でもっとも力を発揮する」と言われていることさえ知らなかった。
ともかくアージェを探そうと踏み出しかける彼を、コデュが手で留める。魔法士の男は緊迫した声で警告した。
「今すぐこの広場から離れよう。巻き込まれる」
「巻き込まれるって、何が起きるんだ」
「澱が―――― 」
それ以上は、言われないでも分かった。
広場のあちこちからあがる悲鳴。その方向を見たケグスは、信じられぬ光景に絶句する。
先ほどまでただの石畳であった地面に、何やら漆黒のものが見える。
それは打ち寄せる波のように迅速にその範囲を広げる、底無し沼のようであった。
生きているかの如く波打つ水面は、兵士たちの足を次々絡めとり、その奥へと引きずり込んでいく。
何処に繋がっているというのか、もがきあがく騎士の手が徐々に沈んでいき、後には何もない闇だけが残された。
針の暴走とは似て異なる悪夢のような光景に、ケグスは唾を飲み込む。
「アージェか?」
「こうなったら止められない。逃げて彼が落ち着くのを待とう」
「落ち着くったって……」
そもそもどうしてこのようなことになってしまっているのか。騒然たる広場に目を凝らしたケグスは、ようやく中央近くにいる少年を見出した。
立ち尽くしているとしかいいようのない彼は、じっと目の前にある何かを見下ろしている。
次々人や死体を飲み込む沼が広がっていく中央付近で、消えてしまわずに残っているそれは、ケグスもよく知る人間たちだ。
ぴくりとも動かぬ体。何があったのかを理解した男は、虚脱感に見舞われ眉を顰める。
「何やってんだよ、おやっさん……」
その苦言にダルトンが答えることはもうない。
心を抉る空白。ケグスは意を決すると、沼の方に向かって足を踏み出した。硬い靴底が乾いた血の上を擦る。魔法士から制止の声がかかった。
「待つんだ。君も飲まれちゃうよ」
「俺がいかなきゃどうにもならんだろ。一発殴って起こしてくる」
年の割には落ち着いていると思っていた少年。
だがそれはあくまでも「年の割」でしかないのだ。多くの人間は、一度は戦場で挫折を味わう。
その挫折が死に繋がるものであるか否かは、本人の精神と運によるだろうが、アージェは己の異能によってまったく異なる結果を引き寄せていた。
ケグスはそれを引かせようと、闇の沼に踏み込んでいく。
ずぶずぶと足が沈むような感触。生理的な嫌悪を、しかし彼はものともしなかった。少年に向かい、逃げ惑う兵士たちを掻き分けていく。
「アージェ!」
鋭い呼び声。
しかし少年は、微動だにしない。ただダルトンとカタリナを見下ろし、動かないでいる。
ケグスは様々な感情を飲み込むと、もう一度弟子の名を呼ぼうとした。けれど足首まで沈む闇に体勢を崩して、たたらを踏む。
間に合うのか飲まれるのか、一秒が惜しい時間。
だがその時彼の横を、唐突に冷たい風が通り過ぎていった。
広がる闇とは逆に走る波動。
波打っていた沼の水面が、ぴたりと動きを止める。



「―――― 皆、剣を引きなさい」
女の声は、ケグスの聞き慣れたものとは空気が異なっていた。
触れることを許さぬ冷ややかな声。祝福された統治者として畏怖される女は、思うままを命ず。
彼はその声に苦いものを感じつつ、西側に通ずる道を見やった。
白と深緑の聖職衣。軍服でもあるそれらを纏う神兵たちは、一人の主人に率いられていた。
彼女は顔を覆うヴェールを取り払う。広場を見渡し透徹とした声で告げた。
「どちらも退きなさい。これはケレスメンティアからの宣告です。
 我が言に従わぬ者には、神の国がその剣を以って対することになるでしょう」
青紫の瞳に金糸の髪。花の如き美貌には底知れぬ年月が潜んでいるようにも見える。
皇国ケレスメンティアの女皇、レアリア・ルウザ・ディエンティア・ディテイ・ケレスメンティアは、そう言って何の揺らぎもない目で、広場を見渡した。