女皇の騎士 084

広がっているものはただの闇だ。
何処までも続く、とめどない絶望の広がり。
かつて彼は同じものを見た。その時、彼の母親は腹を貫かれて空虚な目を投げかけていたのだ。
アージェはカタリナの双眸を見つめる。
やがて濁って溶けていくであろう瞳は、灰色の空をぼんやりと映し出していた。
彼女の頬にダルトンの流す血が滴る。
男の割られた頭部から流れ出す赤黒い液体は、彼女の顔や服をとめどなく汚していった。アージェはその様をじっと注視する。
―――― 何も考えられない。
近しいのは焦燥や後悔だろうが、それら全てを飲み込むものは、怒りに縁取られた暗い虚脱感だ。
自分の周囲が闇に浸されていくことにも気付かず、少年は仲間であった二人の大人を見下ろす。何を言うこともなく、ただ彼らの足取りを、言葉を、想起した。
『失われてしまった』
それが事実だ。教えられなかったことも、気付かなかったことも、彼らの希望も全て、もう先へは続かない。
残されたものはただ、アージェ自身の記憶にあることだけで、だが彼はこの時自分のことを大事と思うことは出来なかった。
アージェは目を閉じる。

暗い海。
凪いだ水面。
全ては沈み、もう戻らない。
そうして変わらず在り続ける。
変わらず、消え続ける。
世界の何もかもが厭だった。



「アージェ」
囁くような声は、耳のすぐ傍で聞こえた気がした。
少年は顔を上げる。すっかり人がいなくなってしまった周囲。彼の前に一人の女が立っていた。
見覚えのある顔立ち。淡い紫の衣は、いつか彼も見たことがあるものだ。
彼は乾いて何もない意識で、彼女の名を呼んだ。
「レア」
何故彼女がこのようなところにいるのか。
アージェは疑問に思ったが、その答はすぐにもたらされた。
レアリアは、彼とその隣に倒れている二人を見て、一瞬ひどく痛ましそうな目になる。
だが彼女はその目を閉じて開きなおすと、情味のない人形のような表情になった。
冷厳で遠い統治者の顔。レアリアは、白い紗布ごしに彼に手を差し出す。
「女皇の騎士たる者よ。あなたを迎えに来ました。
 私はケレスメンティアの現女皇。―――― あなたの力を必要とする者です」
「……女皇?」
言われたことの意味を咀嚼するには、少しの思考が必要だった。
アージェはあらためて周囲を見回す。
闇はいつのまにか何処にも残ってない。レアリアの後ろには初めて見る服装の男たちがいて、彼女に付き従っているようだった。
その中の一人、貴公子然とした顔の若い男が、好奇心を湛えた目でアージェのことを見下ろしている。
アージェが何の感慨もなしに彼を見返すと、男はにやりと笑った。
少年は再びレアリアへと視線を戻す。
「レアが、女皇か。……そうか、そういうことか」
何処か投げやりな口調で言うと、彼女は小さく唇を噛んだ。
まるで弁解したそうなその仕草はしかし、アージェ以外の誰にも見えず、彼は何とも思わない。
レアリアは、さざめく瞳を僅かに伏せて問うた。
「来て、頂けますか」
重ねての誘い。
窺うような問いは、女皇としては異例のものであったのかもしれない。彼女の背後で男たちが僅かに揺れた。
だがアージェにとってもそれは外野のことだ。彼は女の小さな手を見下ろす。
「行かない」
吐き出された言葉に、彼女の体が震えた。
アージェはしかし、それには構わず振り返る。変わり果てた二人の前に膝をつき、頭を垂れた。
「はじめから俺が『そう』だと知っていて来ていたのか? そうなんだろうな。
 でも俺は騎士にはなれない。なる気もないよ」
「アージェ……」
「帰れ、レア」
目を閉じて、ただ考える。
祈ろうとは思わない。それは意味のないことだ。
アージェは一つ一つを思い出し、そして一つ一つを記憶しなおしていった。
もはや手に入らないそれらが、これ以上決して失われることがないようにと。
「ごめん、カタリナ」
血濡れた女の顔に、アージェは手を伸ばす。虚ろな瞳を閉じさせ、彼女の髪を撫でた。
そして彼は、ダルトンの顔にもそっと触れる。
「ごめん」
それ以上の言葉は、今は口に出来ない。
アージェは二人の血に汚れた右手を見下ろすと、そのまま何も言わず、額を石畳にこすりつけた。



無残な遺体を前にして動かなくなってしまった少年を、レアリアは沈痛な目で見つめる。
彼女の後ろでは少年の無礼さを咎めようとする者もいたが、彼女はそれを手振りだけで制止していた。
レアリアは自分が纏う薄衣の一枚を取ると、それを二人の遺体の上に被せる。
そして彼女はアージェの脇を通り過ぎ、元来た道の方へと戻っていった。背後から一人の男が伺いを立てる。
「よろしいのですか」
「いいの」
「ですが、あの力と未制御では、野に置いておくことはとても……」
「いいのよ。黙りなさい」
問題視されると思っていた点を突かれ、レアリアは苛立たしげな表情になった。
彼女がここに到着した時、まさに異能を暴走させていた少年。
その異能を打ち消し鎮めたのは彼女の力だが、女皇である彼女以外にあの力に干渉出来る者は多くない。またこのようなことになれば、大惨事になる可能性も少なくないだろう。
しかしレアリアはそれを考えても、ここで無理に彼に干渉する気にはなれなかった。
彼女は顔を上げ、毅然たる足取りで広場を去っていく。その途中でケグスと目があった。
苦い顔をしている男は、以前から彼女の身分を見抜いていたのかもしれない。
レアリアは何かを吐き出したい衝動に駆られたが、頬一つ動かさず男の傍を行過ぎた。
最後に広場を出る直前で、レアリアは足を止める。振り返ることなしに、少年へと透き通る声をかけた。
「いつまでも、あなたを待っています」
「もう来るな、レアリア」
強い拒絶に、俯くことは出来ない。
喪失を嘆くことも、壊れてしまった関係を惜しむことも彼女には許されなかった。
ただ女皇は悲しげに微笑すると、美しい面をヴェールに隠す。
そして泰然とその場を立ち去った彼女は、けれど確かにこの戦争を、終わらせていった。






二人の墓は、ログロキア城都の郊外にある小さな丘に作った。
アージェはそれをするにあたってまずカタリナの家族を探したが、彼女の家族は既に十七年前祖国の滅亡と共に亡くなっていたらしい。学府の師が父親同然に彼女の後見をしていただけで、彼女が時々語っていた「姉」も、とうに故人であった。
そんなことさえも知らなかったアージェは、彼女が語らなかった影と、少しだけ見ることになった慟哭を思う。
いつもはまるで妹のように見えていた彼女。
本当は姉であった彼女は、最後までアージェを心配して、そして去っていった。
その深い情を、彼は一生忘れないと思う。

そしてダルトンは、彼女の隣に埋められたが墓標は作らなかった。ケグスがそう決めたのだ。
師の意を尊重したアージェは、何もない均された土に向かって、深く頭を下げた。
隣に立ったケグスが長い息を吐く。
「戦場にいる以上はな、弱い奴も運が悪い奴も死んで当然なんだ。
 おやっさんはたまたま今回、運がなかったんだろう」
「そうなのかな」
「そうだ。それ以外ない。そうじゃないって思うなら、お前はそれを覚えてろ」
静かな力のあるケグスの言葉に、アージェは頷く。
カタリナを守ろうとし、怪我を負い、そして不覚を取った男。
彼は甘かったのかもしれず、運が悪かったのかもしれないが、アージェはダルトンを誰よりも強い男と思っていた。
そして誰よりも、優しい人間であったと。
少年は忘れることの出来ぬ、男の最期の姿を思い出す。
「俺は、どうやって死ぬんだろう」
「今からそんなこと考えてると、諦めがよすぎて使えない人間になる。
 そんな時間あったら修行しろ」
「うん」
二人の墓に背を向け、アージェとケグスは去っていく。
―――― レアリアのことは、もう考えない。
彼女はかつて確かに彼の友人であったが、今は違う。もう遠い、関係のない人間だ。
だがそう口にするとケグスに「それは八つ当たりじゃないのか?」と言われるので、アージェは黙っていた。
彼は、自分が失ってきた多くのものを思う。そしてその中にあって、未だ失われない彼自身というものも。



風が吹く。
青草を吹き上げ、その匂いを広げる風が、無言の大地を過ぎていく。
慈悲はない。神は人を憐れまない。
それを知るアージェは自らの意志で丘を下り、そして惑いながらも選んだ道を歩いていくのだ。



Act.2 - End -