石鏡 085

長い薄絹の裾は、玉座から数段下にまでしなやかに広がっていた。
一人の女を除いて誰も足を踏み入れることの出来ぬ至尊の場。
神にもっとも近いと言われる女は、冴えた目で白い広間を見下ろす。
青紫の瞳が、薄いヴェール越しに跪く臣民たちを捉えた。
―――― 望んで、叶えられぬことはない。
それは彼女についてしばしば言われることで、そしておおむね真実であった。
もっともそれが真実であるのなら、彼女の望み自体が既に折り返されているということを、ふまえなければならない。
長い歴史の上においても、短い生の上においても、孤独を見てきた女。
彼女はその孤独に苛まれながらも一人の男について、「自由で在れ」と思っていた。

白い石の玉座。
彼女は肘掛に手を添え、ゆっくりと立ち上がる。
一斉に頭を垂れる人々。壮観たる光景。
けれど女はその時ふっと自分の隣を見て―――― 誰もいない空白に、艶やかな睫毛を伏せた。






小さな町に一つだけある酒場は、日も落ちかけた夕暮れ時、仕事の疲れを癒す男たちで賑わっていた。
無骨な木のテーブルには粗野な笑声が溢れ、酒の匂いがところせましと薄暗い天井の隅々まで立ち昇っている。
彼らの多くは近くの山に登って狩りや樵で生計を立てている者たちであり、そのせいかテーブルのうちのいくつかは、最近山奥で見かける不審な人間たちについて話題にしているようだった。
赤ら顔の男が大きな音をさせて酒盃を置く。
「大体ああいうのは盗賊か何かの輩だろう? 仲間を呼び寄せられる前に何とかした方がいいんじゃねえか?」
「と言ってもやたらなことはできないさ。本当に盗賊だったら厄介だ」
「まだたった数人だろ」
男は仕事仲間の渋い声にそう返したが、反論が虚勢であることは明らかである。小さな声でぶつぶつと呟く男に、仕事仲間は苦笑の目を向けた。
「本当に盗賊だったら相談役が傭兵でも雇うだろうさ」
「―――― もう雇ったよ」
新たな声は、割り込むというよりは、軽く放り投げるようなそっけないものだった。
硬質な印象を抱かせる声。二人は、少年と大人のちょうど中間にいるようなその人物を見上げる。
二人のテーブルの脇で足を止めた彼は、町の人間ではなく初めて見る顔であり、簡素な服に使い込まれた長剣を佩いていた。
派手さはないが整っていると言えなくもない顔立ち。灰色がかった緑の瞳には感情を窺わせない皮膜がかかっているようである。
見たところ年の頃は十七、八だが、纏う空気はもっと隙のない、多くの経験を積んだ者のそれを思わせた。右頬には薄い剣の傷痕が走っており、武器を扱う為にか左手には肘の上まで届く長い皮手袋を嵌めている。
見知らぬ若い男を眺めた二人は、お互いの顔を見合わせた。赤ら顔の方の男が長剣を指して問う。
「ひょっとして、お前が雇われた人間、ってか?」
「そう」
「見たところ傭兵のようだが、坊主一人で平気なのか?」
それは悪意があってというわけではなく、単に年下の彼を心配に思っての確認だった。
しかし傭兵の男は、気分を害したのか片眉を顰める。彼は手に持っている小さな皮袋を軽く掲げてみせた。
「二つ訂正しておくけど、俺一人じゃない。あと仕事はもう終わった」
「終わった!?」
「別の町で手配されてた盗賊だったから始末しておいた」
若い男は言いながら皮袋を軽く真上に投げる。
その中には成功報酬が入っているのだろう。再び受け止められた時、数十枚の貨幣が鳴る小気味のよい音がした。呆気に取られる二人を置いて、若い男は歩き出す。
しかし彼はすぐに足を止め振り返った。
「あと俺、他人からそう呼ばれるの好きじゃない」
緑の瞳がその時一瞬、苛立ちと悔恨で翳ったことに二人は気付かなかった。



「報酬受け取ってきた」
酒場の中でももっとも奥、柱の影に位置するテーブルに、アージェは皮袋を放った。
高く軽い音を立てる袋をケグスは横目で見やる。一足先に酒盃を煽っていた彼は、上体を柱によりかからせたまま興味なげに返した。
「半分に分けとけ」
「了解」
二つ返事をしてアージェは袋の口を開けると、中に入っていた銀貨をテーブルに広げる。
黙々とそれらを二分し出す彼を確認するわけでもなく、ケグスは天井を見上げて欠伸を一つした。

イクレムとログロキアが激しく衝突してから二年。
まるで際限なく揺れ動く水面と生じる泡のように、大陸では国々の興亡と戦争とが起こり続けていた。
一度はケレスメンティアの関与によって九死に一生を得たログロキアも、停戦時に従来の武力を七割方損失していたこと、イクレムに賠償として領土を分割し差し出したこと、そして何よりも「闘争の意志があること」を周辺国に知られ、一年後には別の戦火の中へと消えていった。
ただもうその頃には、先見の目があるほとんどの者たちはログロキアを脱出しており、その膨大な蔵書も何処かへ持ち出されていたという。
アージェはログロキア滅亡の情報を聞いた時、遠く離れた別の国にいたが、その国にいたであろう知人たちの心配はしていなかった。
彼らならイクレムとの衝突があった時すでに、ログロキアの先のなさに気付いていただろう。運がよければまた何処かで会えるに違いない。
ただアージェは城都に残してきた二人の墓がどうなったか、それだけを折につけふと考える。
あの日から一度も訪れたことのない緑の丘は、彼の記憶の中、少しも色褪せてはいなかった。

アージェは分けた銀貨を半分皮袋に戻し、ケグスの方へと押しやる。
男はそれを受け取ると、まるでその辺の露店で買った果物のように懐へと捻じ込んだ。彼は空になった酒盃をテーブルの上に戻す。
「お前、次は何処に行くつもりだ?」
「どうしようか。一度ジオのところに顔出そうかと思ってるけど」
今いる町からは街道沿いに馬で二週間程移動したところにある小さな村。その村に住んでいる娘の名を挙げると、ケグスは微妙な表情になった。何かを言いたそうな師に対し、アージェは怪訝な顔で返す。
「何? 仕事のあてがあるとか?」
「いや……お前、ていよく釣られてるよな」
「何だそれ。届いてる手紙を受け取りに行かないといけないし、ルトもいるから」
「それは分かるけどな。口実を見抜けよ」
ケグスは呆れたような忠告を投げて寄越したが、アージェにはいまいち意味が取れない。ともかく反対されているわけではないようだと察すると、彼は「二日後には発つよ」と結論づけた。ケグスは黙って頷く。

彼ら二人は二年半に及ぶ付き合いがある師弟ではあるが、いつでも一緒に行動しているわけではない。
特にここ一年ほどはそれぞれ旅をしながらお互いの大体の予定を知らし合わせて、手近な依頼を共に受けるという接し方をしており、それで特に問題や齟齬などは起きていなかった。
強いて言うなら別行動を始めるきっかけとなった一年前、アージェが小国同士の戦争に一傭兵として申し込んだ際、相談を受けたケグスが若干難色を示したくらいで、だがあの時は結局あれでよかったのだろうと、アージェは思っている。いつまでもケグスの後をついていては、遅かれ早かれ行き詰まることになっていただろう。
師の技術や判断を時折確認しながら、自分自身の経験を積んでいく現在。
特に大きな目的を持たない彼は、この生活に何の不満も抱いていなかった。
―――― ただ一度も帰っていない故郷のことを思うと、いささか罪悪感に襲われる。

酒場に入ってからまだ何も注文していないアージェのところに、盆を抱えた少女がやって来た。
この町に来てから四日ほど、その間何度も来ているせいか顔なじみとなったアージェに、彼女はきらきらとした好奇心の目で尋ねる。
「ねえ、盗賊を退治したって本当!?」
「本当。早く終わってよかった」
淡々と答える男に、少女は感心したような残念そうな微妙な表情になった。
仕事が終われば彼がこの町を去ってしまうことを思い出したのだろう。思い切って何かを言おうとする彼女に、けれどアージェは懐から取り出した髪飾りを手渡す。
繊細な絹糸細工のそれを、少女は驚いて見やった。
「え、これ」
「報酬もらったから。やるよ」
「本当に!? 嬉しい!」
ぱっと笑顔になった少女はその場で踊り出しそうに弾む。そしてそのまま鼻歌を口ずさみ、店の奥へと戻っていってしまった。そこで母親にでも貰った髪飾りを見せているのだろう。注文しそこねて頬杖をついたアージェを、ケグスは白い眼で一瞥する。
「お前、ああいうことするから不味いんだよ」
「何が?」
「ちゃんと言っとけ。全部妹のついでだって」
「…………」
ケグスは使っていない酒盃を手に取ると酒瓶から薄く酒を注いでアージェに差し出した。
アージェ自身普段は酒を飲まないのだが、店の奥にまで注文をしにいくのは面倒である。彼は素直にそれを手に取ると口をつけた。
―――― ケグスの言うことは当たっている。
何となく顔見知りになった少女や、彼宛の手紙を受け取ってくれているジオなどに手土産を渡す習慣があるのは、一つにはクラリベルに贈るものを買う際、それらの土産も一緒に買っているからだ。
そして彼がちょっとした礼の意味以外に少女たちに何かを求めているのだとしたら、それは妹の喜ぶ顔を想像したいが為のものだろう。
あの日村を出て以来、会っていないクラリベル。
まめに届く彼女からの手紙の最後にはいつも「早く帰ってきて欲しい」という文が記されていた。
アージェは手袋を嵌めた左手を見やる。
村を出た時から、変わったものと言えば何であろう。
いくつかの喪失や失敗。少しずつ身につけた生きる術。そして変わらぬ異能。
そこに帰ることを決断させるようなものは何一つない。彼は空になった酒盃を置いた。
「ケグスはこれからどうする?」
「俺は……少し西に行ってみる。出来たばっかりの国があるらしい」
「へえ」
「面白そうな話があったら連絡やるよ。ジオの村にいるんだろ?」
「そう長居するつもりはないけどな。……あ、ケグス、誰か犬飼いたい人知らないか?
 そろそろルトに子犬が産まれてる頃なんだけど」
「……知るか」
聞く人間を誤ったとしか思えぬ返答。
アージェは視線を感じて店の奥を振り返る。
そこに立っているのは先程の娘と彼女の妹で、妹の方は白に近い金髪を一つに編んでいた。
―――― その髪色に一人の少女を思い出して、アージェは表情を消す。彼は少女たちの視線を無視してテーブルに向き直ると両目を閉じた。

二年の間に多くの国を渡り歩き、様々な仕事をこなしてきた彼が唯一、はなから近づこうともしない国。
その国は大陸最古の国であり、玉座には一人の女皇が座っている。