石鏡 086

もったいぶって箱から出されたものは、小さな真円状の石鏡であった。
手の中に収まるほどの軽い装飾具。だがそれを「石鏡」と言っていいかどうかは、判断に迷うところであろう。
薄緑色の石を薄く削って作られた円片は、確かによく磨かれてはいるが、覗き込む人間の顔が映るというわけでもない。
男は「石鏡」と紹介され見せられたそれを、手の中で裏返した。
「これが魔法具と?」
「ええ。西の大陸からやって来た珍しいものですよ。何でも『魔女』が作ったものとか……」
「魔女?」
「かつて西の大陸で一時代を畏怖で支配した五人の女たちのことです。
 一人で小国一つ分の軍隊に相当する力を持っていたと、言われています」
古びて怪しげな品ばかりが並ぶ小さな店。その奥まった一室にて客の男を迎えている老婦人は、穏やかな笑みを見せた。皺の奥に埋もれた瞳が、猫の目のように煌く。
男は老婦人の眼をちらりと見て、緊張を表に出さぬようもう一度石鏡を注視した。
裏表はともに薄緑の石で出来ているが、片側だけは魔法のものらしい文字が円状に彫り込まれている。その意味は分からぬが、これが「石鏡」の力の源なのだろう。男は縁にあけられた小さな穴と、そこを通る鎖を指で確かめる。
―――― もし、「石鏡」の力が本当であるのなら。
それは願ってもいない力だ。彼が欲しいと願ってやまなかった力。これさえあれば、計画は難なく進むことになるだろう。
だがもし、これが何か違うものであるとしたら。男は用心に眼を細める。
「本当に西の魔法具なのだろうか」
「それ以外に、これほどの力を持つものがありますかね。まさか神具でもあるまいに」
「ダニエ・カーラの針、かもしれない」
男の持ち出した言葉は、まるでそれ自体が忌まわしい力を持つ一滴であるように、二人の間に沈黙をもたらした。老婦人の目が、かすかに光ったようにも見える。
「面白いことを仰る。針がまだ現存していると?」
「二年前、イクレムがログロキア城都に攻め込んだ際に、針の暴走が起きていた。知っている者は知っている事実だ」
「だとしても、御伽噺と大差ないものでしょうさ。そういくつも転がっているような代物じゃあない」
「魔女が作った魔法具も、な」
男の切り返しは老婦人を表面上は閉口させた。黙り込んだ彼女を、男は息を止めて窺う。
しかしどれほど注意しようとも、老練な女主人の表情からは何も読み取ることは出来なかった。
彼女は軽く目を伏せて微笑む。
「ではお買い求めにはならないのですね」
「そうは言っていない」
あっさりと引き下がった老婦人に男は慌てた。
客であれば他にもいると言いたげな口振りに、彼は逡巡したものの結局用意していた金貨を取り出す。
違えようのない輝きを放つ数十枚をテーブルの上に置きながら、男はもう一度彼女に確認した。
「本当に、これにはそういった力があるんだな」
「確かに。違っていたらお代はお返ししますよ」
確信に満ちた返答に、彼は頷いて支払いを済ませた。薄緑色の石鏡を大事に懐へ仕舞いこむ。
そうしてしきりと周囲を気にしながら店を出て行く男を、老婦人は穏やかな目をしたまま見送った。彼の後姿が人込みの向こうに見えなくなると、しわがれた声で笑う。
「針じゃないかと、そこまで気づいておいて無用心なことですよ、お客さん。
 同じ御伽噺なら遠い別大陸のものより、この大陸のものの方が可能性は高いに決まってる。
 ―――― もっともそれに気付く頃にはもう、あれを手放せなくなってるでしょうがね」






街道沿いに位置するその村は、僅か百人ほどの村人が暮らす小さな寂れ気味の集落である。
それは一口に街道沿いといっても、この村のすぐ傍を通る道が、ここから先馬で行くことの出来ない山道になっているということと無関係ではないだろう。
つまり、街道は実質ここで行き止まりになっており、この村には村自体に用事のある人間しかやっては来ないのだ。
何の特色もない農村。時代や喧騒から取り残されたような集落へはその為、旅人でさえも滅多に訪れることはなかった。
だがアージェは、戦火からも遠い村の空気に何処か故郷を思い出して、仕事の合間の骨休めによくここを訪ねている。
四ヶ月ぶりにやって来た青年を、村娘のジオは温かく迎えた。
「おかえりなさい! アージェ、今度はどこまで行って来てたの?」
村の入り口までやって来ていた少女は、馬の手綱を引くアージェと並んで歩きながら聞いてくる。
彼は苦笑して「三つ隣の国まで」と答えた。そこでしばらくの間、大きな街の権力者同士の闘争に参加していたのだ。
だがジオにそこまで説明する必要はない。この村から外に出たことがないという少女は感心の目になった。
「すごいね。私、そんな遠くってちょっと想像できないよ。やっぱり戦争とかひどいの?」
そばかすの痕が残る顔に、鳶色の目をくるくるさせてジオは彼を見上げる。
好奇心の色濃い顔は、そのような時少しだけ別の人間を思い出させた。
かつて彼に読み書きを教えてくれていた女。アージェは懐かしさにじっと少女の瞳を見つめる。
ジオは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「なに? おかしなこと言っちゃった?」
「……いや。大体当たってる」
村の外では戦争が絶えず、荒れた場所が多いことは当たっているが、それは知らずともいい話だろう。
この大陸において、戦争を知らぬまま大人になれる子供はそう多いわけではない。彼女はその幸運な子供の一人なのだ。
彼は少女の頭をぽんぽんと叩いた。会話を強引に打ち切る所作。ジオは少しだけ首を傾げたが、素直に黙り込む。
寧日を象徴するような薄青の空。アージェは何とはなしに、流れる雲を見上げた。

ジオの家は父親と足の悪い母親、そして彼女の三人暮しである。
農夫である父ははじめ、娘が見ず知らずの少年を家に連れてきた時、いい顔をしなかったが、今では彼を馴染みの客人としておおむね歓迎してくれているようだ。それはアージェが故郷の村にまめに仕送りをしていることや、その境遇を知って同情してくれているせいかもしれないが、どちらかといえば手紙の仲介代として彼がきちんと礼金を支払っていることが大きいだろう。
久しぶりにジオの家に顔を出したアージェは、四ヵ月分の銅貨と引き換えに、彼女の父から溜まっていた手紙を受け取る。
全部で五通あったそれらは、三通がクラリベルからの手紙であり、二通がそれぞれかつての雇い主からのものだった。
アージェはジオが出してくれた薬草茶を飲みながら、まず仕事がらみの書簡を開封する。
ざっと目を通すとそれらはどちらも、仔細こそ違えど「専属で雇われる気はないか」という内容のものだった。
彼はその二通を乱雑に畳みなおして荷物の中へと押し込む。続いて妹からの手紙を開いた。
一月に一度は必ず届くクラリベルの手紙。それは村や家の近況と、兄を心配する言葉が綴られている。
十四歳になった彼女の書く文章には、アージェの記憶の中の少女とは違う大人びた視線が時折見て取れ、彼は嬉しいような淋しいような感情を抱いた。
丁寧に一通ずつ読んでいった彼は、三通目を読み終えて怪訝な顔になる。お茶のお代わりを持ってきたジオが肩越しに手紙を覗き込んだ。
「どうしたの、アージェ」
「クラリベルからの手紙がない」
「あるじゃない」
「そうじゃなくて」
共に暮らしていた頃には兄の小言を嫌がる奔放な子供だった彼女は、今はきっちりと一ヶ月に一度彼への手紙を欠かさないのだ。
にもかかわらず届いている手紙は、日付からすると一通足りない。
アージェは三通目の手紙を読み直した。そこに書かれていた一文に注目する。
『少し大きな街のお屋敷で、はたらくことになりました』
クラリベルが村から出した手紙が、ジオの家に届くまでは、約三ヶ月かかる。
その時差を考えると、クラリベルは現在働く為に村を出ているのだろう。
仕事が忙しくて手紙を書けないでいるのか、ちゃんと上手くやれているのか、アージェは妹が心配になった。何処の街の何という屋敷で働いているのか、父に手紙で聞いてみようか迷う。
もっともそれは、迷うまでもないことだろう。クラリベル宛に買った髪飾りはどうせ故郷の村に送るのだ。その時、彼女の仕事について聞いてみればいい。
アージェは妹からの手紙に元通り封をすると、大事に紐で纏めて荷物の奥へとしまった。夕食へと誘われる前に宿へ引き上げようと立ち上がる。
「ルトは?」
「裏の納屋にいると思う」
母親の手伝いで手が離せなそうなジオの言葉を受け、アージェは一旦外に出ると納屋へと向かった。
本来は農具入れである粗末な小屋は、現在、子犬が産まれたばかりの夫婦の為にその一角を明け渡しているようである。
アージェが声をかけながら扉を開けると、父親になったルトがのそのそとやって来た。
「久しぶり」
短い挨拶は、それだけで何が足りないというわけでもなかった。灰色の犬は、かつての同行者をじっと見上げる。
旅をやめ、同胞と共に暮らすことにしたルトに会いに来るのはこの時が初めてではなかったが、彼との再会の瞬間、いつもアージェは少しの安堵と気まずさを共に覚える。
それは、似たような喪失と似たような旅路を経ながら、平和を求めるわけでもなく、まだ剣を生業としている自身への罪悪感のようなものなのかもしれない。アージェは少なくとも、ダルトンやカタリナがそれを勧めてはいなかったことを覚えていた。
彼は軽く苦笑して納屋の奥を窺う。
「子犬見てもいい?」
ルトは肯定の代わりに踵を返して妻のもとへと歩いていった。
誘いを受けてアージェは綺麗に整えられた敷き藁の近くへと向かう。
そこに寝そべる白い雌犬の近くには、まだほんの小さな子犬が五匹、寝息を立てて眠っていた。
アージェは真っ白なその毛色を見て、我知らず息を飲む。
「そうか……そうだよな」
ある時から灰色の毛並みを持つようになったルト。だが彼の本来の毛色は白であったと、アージェは知っていた。
だから子犬は白い毛を持っていて当然なのだ。両親共にそうであるのだから。アージェはそのことに、自分でもよく分からぬ胸の熱さを覚える。

かつて瘴気に囚われていたルトは、こうして自分の血を残し、生き物としてあるべき場所へ戻ってから死していくのだろう。
では自分はどうなのか。
他にない異能の一族。人伝に聞いたところによると、レアリアはまだ自分の騎士を置いていないらしい。
それはケレスメンティアの長い歴史においても異例な空席なのだという。
もしその理由が、アージェ以外に異能者が現存していない為のものなのだとしたら。
―――― 考えれば考えるほど、気鬱になってくる。
だがきっと、大した問題ではないのだ。ケレスメンティアにとって重要であるのは女皇の存在で、騎士など付属物に過ぎない。
だからレアリアが二十歳になったにもかかわらず夫を迎えていないことも、彼が気にするようなことではないのだ。

アージェは軽くかぶりを振ると、ルトに挨拶して納屋を後にした。
何処からともなく漂ってくる青草の匂い。温かいスープの香り。
郷愁を呼び起こす空気に彼は深く息を吸い込むと、夕暮れ時を一人、宿へと向かったのである。