石鏡 087

床に倒れ伏した男は確かに絶命しているようだった。
徐々に広がっていく血溜まり。その上に横たわる体はどこもぴくりとも動く気配はない。
長剣を提げた彼は、それを澱んだ目で確かめると、凶器を捨て踵を返した。入ってきた時と同じ、部屋の露台から出て行く。
―――― 誰にも見つからないように。全て終わったら山へ。
その言葉だけが彼の頭の中で鳴り響き、思考を完全に支配していた。
日付も変わった深夜、指示通り見回りの兵を避けて彼は屋敷を脱すると、暗い通りを重い足取りで歩いていく。
「山……山へ……」
そこから先の行動は指定されていない。
彼に植えつけられた指示は、一人の男を殺して山に逃げるところまでだ。その先を考えることすら出来ない。
男は見えない糸に引っ張られるようにして、街からもっとも近い山の方角へと歩を進める。

翌朝死体は発見され、犯人を捕らえるため多くの憲兵が駈けずり回った。
しかし彼らは誰が何故そんな事件を起こしたのか、真実に辿りつくことも山に消えた男の足跡を掴むことも、ついには出来なかったのである。
―――― 殺された男の後継者には、まだ若い彼の甥がなった。






いつもジオの村を訪れると、三日から一週間ほどは逗留していくアージェだが、今回は予定よりも少し早く発つこととなった。
本当ならケグスから連絡が来る可能性を考えて、一週間は休暇にしようと思っていたのだが、村の外周を散歩していた二日目、彼はおかしな男に出くわしたのだ。
その男は村の裏にある山から、一人よろよろと下りてきた。
ぼろぼろの服装に痩せこけた頬。伸び放題の黒い髭は脂と埃で凝り固まっている。
あまりにも薄汚れている為、年齢が一見して分からぬが、そう年がいっているわけではないだろう。
黄色い目やにに潰れそうな目は澱んで生気が感じられないが、アージェは男の歩き方や腕の感じからいって、もとは剣技に習熟していた人間ではないかと判断した。
そのまま足を引き摺りつつ村の方へ歩いていこうとする男を、彼は正面から呼び止める。
「ちょっと。そんななりで歩いてたら村人に嫌がられるぞ」
旅人にはお世辞にも見えない様相は、このままでは何処の店に行ってもまず断られてしまうに違いない。
もし食堂や医者を探しているのなら、簡単に身なりを整えさせて案内しようと思ったアージェは、しかし男が何も聞こえなかったように脇を通り過ぎていくのを、目を丸くして見やった。思わず男の背を振り返り―――― そして息を飲む。
薄汚れた背中。そこには、黒い靄がまるで巨大な蜘蛛のように張り付いていた。
前からでは分からなかったそれは、円形の本体から伸びる二本の突起を、まるで挟み込むように左右から男の耳の後ろへと繋げている。
その先がどうなっているのかは、男の髪に隠れ見えないが、それはただ「押さえているだけ」ではないだろう。
アージェは足早に男の後を追い、その隣に並んだ。
「ちょっと! 俺の声聞こえてる?」
肩を叩きそう問うも、相手からは何の反応も返って来ない。
ただよく耳を澄ますと、何やらぶつぶつと同じ単語を呟いているらしいことが分かった。アージェは聞き取れた言葉を反芻する。
「山へ? 山なら今、下りてきただろ」
大した意図もなく口にした感想。
しかし男は、その言葉に初めて反応を見せた。両目を見開き立ち止まると、くるりと後ろを向く。
そうして今出てきたばかりの山を見上げると、彼は再びそちらに向かって歩き出した。アージェは慌てて男の腕を掴む。
「待てって!」
これでは本当に埒があかない。ただの人形のようである。
アージェは仕方なしに左手の手袋を取り去った。滅多に人目に曝さぬ黒い手を、男の背中に向けて伸ばす。
―――― 澱を掴む瞬間、まるで腐った果実を握るような厭な感触がした。
核を握りつぶされ霧散する靄。だがアージェは僅かに忍び込んできた澱の気配に、既視感に似たものを覚える。
彼はつい「その名」を呟きそうになって、けれどかろうじて喉の奥で押し留めた。頭を押さえ込む突起がなくなった為か、足を止めた男を覗き込む。
「平気?」
ゆっくりと、アージェを見返してくる眼。そこには先ほどまでとは違い、確かに人の感情が見て取れた。
困惑と自失。男は自分の体を見下ろすと、そのまま地面に膝をつく。アージェは咄嗟に手を出して彼の上体を支えた。
「おっ、ちょっと、待て。急に倒れるな」
声をかけてはみたものの、衰弱が激しいらしい男は既に気を失っている。アージェは仕方なくその体を担ぎ上げた。
「医者なんていたか……?」
ここのように小さな村では、医者がいないことも珍しくはない。
彼はとりあえず男を宿屋に連れて行こうと、村に向かって歩き出した。
当然その姿は村人たちから、奇異なものを見るような目で見られることになった。

アージェの危惧した通り村には医者がいなかったが、たまたま昨晩から熱を出していた子供の為に、近くの町から医者が訪ねて来ているらしい。ジオの父の紹介で、謎の男もその医者に見てもらえることになった。アージェは一息つき、宿屋の寝台に寝かせた男を見下ろす。
「この人ちょっと綺麗にしておいたほうがいいのか?」
何日も山の中をさすらったような男の風貌は、お世辞にも綺麗とは言い難い。
無理に頼んで医者に見てもらうということもあり、アージェは濡れた布で男の顔や体をざっと拭くと、ぼさぼさの髪を適当にまとめ、短剣で汚れた髭をそり落とした。そうして準備を整えてしまうと、彼は改めて首を傾げる。
「やっぱ剣士……いや、騎士か? 何でこんなことになってんだ」
たとえやつれていたとしても、普段剣の訓練を積んでいる人間であれば、体つきを見れば分かる。顔も拭ってみれば、三十歳前後であることが分かった。
アージェは男の胸元に変わった刺青があったことを思い出し、それを近くにあった紙に書き写してみる。
獅子の横顔に双剣。まるで貴族の紋章のようだが、それが何を意味するのか彼には分からない。アージェは紙片を荷物の上に放り出すと、自分は椅子に腰掛けた。手袋を嵌めなおした左手に目を落す。
「どうするかな」
この男の変化が、何によって引き起こされたのか、彼には一つの推論があった。
だが当たっている可能性が高いであろうその推論は、面倒事を意味するものでしかない。
はたして仕事でもないのにそのようなものに首を突っ込んでみるべきか、アージェは少し悩んだ。
「まぁ……この人次第か」
全ては伏している本人が起きてきてからのことだろう。彼はそう思考放棄すると、医者の到着を待った。
肝心の診察結果は、衰弱が問題なだけで、消化のよい食事を取ってしばらく体を休めればいいというものだった。



夜になって目を覚ました男は、ログルと名乗った。
薄粥を口にし人心地をつけた彼は、ぽつぽつと己のことを話し始めたが、アージェの推察通りかつては騎士であったこともあるらしい。ただ彼にはどうやら、ここ二週間ほどの記憶がないのだという。
その間飲まず食わずでいたわけではないことは、彼の服についていた鳥の羽や血、果実の汁から窺い知れたが、問題はそれだけではなかった。
山歩きで擦り切れた服の裾、そこに染み込んで黒くなっている「何か」を、アージェは指摘する。
「それ、人の血じゃないか?」
「……だと、私も思った」
深い溜息と共に、ログルは肯定の意を吐き出した。
想像よりもずっと穏やかな話し方をする彼は、痩せてしまった指で己の顔を覆う。
「だが本当に記憶がないのだ。私はその日、客人を迎える主人の護衛をしていて……」
「主人は?」
「ある街を治めてらっしゃる方だ。広い人脈をお持ちで、民に慕われていらっしゃる」
その主人の名を具体的に挙げることはしたくないらしい。
アージェは寝台の背に寄りかかるログルを冷静に観察した。
少し話した印象ではあるが、朴訥で誠実な人柄の男だ。騎士の称号を授与されたこともあるということからして、それなりに腕の立つ人間なのだろう。だがその分、傭兵や盗賊の用いる実利的な手法などには通じてないようにも見える。
アージェはもう少し突っ込んで、記憶がなくなる直前のことを尋ねてみた。
「その客人には会った? 帰ってから記憶がなくなった?」
「会った、というか見た。私は書斎で、客人を迎える主人の斜め後ろに立っていた。
 だがそこから先の記憶が……掻き消えている」
「じゃあ、そこではどんな会話があったんだ?」
「聞いていない」
「聞いてないって、部屋の中にいたんだろ」
「いたが、聞いてはいない。私たち護衛は主人と客人の会話を聞いたりはしないのだ」
「…………」
思わず「阿呆か」と言いたくなったアージェだが、違う場所で違う生き方をしていた人間にそれを言っても仕方ない。ましてやもう起こってしまったことだ。
彼は会話の内容を聞き取ることを諦めると、別の角度から尋ねた。
「じゃあその時何か見なかったか? 魔法具みたいなものを」
「覗き見たりすることもない」
「…………」
話がまったく進まない。
もうこれは放り投げてしまおうかとアージェが思った時、だがログルはふと思い出したように眉を顰めた。
「そういえば、あるものを見せられた」
「見せられた? あんたが?」
「ああ。客人が私にと見せてくださったのだ。だから覚えている。薄緑色の丸い石を……」
「球飾り?」
「いや、平べったいものだ。客人は石鏡だと言っていた」
「石鏡」
アージェはその単語を繰り返す。
おそらく「それ」が原因であろう。彼は半ばそう確信しつつ、更に突っ込んで聞いてみた。
「それってさ、『針』じゃなかった?」
「石鏡だと言っているだろうが」
「そうじゃなくて。石鏡は分かったから。―――― あんたは『針』を知らないか? 神代に生まれた偽神具を」
背に張り付いていた澱を取り除いた際、伝わってきた悪意は、アージェがかつて暴走を目の当たりにしたものと同じであった。
それら忌むべき魔法具を説明するにあたって、一番手っ取り早いのは、製作者である女の名を出すことだろう。
しかしアージェは、自分がそれをしてはいけないことを悟っていた。
二年前、彼が澱と共に取り込んだ女は、いまや完全に彼の支配下に置かれて眠っているが、その意識は消えたわけではない。彼が名を呼べば、嬉々として目覚める可能性はあるだろう。
万が一彼女が起きても押さえ込める自信はあるが、やたらと煩い女を進んで呼び覚ましたいとは、アージェは思っていなかった。
問われたログルは首を傾げる。
「何のことだ? 分からん」
「あ、そ」
ならこれはもう放っておいてもいいのかもしれない。
とりあえずは男の体調優先と、椅子から立ち上がったアージェに、ログルはけれど真剣な目を向けた。
「君は傭兵だというが、出来れば私を元の街まで送っていってはくれないだろうか。勿論礼は払う。
 主人のことが気にかかって仕方ないのだ。何があったのか気になる」
「…………考えとく」
何だか厄介な問題の入り口に立った気がする。
アージェは渋面でそのようなことを考えたが、その時既に、事態は遠くで着々と進行していたのだった。