石鏡 088

元は鍛えられた兵だったこともあり、ログルはみるみるうちに回復した。
地図で見るだに彼がいた街は山二つ向こうだというのだから、体力もかなりあったのだろう。そうでなければ山中でのたれ死んでいたに違いない。
髪を整え髭を剃ったログルは外見からも誠実さを窺うことができ、何処か飄々として淡白なアージェよりもよほど信頼が置ける人物のように見えた。村に辿りついてから三日、二人はとりあえずの契約を交わすと村を出立する。
「本当は山を越えるのが一番近いんだけど、馬が入れないからな」
アージェはそう言って街道を使う迂回路を地図で示した。農家から馬を買い上げたログルは、感心の面持ちで頷く。
買い上げたと言っても、正気を失い山を彷徨っていたログルには手持ちがない。
その為彼の使う金は、後の報酬とは別に必要経費としてアージェが立て替えているのだが、ログル自身はアージェのその申し出にはじめひどく驚いたものだった。
「傭兵という人種は、もっと用心深く抜け目がないものかと思っていた」
「そういう人もいるけどね。俺も一応相手見てるし。誰にでもこういうことするわけじゃない」
そっけない返事にログルは目を瞠ったが、それ以上何も言わなかった。或いは年若く見えるアージェの落ち着いた様子に、何かを感じ取ったのかもしれない。
騎乗した二人は街道を、別の街道とぶつかりあう地点まで北上していく。
そこから先は山を迂回して、別領へと入るのだ。
ジオの村と目的地である街は、同じラダーシュという国に属しているが、この国は王家の力が強くない代わりに、各領主が絶対の権限を以ってそれぞれの直轄領を治めている。その為一応の形式は王国であるが、実質は小国家の集まりと言った方が正しいだろう。全部で三つある領地は領地間で同盟しつつ、他国からの圧力を建国から約三十年、しのぐことに成功していた。

ログルの主人は領主とも縁深い人間らしく、領内では発言力も大きいという。
そのような人間のところに『針』を持った客人が訪ねて来て何をしたのか、アージェは嫌な予感を覚えて仕方ない。
だがそれを言ってもログルを不安にさせるだけだろう。
二人だけの旅路において、アージェは自然と言葉少なになり、一方ログルは沈黙が息苦しいのか己のことをぽつぽつと話した。
別の国で下級騎士の息子として生まれたこと、父親の後を継いで騎士の位を得たこと、国境の砦に配備されたが、本国はまもなく別の方角からの侵攻によって攻め落とされたこと。ありふれた変遷の話に、アージェは一つずつ相槌を打っていく。
男はそれら話の最後に、決まり悪そうに苦笑した。
「路地裏の他に行く場所がなく食うにも困った時には、さすがに死のうかと思ったこともある。
 だがこんな私を主人は拾ってくださったのだ。私はそのご恩に剣で返すしかない。度し難いことだがな」
目を伏せた彼の腰には、今は長剣はない。
記憶と共に何処かへ行ってしまった剣。しかしそれは、彼が思うほどには彼の本質ではないのだろう。
ログルはたとえ剣がなくとも別のやり方で主人に身を尽くす。―――― アージェには、そんな気がした。



「針っていうのはさ、要するに凄い力を持った魔法具なんだよ。で、作った人間の性格の悪さが反映されてる」
別領に入って最初の晩、森近くの空き地で野営をしながら、アージェは何とか「石鏡」の可能性について説明しようとしていた。
魔法にはまったく詳しくないというログルは、真剣な顔で彼の話に聞き入る。
「作った人間の性格が悪いと、何か問題があるのだろうか」
「性格が悪い人間がただ人の役に立つだけのものを作るわけないだろ。
 大体が変な効果だったり、使用者を蝕んだりするんだよ」
はじめてアージェが「針」に行き当たってから二年。彼はその後他の「針」に行き当たったことはないが、いくつか過去の記録から、それらがどのような力を持っていたのか知ることとなった。
使用者を徐々に魔物化させていくものや、膨大な力を放つ代わりに大量の人の血液を必要とするもの。
どれも凄惨な悲劇を呼び起こしてきたというそれら「針」に、アージェは出来るだけ近づきたくないと思いつつも、自分が「針」に対抗し得る人間であることは意識していた。
彼はログルの背に貼り付いていた澱を思い出す。
「多分、精神操作系じゃないかな。こう、頭の後ろに繋がってたみたいだったし」
「繋がっていた!?」
男はぎょっとして自分の後頭部を押さえたが、そこにはもう何もない。アージェは軽く肩を竦めた。
「とにかく、ちょっとでたらめな力持ってたりするから要注意だ。
 あんたには背中に何か貼り付いてても見えないんだろうけどさ」
「み、見えたら教えてくれ」
「出来れば見たくないな」
アージェが引き受けた仕事は、ログルを元の街まで送り届けることだ。
さすがに「針」と対決しなければならないなら、一人では到底荷が重い。
彼はいざという時ケグスに応援を頼めないか考えたが、魔法士にでも頼まなければ連絡自体難しいだろう。アージェは頭の後ろで腕を組んだ。
「俺も転移魔法とか使えたら楽だったんだけど」
「あれを出来る魔法士はほとんどいない。むしろ少数であるからこそ、助かっている側面もあるだろう」
「確かに」
転移可能な魔法士がその辺りにごろごろいるなら、各国の闘争はもっと陰湿な方向に激しくなっていたはずだ。
アージェはログロキアがイクレムの城に暗殺者を侵入させたことを思い出し、口の端を曲げた。
「それでも遠方連絡だけでも手軽に出来ればな……」
ぼやきながらアージェはふと、リィアのことを思い出す。
彼女は確かイクレムとの戦争終結後、コデュと共にログロキアを出て行ったはずだ。
もともとあちこちを渡り歩いている彼女であるからして、今何処にいるかも分からないが、元気でいればいいなと何となく思う。
もっとも彼女本人がそれを聞いたなら呆れた目で見られることは間違いないだろう。最後に顔を会わせた時は、アージェの方がずっと酷い状態であったので。
過去のことに意識を彷徨わせていた彼は、記憶の残滓を追い出すと厚布にくるまり横になった。
「あんたも寝られる時は寝とけよ。この辺りは危険な生き物もいないし」
「ああ」
精彩に欠ける男の声。その表情は焚き火の向こうで見えない。
アージェはそれ以上の思考をやめると、浅い眠りの中へ下りていった。



夢に見るものは、暗い森の風景だ。
そこには一人の女が座していて、無言の時を過ごしている。
「彼女」は、二年もの間沈黙したままだ。何も言わない。まるでアージェの母を殺した晩からずっと黙っていたように。
その沈黙を不在と考えることも出来ただろうが、アージェ自身は「彼女」について「まだいる」と感じ取っていた。
―――― だからこの夢も、夢であって偽りではない。
闇に没する森。
「彼女」は黙っている。顔を上げない。
何も伝えようとはしないその静寂は何故か時々、目的もなく彷徨い続けるアージェを悲しんでいるかのように思えたのだった。



翌朝二人は再び街道に沿って移動し始めた。
目的地の街にはまだかかる。ただこの夜は街道沿いの町に宿を取ろうとアージェは考えており、実際夕暮れ前には小さな町に到着することが出来た。多くはない宿の中から二番目に薄汚れたところを選ぶと、彼は部屋を取る。
傭兵である青年が宿の主人と金をやり取りする間、頭から深く布を被せられたログルは所在無く立っていた。
部屋に移動すると、男は不思議そうな顔をする。
「何故顔を隠すんだ」
「何でって。あんたを探されてたら厄介だろ」
「厄介?」
いまいち事態を飲み込めていないらしい男に、アージェが呆れ顔になった。だが知らぬままでいられても面倒なので説明してやる。
「記憶がない間に何かやらかして手配されてたら困るだろ。
 一応情報を集めながら行くけど、何があったか分かるまで顔を出してない方がいい。
 宿もそういう基準で選んでるんだ。客の素性を構わないようなところを」
「それは……」
若干蒼ざめたログルは、けれどそれ以上何も言わなかった。
自分が置かれた状況がどういうものなのか、彼は今まで目を逸らそうとしていたのかもしれない。
粗末な寝台に腰を落とした男は、震える両手で顔を覆う。
「本当は、何故剣を持っていないのか、裾の血はどうしてついたのか……考え出すと怖くて仕方ないのだ」
「無理もないよ」
「もし私が操られている隙に、主人に何かがあったなら。私はどうすればいい?」
―――― どうもしようがない、とは言えない。
アージェは男の慨嘆に無言で返した。
本当ならばそれは真っ先に疑うべき可能性であろう。客人と主人が会っている最中に魔法具を見せられ、それ以降の記憶がないのだ。普通に考えれば主人にも何かがあったに違いない。
だが少し考えれば分かるだろうそれを、アージェはあえて指摘してやることはしなかった。
彼の仕事はログルを街へ送り届けることだけだ。そこに付随する揉め事は、或いは彼の仕事の範囲内かもしれないが、ログルの精神面までは庇っていられない。そしてアージェは、個人の事情に首を突っ込むことがあまり好きではなかった。
若いながらも乾いた空気を漂わせる彼は、反対側の寝台に腰掛けると、窓から夕暮れ時の空を見上げる。
切り取られた群青色の空は深く澄んで、青年の目にもまだ美しく映っていた。



嫌な予感ほど当たるような気がするのは何故だろう。
街道を渡りながら三つ目の街で、彼らは目的地の街で何が起こったのか知ることになった。
それは、ログルの主人が何者かに殺されていたという事実で、犯人はまだ捕まっていないらしい。
集められるだけの情報を集めて宿の部屋に戻ったアージェは、抜け殻のように自失しているログルを見やった。
「で、どうする?」
事件について報じられた張り紙にはそこまで書かれていなかったが、護衛として共にいたにもかかわらず姿を晦ましているログルが怪しまれていることは間違いない。そのような状況でのこのこ街に戻っては、まず待っているものは牢獄か処刑台だろう。
このまま逃げるのか、それとも真実を明らかにしたいと思うのか、目線で問うアージェに、しかしログルは凍りついたままである。
彼は今すぐの結論を諦めると、ログルの肩を軽く叩いた。
「俺もうちょっと情報集めてくる。夜には戻る」
―――― ログルに必要なものは、一人の時間だろう。
親しい人間の死も、自分の罪も、やがては負わなければならない事実なのだ。
だが全ての人間がそうすぐに切り替えられるわけでもない。
アージェは一人宿を出ると、行過ぎる人々に紛れて歩き出した。街中を移動しながら旅商人らしき一行を見つけて背後につくと、うまいことに彼らは最近の情勢について囁きあっている。
「どうも今度は大きい戦が起きるらしいぞ。コダリスとケランが中心になって武器と人を集めてる」
「相手はイクレムかセーロンか? 飽きないことだな。武器商人にとっちゃ悪い話じゃなかろうが」
「そう暢気に構えてもいられないぞ。他にも色んな国がざわついてるからな。
 下手したら五十年前くらいの規模の戦になるかもしれん」
「ああ、大戦か……また地図が大きく書き変わるな」
半分は商売の機を探して興味津々ながら、もう半分では疲れきったような商人たちの会話は、不穏に満ち満ちたものではあったが、アージェの欲しい情報ではなかった。
酒場にでも行ってみようかと考えた時、だが彼のすぐ前を行く商人が、大げさに両肩を竦める。
「この国もなぁ、どうやらケランに与するようじゃないか。既に王は乗り気だって話だろう?」
「王よりも領主だ。反対していた一人が何者かに殺されたらしい」
「領主だけじゃない。あちこちで人が入れ替わってるさ。誰の狙いかは分からないが」
「やれやれだな」
神への祈りの言葉を呟いて、商人たちは遠ざかっていく。
その背を壁際に避けて見送ったアージェは、顰めてしまった眉を手で押さえた。
耳慣れない国名。「ケラン」という国を、けれど彼は以前から知っていた。
それはケグスが向かったはずの国であり、勇者とも呼ばれる高名な戦士が作り上げた、新興の王国だったのである。