石鏡 089

はじめに求めていたものは、ちっぽけな平穏であった気がする。
自分と周囲の人間が、脅かされることなく暮らせればいいと思っていた。
その望みが、より強い憎悪に似たものになっていったのは、いつからだろう。
ずっと共にいた彼女が死した時か、それとも皆がいなくなっていった時か。考えても変質が何処にあったか、思い出すことは出来ない。
燻るように彼を動かし続ける妄執。
或いはそれは、もがけばもがくほど奪われていく、この世界そのものへの呪詛なのかもしれなかった。

「うまく行っているようだな」
男の声は、感心しているようでもあったが、それ以上に「信じられない」という感情が混ざっているようだった。
友人のそんな様子に、ニートスは複雑な満足感を抱きながら胸の上を押さえる。
服の下のその部分には小さな石鏡があり、ひんやりとした感触を彼に伝えてきていた。
ニートスは、誰にもその存在を知らせていない魔法具を服の上から握り締める。そうして己の秘密を押し込めながら、彼は露台の外を眺める友人を見やった。
「ここまで来るには、もっと時間がかかるかと思っていた」
男の言葉には、過去を振り返るほろ苦さが溢れていた。
共に歩んできた道のり。その半ばにおいて彼は「勇者」と称えられ、今は「王」の称号を冠しているが、それは決して平坦な道程ではなかった。時には泥を舐めるような思いも味わってきた二人は、しばし無言で過ぎ去りし時代を振り返る。
「……もっとも子供の頃は、もっと早くここまで行き着けると思っていたが」
感傷と苦渋。混ざり合い複雑な色を作る友の述懐は、ニートスにもまた棘が刺すような痛みをもたらす。
―――― もっと早く抜け出せると思っていた。
そう願っていた子供の彼らは、だが一つずつ大切なものを失うにあたって、それが非現実的な甘えでしかないことを思い知ったのだ。
無論実際のところ、彼らは最速でここまで来た。
けれどそれは、起こり得る「現実」でしかない。かつては十数人いた仲間たちは、もはや皆失われて彼ら二人しか残っていなかった。ニートスは仲間一人一人の死を思い出す度、歯軋りするほどの後悔と怒りに苛まれる。
ただ彼の友人の方はいまや、過去の喪失を純粋に惜しんでいるように見えた。それを振り返り立ち止まることはしない。
その強さを、ニートスは羨ましく思うと同時に恨めしく思う。彼は露台の前に立つ友人の背を、狂おしい煩悶の目で見据えた。
新興国の王である男は、不意に振り返ると壁にかけられた大陸地図を眺める。
「当面は安定には程遠いが、コダリスをはじめとして同盟国も増えてきた。
 あとはイクレムとセーロンさえ潰すことが出来れば、当分は安寧が得られるだろう」
「ああ」
「内政はお前に任せる。俺は結局、戦うことしか出来ないからな」
「―――― コダリス王は、お前にケレスメンティアに行くよう要請するかもしれない」
ニートスがそう指摘すると、男は目を丸くする。彼にとってそれは考えてもみなかった可能性なのだろう。
出来たばかりの国の支柱である王。その彼が女皇の夫として国を離れてしまえば、国そのものが瓦解しかねない。
だがコダリス国王シャーヒルは、それを承知で立場の弱い同盟国の王に、面倒な役回りを振ってきかねないのだ。
ニートスは友人にも分かりやすいよう、理由を簡単に説明してやった。
「ケレスメンティアを味方につけるに越したことがないのは確かだ。
 しかしシャーヒルにいるのは娘ばかり。第一あの男はケレスメンティアの機嫌を自ら取るような真似はしないだろう。
 同盟国に代わりをさせようとするはずだ。その点ケランはよくも悪くも目立っている」
「ああ。それにどうしても新興は下に見られるしな……」
この大陸では百年以上の歴史を持つ国自体珍しいのではあるが、それでも新興国は一段下に見られる傾向にある。
それは戦争で成り上がった小国の多くが、十年と持たずに瓦解していくという現状に起因しており、いわば作られたばかりの国は、その後何年持つのか、周囲から試されていると言っていいだろう。統治者にとっては、国を国として成立させてからどれだけ確固たる安定を勝ち取れるかが、本当の勝負なのだ。
けれどそのような厳しい状況において、ケランは王家の者を他国に嫁がせ関係を強めるという手段が取れない。王である男も、彼の腹心であるニートスも、どちらも元は孤児であり、血縁がいないのだ。
必然的にコダリスからケレスメンティアとの縁組を打診されれば、王は彼自身を出さざるを得なくなる。
シャーヒルが狙っているのは、その後のケランの属国化であろう。ニートスは舌打ちをしたくなった。
しかし友人である男は、清清しささえ思わせる目で彼を見やる。
「まぁしかし、そんな話が持ち上がる時にはもう、俺の役目は終わっているだろうからな。
 お前がこの国にいてくれれば充分だろう」
「……は?」
正気か、と思わず問いかけてニートスは言葉に詰まった。
ケランが国として何とか人を集められたのは、王である彼自身に惹かれた者が多かったからだ。
いくら当面の外敵を排除した後のこととは言え、彼なくしてケランは立ち行かない。
だがその本人は自分の価値を何ら分かっていないのか、深い信頼の目をニートスに向けた。
ただ前だけを向く強者の眼。ニートスは息苦しさに我知らず石鏡を握る。
―――― 彼は、何ひとつ知らないままなのだ。
ニートスがどのような物を使って邪魔な政敵を排しているのか、王はまったく気付きもしない。だからこんな風に、ようやく得られた夢の一つを彼に譲り渡そうとしてしまうのだろう。ニートスは自分でもよく分からぬ苛立ちに駆られ、石鏡を握る指に力を込めた。
「……まだ先の話だ」
「そうだな。それに女皇が俺を受け入れてくれるとも限らない」
冗談めかして笑う友人に、ニートスは乾いた苦笑を返す。ざらついた口内を震わせ、彼は続けた。
「お前がケレスメンティアに行く必要はない。―――― シャーヒルのことは私が何とかしよう」
ニートスはそう言って、友人の返答を待たずに踵を返す。
人を思うがままに操る石鏡。その硬質な感触だけがいまや、男の希望であり救いであった。






アージェが宿に戻った時、ログルは寝台に座り込み両腕で頭を抱えていた。
そのままぴくりとも動かない彼は、まるで生きることを拒否したようにも見える。
アージェは何もいわず彼の前を通り過ぎると、反対側の寝台に座った。
薄暗い部屋。静寂に包まれたそこは、しかし誰の呼吸音も聞こえない。
一日街中を歩き回り疲れた体を、アージェは簡素な寝床に横たえた。
二年間で成長した彼は、今は師よりも少し高い身長を持っている。
だがどれほど望んで鍛えても、彼はダルトンのように服の上からでも分かる筋肉質の体躯にはならなかった。
その辺りは体質も影響しているのだろう。十七歳になった彼はけれど、余分な肉のまったくない引き締まった体をしている。
傭兵として不足のない姿。それはもはや大人と言って差し支えないだろうが、彼の瞳にはまだ、成熟しきっていない苛立ちと諦観が時折ちらついていた。
今もアージェは屈折気味の諦観を湛えて、煤けた天井を睨む。視界の外から、ログルの震える声が聞こえた。
「私がやったのだろうか」
何重もの恐怖に怯えての呟き。
アージェは彼の抱える重みを察し、返答に迷う。だが結局は、本音に近いあっさりとした言葉を返した。
「分からない」
ログルが犯人ではない可能性を挙げようと思えば、いくらでも挙げることが出来る。
だがそれは逃避の域を出ない慰めだろう。何が一番有り得ることなのか、彼自身分かっているに違いない。
アージェは欺瞞を嫌って目を閉じる。
音はしない。ただ過去の悔恨が思い出されて、彼の胸はちりちりと痛んだ。
―――― 本当に辛いことは、自身の罪よりも大切な人間を失ったことだ。
だからログルもまた、その辛苦と戦っているのだろう。
どれだけの期間で彼がそれから脱することが出来るか、アージェは「三日は待とう」と考えていた。
しかし青年の予想はすぐに裏切られる。空気が動く気配。目を開けると寝台のすぐ傍にログルが立っていた。
彼は悲しみの色濃い、だが芯のある眼でアージェを見下ろす。
「私のせいだ」
「…………」
「私の油断が、主人を殺した。どう詫びようとも償いきれない。
 だが私は―――― こうなるように仕向けた者もまた許せないのだ」
ログルの慨嘆は返答を求めていないようにも聞こえた。
アージェは無言で体を起こし、男を見上げる。
疲れきった顔に窺える憎悪の火。それはアージェにもまた覚えがあるものだった。
傭兵のような仕事をしていると、あちこちで出会う人間の中に、自分や知人に似たものを見出すことが出来る。
苦悩や悔恨、悲嘆。そしてそれらから顔を背けようとする者と、乗り越えて希望に手を伸ばす者と。
誰に何があったかは知らない。ただ彼らは皆、同じものを持っている。
似ていて当然なのだ。同じ大陸で生まれ、同じ時代を生きる者たち。彼らの多くは闘争から逃れることが出来ず、喪失を経験している。
そして今、似た傷を持つ二人は、過ぎさりしものとこれからの為に向き合っていた。
アージェは目にかかる前髪をかきあげる。
「その客人とやらを捕まえる?」
求めているものは真相の究明か、それとも復讐か。
ログルは言葉では肯定を口にしなかったが、答は目を見れば明らかだ。
傭兵である青年は頷くと、南西の方角を指差す。
「大体情報は揃った。ケランに行くなら明日の朝出よう」
「……一つだけ、頼みがある」
「何?」
「主人の墓を参りたい。自分の目で確認しておきたいのだ。あの方が本当に亡くなられているのか」
男の望みは、予想の範疇内ではあったが、アージェはいい顔は出来なかった。礼儀として一応忠告する。
「分かってると思うけど、危ないよ」
「ああ。勿論私一人で行く。君は近くの町で待っていてくれ」
固い口調は、既にログルが決心しているがゆえのものだろう。
普通に考えれば彼のやろうとしていることは単なる無謀で、何の実益も生まない。
だが人には時に―――― そういった儀式が必要なこともあるのだ。
アージェは軽く息を吐く。
「俺、そんなに薄情じゃないよ。一緒に行く」
「だ、だが」
「二人の方が誤魔化しやすいし。何とかなるだろ」
軽く手を振って会話を打ち切ると、青年は再び横になった。「早く寝た方がいいよ」と彼が忠告すると、男はほんの少し苦笑に似た表情を浮かべる。
「君は本当に変わった傭兵だな。騎士の方が近いような気もするが」
「俺は騎士にはならない」
投げ捨てるような返答をして、アージェは壁の方を向く。
強い語気に軽く驚いたらしいログルは、だがすぐに自分も寝台に戻ると、贖罪をするように目を瞑った。