石鏡 091

ケランに向かうことが決まった日、アージェは同じ国にいるであろうケグスにあらかじめ連絡を入れておいた。
大きめの街には、大抵傭兵たちの仲介をする組合があり、個人宛の言付けや依頼などを受け付けてくれている。
組合同士は情報のやり取りもなされている為、もしケグスがケランの城都にいなくとも、同国内の街であれば連絡が届くだろう。師である男の力が借りられれば、それにこしたことはない。
他にも細々とした準備をすると、二人は翌日にはログルの元いた街を出た。―――― 否、出ようとした。

「そっちだ! 逃がすな!」
背後から聞こえてくる怒声。アージェは軽く舌打ちした。馬上から後ろを振り返る。
追っ手の数は七騎。いずれも憲兵だ。その中には先日墓所で出会った男の姿はなく、青年は何故か少し安堵した。
街を出ようとした際に、二人が巡回の憲兵に呼び止められたのは、単なる不運としか言いようがないだろう。
半ば義務のような素振りで近づいてきた憲兵たちの中に、たまたまログルの顔を知っている者がいたのだ。
その場は何とか振り切って馬に乗ったが、彼らは街道にまで追いすがってきた。
アージェは片手で手綱を操りながら、街道を並走するログルに声をかける。
「二手に別れよう。先に行って打ち合わせした町で待ってて」
「だが君は」
「ちょっと足止めしてく。大丈夫だよ」
言いながらアージェは馬を寄せ、右手でログルの馬の尻を叩いた。速度を上げる馬を確認すると、彼は自分の鞍から短弓を取る。そのままアージェは馬上で振り向くと、憲兵たちに向けて弓を引き絞った。
髪を揺らす風。両脚だけで体勢を保ちつつ、アージェは弦から指を放す。放たれた矢が風に乗って、先頭の馬の胸に突き刺さった。
鋭いいななきをあげて崩れ落ちる馬と、地へと投げ出される憲兵。アージェは彼らの混乱に構わず第二射を放つ。
次の矢は狙いを外し、別の憲兵の顔のすぐ横を通り過ぎていった。
アージェは矢筒から素早く三本目の矢を取り出す。
遠目からでも分かる追走劇。その時には既に、憲兵にも弓を手に取ろうとする者がいたが、彼はそれを許さなかった。
三射目は矢を番えようとしていた男の左腕に深々と突き立つ。驚愕の悲鳴が晴天の下響き渡った。
「貴様、よくも!」
馬を駆る他の憲兵から憎悪に満ちた声が飛ぶ。
しかし、アージェはそれを無視して前に向き直った。改めて手綱を取り、馬の腹を蹴って速度を上げる。
―――― 弓はそれなりに使えるが、命中精度に自信を持っているというほどではないのだ。
これくらい足止めが出来れば充分すぎるくらいだろう。彼はログルが既に離脱していると見ると、街道を外れて林の中に続く小道へと飛び込む。生い茂る木に追っ手の視界と矢は遮られ、憲兵たちはまたたくまにアージェの姿を見失った。

まんまと二人を逃がしてしまった彼らは、街から離れすぎたということもあり、それ以上の追跡を諦め負傷者のもとに集まる。
中の一人が、忌々しげに青年の消えた林の方を見やった。
「嫌な奴だな……変に肝が据わってやがる」
七人に追撃されてもまったく動揺せずに威嚇を開始した青年。
傭兵という人種は、自分の判断が即、命に関わってくる為、豪胆な人間は少なくないが、それにしても先ほどの青年は年齢の割りに気味が悪いほど落ち着いていた。相当場慣れしているのだろう。馬を下りた憲兵がかぶりを振る。
「それにしても、逃げたということはやはりあの男が犯人か?」
「さぁな。本当に犯人だったらそのうち死ぬんじゃないか?」
ここのところ続いている事件。その犯人は皆突き止められた時には既に死んでいる。
そのことを思い出し、男たちはぞっとした表情になった。
実に物騒で嫌な事件群ではあるのだが、死亡した人間の多くがケランとの同盟に批判的な人間だったこともあって、上は調査に乗り気ではない。
その為まるで空回りさせられているような憲兵たちは、皆興ざめしたが如く冴えない表情を見合わせた。
―――― 口にはされないまでも、彼らに共通して抱かれた疑念は「この事件の黒幕は捕まらないのではないか」ということだ。
憲兵たちはそれぞれ小さな溜息をつくと、馬に乗って街へと帰っていく。
全てを見下ろす青空は、いつもと変わらぬ澄んだ空気を湛えていた。






一人で野営をすることは珍しくない。
それは、本来ならば安全性の面で避けるべき行いなのだろうが、アージェは人気のない場所で夜を過ごすことに安堵を覚えていた。明るい焚き火を前に、彼は剣の手入れを続ける。
二年前、ダルトンに選んでもらった長剣は、今でも彼の愛剣として使われ続けている。
よく使い込まれた刃は曇りのない光を返し、青年は目を細めた。
―――― かつては、夜の森がもっと厭だった。
それはどうしても、故郷の村の傍にあった森を思い出させる。
子供だった彼に二度忘れがたい辛酸を味わわせた森は、拭いがたい後悔と憎悪を彼に与え続けていたのだ。
だがそれも、いつの間にか薄らいで平坦な感情の中へ溶け込みつつある。
母の死の記憶が、強い悔恨が、なくなってしまったわけではない。
ただそれらは、常には彼を苛まなくなった。
彼の子供時代がいつの間にか終わったように、そして彼の中の「彼女」が口を閉ざしたかのように、それらは普段は感じられぬ場所に蹲り、アージェが望んだ時にだけ顔を上げるようになったのだ。
このちょっとした変化が「大人になる」ということだとしたら、自分は薄情な人間だとアージェは思う。
同じようにして、いつか「彼ら」の死も均されていってしまうのかもしれない。
アージェは、気付けば自分が長い間、本気で笑うことも怒ることもしていないことに気付いていた。
感情自体が硬化し、温度を失ってしまったかのような日々。
その始まりがいつであったのかアージェは知っているが―――― それでも無力であった子供の自分に戻りたいとは思わなかった。

剣を傍に置き、厚布にくるまって目を閉じる。
夢の中に現れる女たちは、いつも何も言わない。彼に近づいてこようともしない。
浅い眠りの中、アージェは白い石段と、その上に立つ女を見上げた。
この大陸に二人といない女皇。彼女の横顔は目を閉じて何かを堪えているように見える。
まるで続いていくことを拒むような貌。
それは彼にとってひどく遠く、手の届かないものに思えた。






「どうして夫を選ばない?」
その問いは、最近になって更に聞く頻度が上がった諫言だ。
白く広がる一人の空間。レアリアはぴくりとも表情を動かさないまま返した。
「私の自由よ」
「お前は、これに関して自由はない」
「今は私よ。私の生だわ」
間髪入れずの答に、けれど彼女の頭の奥は激しく痛む。レアリアは感情を動かさないよう精神の統御を試みた。
しかしその精神の片隅から糾弾の声は続く。
「自分を見失ったか? 己の役目を忘れたか」
「煩い」
「お前は何処にも行けない。何を捨てることも出来ない。その業を負っている」
「っ、煩いっ! みんなは私を捨ててきたじゃない!」
痛々しい叫びは、他に誰もいない空間に虚しく響いた。
無限とも思える時間の流れを湛えた場所。レアリアは己の耳を両手で塞ぐ。
波のように飛沫を上げる情動は、今まで意識さえしていなかった焦燥と同義だ。
遥か過去から持ち越してきたものが浮き上がり、彼女の口を借りて吐き出されていく。
「これ以上続けても仕方ないでしょう……もういない、いないのよ! これ以上は意味がないわ!」
―――― この苦しみは、一体誰のものなのだろう。
レアリアは喉元を押さえながら、心の何処かでそのようなことを考えていた。
彼女自身のものかもしれない。或いは別の女のものか。続いてきた無数の彼女たちのうちの一人か。
だが、全てをレアリアに押し付けた女は、憐れむような空気を湛え、その狂乱を見ているだけだった。
何もない白い空間。時を表すように無限に広がるそこに、女皇の零す一つの嗚咽だけが響いていく。
何処か孤独な子供を思わせるその声を、まるで他人事のように聞くレアリアは、自らの激情がすっと冷めていくことに気付いた。
赤紫に変じた瞳がその赤みを減じていく。彼女は白い手で涙に濡れる両眼を閉ざした。

本当は、それほど深い絶望を抱いていたわけではない。
ただ「彼」がいなかった。そして、夫を迎える気になれなかった。
たったそれだけのことだ。理由などない。気分の問題でしかない。
―――― けれどそのことについて問われると、何故か自分でも不思議なほど感情的になってしまうのだ。

レアリアは安定を取り戻すと深く息を吐き出す。
隅々まで自分のものである躰。目を覆っていた右手を、彼女は下ろした。
同じ声が義務を囁く。
「お前は続けなければならない。……この大陸に生きる人間たちの為にも」
彼女は応えない。
そしてレアリアは、作り上げた空間を手の一振りで砕いた。






約束の場所で待っていたログルは、アージェがけろりとした様子で現れると感心したような顔になった。
だが青年は、男が何か言うより先に手を挙げてそれを制する。
「じゃ、ケランに行こうか」
「あ、ああ……」
アージェはその町で矢を始めいくつかの物資を補給すると、再び街道に戻る道を選んで進むことを説明した。
街外れの厩舎の前、木の柵に腰掛けたログルは若干不安そうに確認してくる。
「街道を使って大丈夫だろうか。また憲兵に追われるのではないか?」
「本当の罪人だって、そんな遠くまで顔は知れてないよ。
 ケランは新興国で、今は人の出入りが激しい。普通に入った方が怪しまれない」
「そ、そうか……。色々すまない。ありがとう」
ログルとアージェの年の差は十歳以上あるが、変則的な面倒ごとに慣れているのは圧倒的にアージェの方である。
てきぱきと決断し指示を出す青年に、だがログルは反感も嫉妬も抱く様子はなく、素直に感謝の念を示した。
アージェはむしろその反応に目を丸くして男を見やる。
「あんた、騎士やってたにしては変わってるよな。人がいいっていうか」
「そうだろうか。騎士とは誠実であるべきと、父には言われたが」
「俺の知ってる騎士には、そんな奴はいなかったよ」
苦笑する青年を、ログルは複雑そうな目で見上げる。しかし彼はそれ以上踏み込んでくることはしなかった。
アージェはそういう男の性格を好ましく思う。
―――― きっとログルであれば、どの主人のもとに行っても信頼を得て生きていくことが出来るだろう。
だが、そう忠告したとしても彼は聞かないに違いない。今の一件に、何らかの決着をつけてしまわなければ。
アージェは厩舎の持ち主に青銅貨を払うと、休ませていた馬を引き取った。
二人はそれぞれ馬上の人となると、街道を目指して小さな町を出立する。

そうして向かう先の国で、だが思いも寄らぬ再会が自分を待っていることを、この時まったくアージェは予想していなかったのだ。