石鏡 092

ケラン国境を越える際、アージェは一応用心もしてみたが、予想通りそこには行き来する者を調べるような検問は何もなかった。新興国とあって人が集まりやすい上、そのようなところに割ける人手もないのだろう。
二人は国境から二週間近くかけて城都へと到着すると、予め決めてあった通りまず傭兵たちの仲介をする組合を訪ねた。
路地裏の薄暗い店で、自分宛の返信がないか問い合わせたアージェは、ケグスからの連絡を受け取りひとまず胸を撫で下ろす。
彼自身、師がいないと何も出来ないというわけではないが、自分の視野が必ずしも広いわけではないという自覚はある。
ケグスからの意見が聞ければ、新たに見えてくるものもあるだろう。
アージェはログルを連れて、師が逗留しているという宿を訪ねた。二ヶ月ぶりに再会した男は、アージェが伴ってきた男を見て皮肉げに口元を歪める。
「また妙な依頼を受けたな」
「縁があったんだよ」
簡素な部屋に招き入れられたアージェは、昔からの習慣でお茶を淹れ始めた。一方ログルはそんな青年の姿を不思議そうに見やる。男は「手伝おうか」と申し出てきたが、アージェはそれを断った。
テーブルのない部屋。欠けたカップを二人に配った青年は、窓辺に寄りかかると本題を切り出す。
「で、どう思う?」
「どう思うって、お前なぁ……。その男―― ケラン王の片腕が、犯人ぽいってのは確定なんだろ?」
「ほぼ黒。実は二人いるとかじゃなければ」
「それはない。俺の方でも調べた」
事実の確認は「手詰まり」の一歩手前で立ち止まるようなものである。
いくら新興国とは言え、王の側近を一介の傭兵がどうこう出来るわけもない。ケグスはお茶に砂糖を放り込みながらやる気のない声で付け足す。
「暗殺者雇ってみたらどうだ? 俺には伝手ないが、誰かしら紹介してくれるだろ」
「というのも考えたんだけど、依頼主が乗り気じゃない」
その補足にケグスは所在なげなログルを見やる。アージェとは違う意味で底知れない傭兵の視線に、男は気まずそうな目になったが、迷うことなく頷いた。
ケグスはお茶の表面に息を吐き出す。
「そりゃまた面倒なこった。払う犠牲に見合うものが得られるとは思わんけどな」
―――― 復讐とは、基本的には後ろ向きな行いである。
そうケグス本人から釘を刺されたこともあるアージェは、口を挟むことなくログルの表情を窺った。
男は少しだけ苦笑したものの、すぐに真剣な顔に戻るとケグスの言葉を訂正する。
「私は……何もあの男を殺したいと思っているわけではないのだ」
「ほう? じゃあどうしたいんだ」
「これ以上、人が不当に操られることのないようにしたい」
真っ直ぐで、痛切な希望。
それは薄く埃の積もった窓枠にまで届き、アージェは僅かに目を伏せた。
一方ケグスはその返答を予想していたのか、鼻を鳴らして笑う。
「だそうだぞ、アージェ」
「聞こえたよ」
「どうするんだ。『針』なんだろ?」
「考え中。魔法士雇った方がいいかな」
「さぁな。二年前のことを考えると、生半可な魔法士ならいない方がましって気もする」
淡々と相談を始める師弟に、ログルは目を瞠った。
彼もここまで来る間にアージェから、散々「針」の面倒さについて聞いていたのだが、その面倒な品を相手に傭兵二人が怯むところを見せないとは思わなかったのだろう。男は慌てて会話を遮った。
「ほ、本当にいいのか?」
「うん。まぁ、何とかなる」
「どっちかっていうと、『針』の破壊よりもその石鏡に近づくまでが厄介だろ。どうやって出させる?」
「それなんだよな。向こうから出させた方が、こっちにとっても楽なんだけど」
標的の男を襲って石鏡を破壊するのでは、面倒さは暗殺や襲撃と変わりない。
それよりも相手がそれを使おうとする場に乗り込めれば、もとより人払いもされているだろうし、始末もしやすいだろう。
問題はどこにそのような場所があるか、であるが、アージェはとりあえずその問題を棚上げした。手袋を嵌めたままの左手を見やる。
―――― この手が「針」への対抗策となることは確かだが、その方法を誤れば面倒なことになる。
かつてはそれが遠因となって悲劇を招いたとも言えるのだ。アージェは苦々しい気分と冷静な思考を同居させながら具体案を練った。寝台の上に座るケグスが膝に頬杖をついて、その様子を眺める。
「どうするんだ? また取り込む気か?」
「それはちょっと。二人になっても困るし」
「二人になるのか? 融合してもっとうるさくなるんじゃないか?」
「それもやだ」
彼の中に眠る神代の残滓は、今はアージェに押さえつけられ眠ってはいるが、ひとたび目を覚ませば騒がしいことこの上ない。
その煩さが倍増するとあっては、到底「針」の力を取り込む気にはなれなかった。アージェは左手を軽く振ってみる。
「まぁ……こっちも対策を考えとく。とりあえずは情報を集めよう。標的の行動予定が知りたい」
「その辺は俺がやってやるさ。お前は『針』をどうするか考えとけ」
「うん」
傭兵同士や情報屋との横の繋がりは、アージェが師に遠く及ばぬところである。
むしろ彼はそういった人脈を築くことに興味がない為、他の傭兵たちもアージェを「ケグスの弟子」として間接的に捉えているところがあった。
共に雇われた人間たちから「付き合いが悪い」と言われることも少なくない青年は、取り残されているログルを不意に振り返る。
「ってわけで。ちょっと待ってて」
「あ、ああ……」
すぐには驚きから冷めないログルは、慌てて首肯すると、改めてじっとアージェの横顔を注視した。
その視線に気付いた青年は「何?」と聞き返す。男はその時、困惑とも心配ともつかぬ目でアージェを見ていた。
「君は、本当に一体何者なんだ?」
極めて単純な、そして真を求めた問い。
アージェは緑の瞳を一瞬丸くすると―――― 「さぁ、なんだろう」と苦笑した。






全ては順調だ。順調に動いている。
そう信じようとするニートスは、これからの主な予定を確認して深く息を吐き出した。机の上にあるお茶のカップに手を伸ばす。
隣国であるラダーシュは、既に三つの領全てにおいてケランと同盟する意志を見せている。
それだけではなく他の周辺国たちもまた掌握済であり、これに盟主とも言えるコダリスを加えれば、ひとまず磐石と言っていい体制だろう。
ニートスはようやく作り上げた状況に「苦労した甲斐があった」と肩の力を抜いた。爽やかなお茶の香りを胸深く吸い込む。
もっとも磐石と言っても、それは同盟外との拮抗状態においてのことで、内部ではまだまだ火種が尽きない。
特にコダリスは隙あらばこの新興国を併呑しようと狙っているようで、その牙は外敵であるイクレムやセーロンを退けた後、本格的にケランへと剥かれることは予想がついていた。
ニートスは「野獣」とも揶揄されるコダリス王シャーヒルの、貪婪な瞳を思い出す。
―――― やはりこの先ケランが生き残る為には、コダリスに屈せぬ力が不可欠であろう。
だがそれは、武力で補いきれるものではない。いくらケランの王が戦場では高名とは言え、軍自体が百戦錬磨のコダリスに匹敵しうるわけではないのだ。
ケランには武力ではないもっと別の道が必要で、それはまた早急に手に入るものでなければならない。
その為の布石を打ってきたニートスは、ようやく目標への前進を目前にして、疲労と安堵の両方を覚えていた。
彼は「コダリスの野獣」に向けて、すさんだ笑みを浮かべる。
「お前の望む通りにしてやる……もっとも相手方がどう動くかまでは、ご期待に添えないだろうが」
ケレスメンティアの女皇の夫に、ケラン王を呈しようと狙うシャーヒル。
だがケランが彼女の寵を得たとしても、コダリスまでがその益を得られるとは限らないだろう。
男は服の下の石鏡を握る。固く冷たい感触。別大陸の魔女が作ったと聞く魔法具。
―――― これさえあれば、女皇でさえも意のままに動かせるのではないかと、そう信じて。






大陸最西端にある浜辺にはその時、人っ子一人いなかった。
それは空がどんよりとした雲に覆われ、灰色の海が高い波を上げていることと無関係ではないだろう。
漁師たちもみな船を引き上げ、来るかもしれない嵐に備えていた午後、海際に広がる白砂を踏む者は誰もいなかった。
―――― 波打ち際の空間が奇妙に歪み、水鏡と酷似した「門」が現れるまでは。
「……よっと」
軽い声と共に、小さな爪先が浜辺の砂を踏む。
すらりとした細い肢。柔らかな曲線を持つ体は一見して、十五、六歳の少女のものだった。
美しい顔立ち。明るい茶色の毛は緩やかに巻きながら、腰の高さにまで伸びている。
朱色の外衣の下には象牙色の肌が覗き、神秘を宿す金色の瞳が好奇心をもって寂しげな景色を捉えた。
造作自体は少女のものでありながら、彼女はまるで妖女の如き艶やかな目で暗い空を見上げる。
遅れて門から現れた男は、その場から動かない彼女を見下ろし顔を顰めた。
「何をしている」
「いいじゃない。久しぶりなんだから」
まったく悪びれることのない態度に、褐色の肌の男は忌々しげな表情になる。
しかし彼女はそれさえも可笑しそうに声をあげて笑った。円形の裾を翻し砂の上で回ってみせる。
「さぁて、何処に行って何をしようかしら」
「何をする気だ」
「楽しいことよ? ……ああ、あんたを故郷に連れて行ってあげてもいいけど?」
女はふわりと空中に浮かび上がると、連れの男に向かって顔を寄せた。
人の精神を容易く篭絡出来るであろう紅い唇。その紅さが、口付けを望むように繊細に微笑む。
男は嫌な顔をして一歩距離を取った。
「俺はあの国に用はない」
「そう? でもあんたは見るべきだと思うんだけど」
女の声は、毒のように人の心へと沁みこんでいく。
短い付き合いながらその力をよく知る男は、何を言うことも出来ず固唾を飲んだ。女は優しげな微笑を見せる。
そこには見通すことの出来ない悠久が宿り、そして無視することの出来ぬ力があった。
別大陸からやって来た女は、灰色の世界で鮮やかに咲う。
「だってこの大陸も、もうすぐ根底から変わっちゃうかもしれないのよ?
 ちゃんと見ていきなさいよ。あんたが逃げて、捨ててきた女がどういう選択肢を選ぶのか。
 ―――― ねぇ? クレメンシェトラの元騎士さん?」
男は答えない。
彼は腰に提げた短剣に触れ、小さな溜息を吐いた。