石鏡 093

ケレスメンティアにおいて、代々女皇に寄り添う「ディアド」と呼ばれる騎士。
それは澱を操る異能者の家系から一人ずつ、次期女皇の誕生に伴い選び出されることになっている。
慣例的にこのディアドは当主か当主の息子が務めることになっており、主な役目は女皇の護衛と代理だ。
彼らは幼少時から一対の主従として過ごすことで、一生に及ぶ信頼を築いていくとされていた。

現女皇であるレアリアにはしかし、このディアドがいない。
彼女が生まれた時に選出されたディアド、当時の当主の息子であった男は、彼女が七歳の時に国を出て、以後の行方が知れないのだ。
その際、男の父である当主自身が彼女のディアドを兼任すると申し出たが、レアリアはそれを拒否した。
結果、ケレスメンティアには他にディアドとなれるだけの人間もおらず―――― 彼女は騎士を持たない女皇となっている。



彼女のものである執務室は、いつでも冷然とした空気が漂っていた。
余分なことは何ひとつ必要とされない場所。白木の机の上に彼女の私物はなく、ただ使い込まれた黒い硝子軸のペンだけに、女皇の拘りを見ることが出来る。
彼女はこの部屋で声を上げて笑うことはない。本気で怒ることも多くはない。ただ淡々と仕事を処理していくだけだ。
それで充分に、レアリアは統治者としての役目を果たしてきた。長い十代を終えた、つい先日までは。
彼女は開いた書面を手に、瞳の青紫を沈ませる。
作られたばかりの王国からもたらされた一通の書状。その内容が、彼女の夫選びに関係していることは明らかだった。
無論そのようなことは何処にも明記されていなかったが、真意は考えるまでもないことであろう。女皇の夫を差し出すことが出来れば、その女皇の代はケレスメンティアによって国の安定が保証される。
だからこそ多くの小国は、そして大国さえも彼女の隣席に無心ではいられないのだが、レアリアは今までそういった申し出を全て断り続けていた。
ディアドがいないことが異例ならば、二十歳になるにもかかわらず子供がいないことも異例。
異例尽くめの女皇は、だがその書状に目を通してしまうと、それを捨てずに脇へと置く。
―――― いつまでもこのまま立ち止まり続けることは出来ない。
それは指摘されずとも自明のことだ。彼女は娘を産み、その娘に女皇の座を引き継がせ、「続け」なければならない。
ただでさえ彼女の現状は、女皇としてあるべき姿から逸脱しているのだ。
もはやこういった申し出の一つ一つを見ぬ振りし続けることは出来ないだろう。

レアリアは溜息をつくことなく、その書状に返信の為の意思を書き添える。
そうして文務官に清書を命じた彼女は、けれど再び一人になると、気鬱の表情で息を吐いた。






「久しぶりにやっても出来るもんだな」
感心したような声はケグスのものである。アージェは左手の澱から作り上げた黒い剣を一瞥し、頷いた。
「コツは掴めてるから。多分これでいけると思う」
いかにして針を破壊するか。
その手段を色々と考えた結果、出た結論がこれである。アージェは左手を、利き手とまったく変わらぬ慣れた所作で振った。
―――― 傭兵として修行を積んできた二年間、彼はさまざまな戦闘や事件を経験してきたが、それら急場においてもあえてこの力に頼ることはやめていた。自分が望んで身につけたわけではない力に頼っては、本当の実力がつかなくなる気がしたのだ。
だが彼は、もしもの場合を考えて左手で剣を扱う訓練はしていた。久しぶりに澱を使って武器を作り出したアージェは、長剣よりやや短いくらいのそれを確かめるように振るう。今は二人の傭兵だけしかいない宿の部屋に、空を切る鋭い音が続いた。
アージェは一通りを確認すると、手の中の武器を消す。
「ちょっと気を張らなきゃいけないけど、まぁ大丈夫そう」
神代から伝わる強力な魔法具、製作者の悪意を伝える針は、決して特別な力がなければ壊せないというわけではない。
ただアージェの異能であれば、通常の武器や魔法で挑むよりも容易く、それを壊すことが出来るだろう。
その代わり彼は、針からの侵食を防がなければならない。アージェは左手に手袋を嵌めなおしながらぼやいた。
「問題はあいつが眠り続けてくれるかってことなんだけど……」
「いい加減消しちまえよ。出来ないのか?」
「出来るかもしれないけど」
青年はその先の言葉を飲み込む。まさか「憐れな気がする」などと師には言えないし、眠ったままの「彼女」にも聞かれたくなかった。彼はぽりぽりと頭を掻く。
「とにかく、針の破壊は何とかいけそう。あとはいつ仕掛けるかなんだけど……」
「ああ」
ケグスはそこで若干顔を顰めた。彼にしては珍しい気まずそうな表情に、アージェは怪訝に思って目を留める。
「何? 難しそう?」
「いや。面白い情報が入った。かなり眉唾ではあるが、信頼出来る筋からの話だ」
興味を引く前置きで始まった話にアージェは耳を傾けた。
寝台に座るケグスは、一拍置いて続きを述べる。
「近いうちに、他国から使者が招かれてくるらしい。ニートスはその相手に石鏡を使う可能性がある」
「なるほど。ちょうどいいな。何処の国の使者か分かってる?」
「ケレスメンティアだ」
その国名は、少なくともアージェの目を丸くさせることに成功した。
喜ぶわけでも怒るわけでもなく、ただ意外な名を聞いたかのように青年は師を見返す。
「ケレスメンティア? ケランと仲良かったっけ」
「まだだな。が、ケランの方はケレスメンティアの庇護を得たいと思ってるだろう。その為に呼んだんだ」
「頭を下げて属国にしてくださいって?」
「違う。けどまぁ似たようなもんか」
ケグスはそこで言葉を切って、弟子の反応を見るように視線を向けた。
窺い試すような気配。その空気を感じ取った青年が眉を顰めると、男は結論を述べる。
「つまりあれだ。―――― ケランは自国から女皇の夫を出したがってる」
それを聞いてアージェは一瞬息を詰めたが、彼自身それには気付かなかった。



―――― 自分にとってレアがどういう存在であるのか。
それは「レアにとって自分がどういう存在なのか」という問題と、表裏であるように思える。
はじめはただの怪しい少女であった彼女。その彼女が友人となったのは、彼女がアージェを友人と看做したからだ。
まるで並行する線の上を共に歩いていたような数ヶ月間。
微温湯のような時は、彼女の目的が「騎士を探すこと」にあったのだと、彼が気づいた時に終わった。
アージェは、自分が彼女にとって純粋な意味で友人ではなかったことを知ったのだ。
その時から、レアは彼にとって何でもなくなった。
友人でもなく、守るべき主君でもない。
ただ彼の中で彼女が遠慮がちに佇んでいた場所は、今でも空白のままである。
その空白から、アージェは二年間あえて目を逸らし続けていた。



ケレスメンティアと関係が得られれば、新興の王国にとってはこれ以上の後ろ盾はないだろう。
アージェは思考の空白に気付かぬまま、数秒後当然のように頷いた。
「なるほど。で、ニートスがそれに立候補したってわけ?」
「阿呆か。いくら国王の片腕でも平民がなれるようなもんじゃない。王自身を出す気なんだろ」
「王を出してどうすんだよ。後、誰もいなくなるじゃないか」
「だから『針』で何とかするんだろ。女皇を王妃にしちまうか、王を在位させたまま夫にするか、どうせそんなところだ」
「……針を?」
ケグスの指摘にアージェは目を瞠る。
人の精神を操るという魔法具。それを以って、ニートスはケレスメンティアの人間をも操るつもりなのかもしれない。
出来るだけ自国に有益な形式で、女皇との婚姻を成立させる―――― 青年はその発想に眉を顰めた。
「でもそれ、無理がないか? 相手はケレスメンティアだ。針を使ったとばれるかもしれない」
「とは思うがな。あの神の国を単なる伝統だけの国と思ってる奴は結構いるんだ。
 俺も実際そう思ってたしな。二年前までは」
「…………」
二年前、レアリアと顔を合わせた最後の時。
あの一件においてアージェの記憶は一部断絶しているが、彼が異能を暴走させ、その暴走をレアリアが打ち消したのだとはケグスから聞いていた。
彼の前では何も出来ぬ無力な少女であったレアリアは、実際、最古の国の女皇として充分なほどの力を持っていたのだ。
その力がまた、「針」の力を無効化させるかもしれないということは、けれど知らぬ者は知らぬことなのだろう。アージェは大きく息を吐き出す。
「馬鹿馬鹿しい」
「そう言うな。問題は相手が馬鹿かどうかじゃない。『針』を使うか使わないかだ」
「それだったら試しに使って見るだろうな。効けばそれに越したことはないし」
「だろ? 女皇の婚姻絡みってこともあって、ケレスメンティアから来るのも単なる使者じゃないようだしな」
「かなり上の人間ってこと?」
「ああ。前女皇の代はこういう話だとディアドが来たらしいが、今はいないから別の騎士か政務官だろうな」
「…………」
師の口調に含みはなかったが、アージェは何とも言えない気まずさを口内で噛み殺した。
レアリアに影たるディアドがいないのは、彼がその招聘を拒絶したからである。
あの日より彼を訪ねることをしなくなった少女は、己の騎士の不在をどう思っているのか。
―――― 彼はそれに関しての感情を抑え、思考を殺した。

表情を消したアージェは煤けた壁に寄りかかる。
「で、その使者との会見って何処で行われるか分かる? 潜入出来そう?」
「何処かは分かる。ケランが作られる以前からあった城だ。城都の北東にある」
「城都じゃないんだ?」
「コダリスには今回の件を伏せてるらしいからな。城都に呼べば露見しやすくなると思ったんだろ。
 こっちの城都はまだ整備中の場所も多いから、由緒ある城を会見場所にしたいと言えば、向こうに対しても言い訳は立つ」
「……よくそんな情報が手に入ったな」
ケランからすれば極秘にしておきたいであろう情報。
それを聞いてアージェは感心してしまったが、ケグスは皮肉げに笑った。
「新興国なんて色んな人間がいるもんだ。まともな奴から金と好機に飢えてる奴までな。
 だから大抵の国は長持ちしない」
「そんなもんか」
呆れ顔になるアージェに、ケグスは会見場所となる城とその周辺について細々した情報を伝えていく。
それを聞きながら青年は、けれど何処か上の空で、自分の中の空白に立ち尽くしていたのだった。