石鏡 094

男の前にはありとあらゆる情報がもたらされる。
かつて大陸において二百年以上もの間、全てを見通すとして恐れられていた国は、王の慧眼で知られるイクレムであったが、現時点においてもっとも多くの情報に精通しているのは、イクレムの王太子よりも、コダリスの王である彼だった。
食事の終わったテーブル。下げられた皿の代わりに呈された報告を、シャーヒルは満悦の目で耳に入れる。肉汁のついた指を布でぬぐいつつ、跪いた臣下を見やった。
「ケランはそのようなことで儂の目を欺けると思っていたのか。さすが世間知らずの若造どもだな」
同盟相手である新興国が内密理に、ケレスメンティアと接触したようだとの情報。
それを聞いたシャーヒルはしかし、予想していた通りの結果に薄い笑いを浮かべた。
王とその片腕が苦心して作り上げたばかりの王国に「女皇との婚姻」という道筋を臭わせたのはシャーヒル自身である。
だがそれをそのまま鵜呑みにしては、ケランはシャーヒルの手に落ちてしまうのだということは、どのような人間にも分かることであろう。事実、ニートスは押し付けられた未来を回避しようと動き出した。
―――― だがシャーヒルが真実待っていたものは、同盟国と神の国の婚姻ではなく、ケランが「どう動くか」の反応である。
彼らがシャーヒルの顔色を窺って出来るだけその意に応えようとするのか、または彼を出し抜き裏切ろうとするのか。
その反応を見て、シャーヒルはこれからのことを決めるつもりだったのだ。
そして今、ニートスは彼に口実を与えた。
裏切りを糾弾しようと思えば出来る状況を前に、シャーヒルは目を細める。
血の滴る肉を味わうような眼。見る者の心胆を寒からしめる双眸が、脇に控える臣下に向けられた。ケランについての情報を持ってきた男は、無礼と知りながらも僅かに身を竦ませる。
しかしシャーヒルは、それを咎めることなく鷹揚に笑った。
「ケレスメンティアは何と返事をした?」
「どうやら是と。近日中に使者がケランを訪れるようです」
「ほう。それはそれは……」
ディアドを持たない現女皇。変り種で知られる彼女は夫選びにおいてもまたそうで、この数年間ずっと夫を差し出そうとする諸国に色よい返答をしてこなかった。
その彼女が新興の小国に使者を差し向けるとは、ついに夫を迎える気にでもなったのだろうか。
シャーヒルは思案するかのように、腹の上で組んだ十指を動かした。
それきり長く沈黙してしまった主君に、跪いていた臣下はややあって恐る恐る問う。
「いかが致しましょうか。もうあまり日もありませぬが……」
「そうか。そうだな……なら少し様子を見るとするか。ケレスメンティアの考えが知りたい」
「は!」
情報は、そのまま力となり得る。
戦場の蛮勇だけが広く知られているシャーヒルは、けれど情報の強みをよく知る人間の一人であった。
全ての国の宮廷に間諜を送り込んでいるとも囁かれる男。その噂を口にする者は皆、それを誇張された話と思っているようだが、事実もそう大差ない。
臣下の男は主君の命に、頭を垂れその場を退出しようとした。
しかし彼の背に、シャーヒルは今思いついたかのようなあっけらかんとした声をかける。
「ケレスメンティアの態度如何によっては、ケランの王はもう用済みだ。
 片腕の小策士はともかく、勇者と言われるような男は生かしておいても面倒の方が多い。
 ―――― そのことをよく覚えておくがいいぞ」
「かしこまりました」
それは、「必要に応じて暗殺してもいい」との遠回しな許可だ。
臣下の男が部屋を出て行くと、シャーヒルは組んでいた十指を解く。
粗野にも見える容貌に浮かぶ優しげな笑み。だがそこに浮かぶものは、容易く息絶える弱者に向けた憐れみでしかなかったのだ。






ケレスメンティアの使者が訪れるらしい城は、ケランの城都から馬で半日ほど北東に行った土地に建っている。
ケランが興るより九十年ほど前、当時の領主が娘の為に作ったというその城は、街道からも離れた山の中に白く美しい姿を佇ませていた。
立地的にはまったく意味を持たない城はしかし、中からの景観は見事の一言に尽きると評判である。
その為、今回の会談場所として指定されていても、ケレスメンティア側にはもてなしの一種として捉えられるのだろう。コダリスの目をかいくぐろうという本当の目的は、表向きは覆い隠されるに違いない。
アージェは皮肉な気分で遠目から、青空の下に映える城の尖塔を眺めた。乗っている馬の手綱を引き、歩みを緩める。
「あそこか。途中の警備は?」
「金を握らせて入る。一応事前の話はつけてる」
「了解」
淡々とやり取りする二人の傭兵に、ログルは唖然と固まってしまった表情を戻せないようだった。
アージェは振り返って依頼主の男に声をかける。
「じゃあ行くけど。大丈夫?」
「あ、ああ……」
一度はそうして頷いたログルは、けれど城に向かって再び馬が走り始めると、不安げな表情で問うた。
「本当に警備兵に成り代わるなどということが可能なのだろうか?」
「ま、やってみるさ。城都の城に潜入するよりは遥かに手薄だ」
軽く請け負うケグスの口調からは、彼自身この作戦が成功すると思っているのかその反対なのか、窺い知ることは出来ない。
三人は城の裏へと続く山道を黙々と馬で上がっていった。途中の錆びかけた門には精彩に欠けた印象の兵士が一人おり、ケグスはその男に銀貨を数枚握らせる。兵士は表情を変えずに道の先を指差した。
「この先に行ったところに納屋がある。馬はそこに置いていけ。服と剣は中に用意しておいた」
「分かった」
開けられた門を通り過ぎ山道を登っていくと、言われた通り道の脇に小さな納屋があった。
朽ちかけたその納屋の裏に三人は馬を繋ぐ。中に用意されていた服はケランの警備兵が身につけるもので、灰色の高襟には意匠化された鳥と剣が刺繍されていた。黒糸で縁取られた袖口を、アージェは苦い顔で見やる。
「手袋が目立つ」
「目立つに決まってんだろ。何でいつものしてるんだよ。これに変えろ」
ケグスから放り投げられたものは、手首までの白い手袋である。
普段であればこのように短い手袋では左手の異様さが隠しきれないが、今は服の袖が長いので何とかなりそうだった。
アージェは手袋を私物と交換すると、指の動きに不自由ないか確かめる。
そうして問題ないと分かると、彼は改めて顔を上げ着替え終わったログルを眺めた。
「やっぱあんたは似合うな。本物っぽい」
「そうか? 君も違和感ないが」
「窮屈でしょうがない。さっさと終わらせて脱ぎたいよ」
アージェは言いながら用意されていた長剣を佩く。
警備兵は皆、同じ装備を支給される為、この仕事では自分の剣を使うことが出来ない。
だが彼らはそれをあらかじめ承知で来ており、アージェなどは愛剣がどさくさでなくならぬよう宿に置いてきてしまっていた。
―――― もっとも今回、彼の武器は長剣ではなく左手である。
アージェは、着替えても何処か斜に構えたような胡散臭さが消えないケグスに、右手を上げて尋ねた。
「俺、警備兵の動きとかよく分かんないんだけど」
「何とかなるだろ。出来たての国だ。そう行儀がいい奴ばかりが集まってるわけじゃない。
 それよりお前は、顔の方を気をつけろよ」
「顔って。どうすればいいわけ?」
「ケレスメンティア側にはお前の顔を覚えてる奴がいるかもしれん。怪しまれないよう気をつけろ」
「他人の空似で押し通すしかないな」
いささか適当な結論を出して、青年は真っ先に納屋を出た。細い荒れた山道を迷わず登っていく。
その後姿を驚いたように追っていたログルは、けれどケグスに肩を叩かれ我に返ると、慌てて傭兵の青年の後を追っていった。

城の中へは裏手に当たる通用口から入った。
そこにも一応見張りの兵士が立っていたが、事前の話とやらが通っているのだろう。壮年の男は三人を一瞥しただけで何も言わなかった。ケグスは古ぼけた木の扉を押し開けて、狭い廊下を歩き出す。
城内はその広さの割りに人が少ないらしく、巡回している兵士の姿などは見られなかった。
ケグスは後ろをついてくる二人に、出発前も打ち合わせた計画を確認する。
「じゃあ、俺が適当な騒ぎを起こして人を引き付けるから、その間に何とかしろよ。
 標的の周囲が固められたら面倒だから、そうなる前にだ」
「分かった」
「離脱は各自自己責任だ。と言いたいところだが、依頼主の面倒はちゃんと見ろよ」
「ああ」
二人の傭兵のやり取りに、ログルは何か言いたげな顔になったが、口を挟むことはしなかった。
彼らは廊下の分かれ目に来ると、手筈どおり二手に別れる。
アージェは事前に受け取った城の概略地図を思い出しながら、ニートスがいるであろう三階の部屋へと向かった。隣を行くログルが困惑を僅かに残しながらもぽつりと呟く。
「……面倒なことに巻き込んでしまって済まない」
「別にいいよ。仕事だし」
「だが君は」
ログルが何かを言い募ろうとするのを、アージェは手を挙げて遮った。
彼は無言で硝子窓に寄り、城の外、眼下を眺める。
尖塔と壁の隙間からは城の正面にある広場が見え、そこには一台の馬車が止まっていた。出迎えの兵士が並んでいるのが分かり、アージェは思わず眉根を寄せる。横から同じものを確認したログルが囁いた。
「ケレスメンティアの使者が到着したのか」
「そうみたいだな……予定より早い。間に合うか?」
理想を言うならニートスが一人でいるところを狙いたい彼らである。
この城にいるのであろうケラン国王やケレスメンティアの使者と一緒になられては、護衛の数も倍増してしまう。アージェは廊下を行く足を速めた。
もし撹乱が失敗したなら別の手段を考えなければならない。出来ればそうなる前に片をつけたいのだ。彼は白い手袋の下に隠された黒に意識を集中させる。
人の気配の薄い城。何処か埃ぽい印象を受ける廊下。
二人は足早に、ニートスがいるであろう部屋へと向かった。






祖国から女皇の命令を受けてやって来た使者。
彼らのうち、筆頭として任務を課せられているのはある魔法士の男だ。
ロディという名の彼は、城に到着してまもなく控えの間に通され息をついた。一通り揃えられてはいるが、何処か垢抜けなさの漂う調度品たちを見回す。
「さて、お迎えしなければな」
本来、魔法を主とした単独行動を多く負っている彼が、今回使者として選ばれたのには理由がある。
ロディは会談を前にした控えの部屋で、置かれていた椅子やテーブルをおもむろに動かし始めた。部屋の真ん中に空いた場所を作ると詠唱を始める。
そうして組み上げられる構成により、生まれたものは空間の歪である。
彼は水鏡に似た門をその場に開いてしまうと、黙って頭を垂れた。歪みの中から白い手が現れると、その手を恭しく取って支える。
まるで精巧な細工物に似た女の手。
その持ち主である彼女は小さな足で敷物を踏むと、「ご苦労」と透明な声で臣下を労ったのだった。