石鏡 095

城の内部地図は、大して苦労もせず入手することが出来た。
何しろこの城は建てられてから既に九十年も経っている。その間に幾度となく内部情報の流出は起きており、伝手さえあればいくらでもそういった情報は手に入るのだ。
もっともそれは情報屋などと懇意にしている人間に限ってのことで、ログルなどは地図を見せられた時、さすがに目を白黒させていた。彼はアージェの後を歩きながら囁く。
「見張りがほとんどいないな」
「ああ。あんまり多くても『何かある』って外部にばれるからだと思うけど」
「なるほど。だがその分、見知らぬ顔に気付かれやすいのではないか?」
「多分ね。ま、何とかなるだろ」
アージェが肩を竦めると同時に、先の角を曲がって一人の兵士が現れた。
彼らと同じ服装の兵士は、二人に気付いて眉を顰める。
「おい、お前たち」
「はい」
「何故二人でいる? きちんと自分の持ち場につけ」
どうやら偽兵士だとはばれていないらしい。アージェは真面目な顔でもっともらしく頷いた。
「持ち場の引継ぎに向かってるところです。ニートス様は今、何処におられるか分かりますか?」
「まだ元の部屋にいらっしゃるはずだ。この階の東廊下の奥から二番目」
「ありがとう」
相手の兵士ははじめこそ怪しむような視線を向けたものの、堂々と応対する青年に飲まれたのか、本物の同胞にするように標的の居場所を答えた。アージェは礼を言って兵士とすれ違う。
真っ直ぐに伸びた背筋と年齢に見合わぬ落ち着き。アージェの態度は、先程「護衛兵の動きが分からない」とぼやいていた人間のものにはまったく見えなかった。ログルは声を潜めて囁く。
「何とか誤魔化せたか」
「どうだろ」
アージェが前を向いたまま答えた時、背後から兵士が叫んだ。
「待て、お前たち!」
「……何でしょう」
隙のない足捌きで青年は振り返る。
兵士は自分よりも背の高い彼を、じろじろと睨みながら近づいてきた。その右手は腰の剣にかけられている。
「お前、本当に護衛兵か?」
「どうしてそんなことを?」
「宰相殿のことを名前で呼ぶ兵士はいない」
警戒を滲ませる男に、アージェは僅かに首を傾げた。
変わらない表情。だが彼の右腕だけは素早く動く。
半歩踏み込んだアージェに、兵士は息を詰めて凍りついた。みぞおちにめり込んだ拳が引き抜かれると、男は声もなく青年にもたれかかる。そうして崩れ落ちそうになる兵士の体を、アージェは肩の上に担ぎ上げた。彼は、唖然としているログルを振り返る。
「縛り上げて何処か適当な空き部屋に入れとこう」
「君は結構思いきったことをするのだな」
「騒ぎになるよりまし」
平然と返すと、青年は近くにあった物置部屋に気絶した兵士を放り込んだ。すぐには目を覚ますことはないだろうが、念の為布の切れ端で手足と口を縛り上げておく。そうして二人はそれまでよりも足早に、廊下を進み標的のもとへと向かった。
東廊下の奥から二番目の部屋。その扉と前に立つ二人の護衛兵が見えた時、ちょうど何処からか爆発音らしき振動が壁を伝わってくる。
「何だ!?」
兵士たちは不意の揺れに顔色を変え周囲を見回した。困惑と警戒に彩られた顔でお互いを見やる。
アージェはそんな彼らの様子を見るや否や、あたかも異変の現場から駆けつけてきたかのように走り寄った。急きたてる口調で今来た方角を指差す。
「大変だ! 西の塔の方で爆発事故が起きたらしい!」
「本当か!?」
「ああ、救助の人手が要る。すぐに向かってくれ。宰相殿には今から報告する」
畳み掛けるように言って扉に手をかけるアージェを、護衛兵のどちらもが留めなかった。
彼らは混乱しているのか多少心許ない足取りながらも廊下を駆け去っていく。
青年は肩越しにそれを確認すると、無言でログルを手招いた。左手の手袋を取り去り、黒い掌で扉を押す。






はじめに求めていたものは、ちっぽけな平穏であった気がする。
もはや遠い昔の話だ。皆が子供であった頃の話。
彼と彼の仲間たちは、今はもうない国の戦災孤児として、汚れきった路地裏で育った。
盗みによって日々の命を繋いでいた彼ら。寄り添って生きる子供たちが、いつからか抱いていた希望は「誰に奪われることもない」暮らしである。
戦火や大人の力によって、彼らの守るものが奪われないだけの環境。
しかしその希望が形になる前に、現実は彼ら自身を次々奪い去っていった。
ある者は兵士の振るった剣によって切り裂かれ、ある者は流行り病の薬が手に入らぬ為に死んでいった。
中にはそのような現状に絶望して去っていった者もいる。
また彼らの好機を買う為に、自ら豪商に身売りしてその嗜虐趣味の犠牲になった少女もいた。

希望が単なる希望ではなく、より強い憎悪に似たものになっていったのは、いつからだろう。
今のニートスは多くを失い、残る僅かを握り締めたままただひたすらに歩き続けている。
手の中に残るものの中に、本当に大事なものがまだ存在しているのか、彼自身分からない。
ただここで立ち止まってしまっては、失われた者たちに顔向けが出来ないような、そんな気がしているのだ。
だから彼は今でも歩き続けている。
他者を踏みつけ、操り、死に追いやりながら先へと進む。
そうしていつからか奪われる者ではなく奪う者となった彼は―――― けれどもはや己では、妄執を留めることが出来なくなっていたのである。



部屋を震わせる原因不明の揺れ。振動を感じて立ち上がったニートスは、だがその後断りもなく扉が開かれたことに、すぐには気付かなかった。
辺りを見回す彼が闖入者に気付いたのは、背後で微かな足音が聞こえた為である。
反射的に振り返ったニートスは、そこに二人の護衛兵を見つけて顔を顰めた。
「何だ? 今の揺れは何だ」
目の前にいる人間たちを部下と思って疑わない態度はしかし、若い方の男が剣を抜いたことで驚愕へと変わる。
青年は彼に剣を突きつけながら澱みのない声で言った。
「石鏡を出してもらおう。大人しくしていれば命は奪わない」
「……何だと?」
それ以上言葉が続かないニートスは、自分に向けられた剣の向こう、もう一人の男に気付いて息を飲んだ。
波紋のない沼のような静かな瞳。彼を見据えるその男は、見間違えでなければ彼が初めて石鏡を使った相手である。
とうに死んだと思っていた相手が目の前に現れたことで、ニートスは慄きつつも現状を理解した。石鏡をしまった胸元に意識を向けないよう注意しながら口を開く。
「総督の件は残念だった」
「…………」
「だがこんなことをして何になる? お互いに不利益が出るだけだ」
「煩いって。いいから石鏡出せ」
答えない男とは別に、青年の方ははなから交渉する気がないらしい。
ニートスは舌打ちしたい気分になったが、まだ白旗を上げるには早いとも思っていた。
毎日のように死と向き合ってきた子供時代から今に至るまで、培われた太い神経によって彼は青年を見返す。
「何の話だ? そのようなものは知らない」
「知らないわけあるか。出さないなら別にいい。お前を殺して部屋を調べるだけだ」
「待て、人を呼ぶぞ」
青年には隙が見られない。
そしてその後ろにいる男は、この部屋に入ってきてから一度も言葉を発していなかった。
ニートスはじりじりと後ずさる。その距離をぴったりと詰めてくる青年ではなく、もう一人の男へと、彼は視線を向けた。鋭い声で問う。
「死んだのが本当に総督だと思っているのか?」
「―― は?」
反応が得られた、とニートスは思うなり身を翻した。机に手を伸ばし、書類の束を背後へと投げつける。
一瞬の隙があればいい。その為の嘘など今まで千を越えるほど吐いてきた。彼は机を乗り越え、露台に続く窓へと向かう。
宙を舞う白い紙。蹴倒される椅子。数秒間に彼らの思惑は交錯した。
ニートスは窓を押し開けて露台へと逃れ出る。咄嗟に欄干へしがみつき、助けを呼ぼうとした―――― その瞬間、何か紐のようなものに喉を締め上げられる。
「く……ぁっ」
ニートスは首に絡みつく何かを掴もうとしたが、伝わってきたものはまるで蠢くような手触りである。
彼はぎょっとして指を引いた。後ろから青年の冷たい声が降ってくる。
「殺すつもりはない。けど大声出そうとしたらもっと絞めるぞ」
「貴、様……」
「石鏡出せよ。もういい加減気が済んだだろ」
―――― まだ何も叶ってはいない。
そう言いかけ……だがニートスは自分が逃れられないと理解すると、黙って頭を垂れた。



露台から見える景色は、壮観としか言いようがなかった。
一面に広がる美しい森。山の斜面に立っているせいか、露台から地上までは大分距離がある。
突然逃げ出した男を、左手の黒い糸で拘束したアージェは、彼が胸元から石鏡を取り出すと糸を緩めた。首にかけられていた細い鎖を引きちぎり、それを後ろのログルへと示す。
ログルは薄緑色の石鏡を見て嫌な顔をしたが、それは記憶の中のものと一致しているからであろう。アージェに向かって頷き返してきた。
青年は、喉に手を当て喘いでいるニートスを脇に放り出す。黒い糸を消し、代わりに短剣を作り出した。
「壊すよ」
「ああ」
ニートスにも、そして針の女にも付け入る間を与える気はない。
アージェは鋭く尖らせた切っ先を、手の中の石鏡に向ける。そしてそのまま―――― 魔法の紋様の中心に向けて黒い短剣を突き刺した。
氷が割れるに似た澄んだ音。
素早く剣を引き抜いたアージェに、逆流しかけた力が軽い痺れとなって走る。
しかしそれはすぐに掻き消え、手の中では石鏡がぼろぼろと砕け去った。
アージェは粉状になった破片を払い落とす。その様を二人の男は、それぞれの虚脱をもって眺めていた。
左手に手袋を嵌めなおした青年は、立ち尽くしたままのログルを振り返る。
「よし、じゃあ帰るか」
「ああ……」
あまりにも呆気ない幕引きの為か、ログルはまだ夢から覚めやらぬかのように呆然としていた。
アージェは男の肩を叩いてその脇をすり抜ける。部屋の中に戻ると扉を薄く開け廊下の様子を窺った。
まだ見張りの兵士は戻ってきていないらしい。今のうちに逃げ出そうと、彼は扉を押し開く。
「よし、行くぞ」
依頼主へとかけた声。しかしその声に、ログルの声が微かに重なった。
露台の方から聞こえたそれは、何と言ったのかアージェには聞き取れない。
何をしているのかと振り返りかけた時、窓の外から、どん、という重い音が響く。
「何だ?」
眉を寄せたアージェの疑問に答える者はいなかった。そこには本当に誰もいなかったのだ。
彼は無人の露台を見て、何が起きたのかを悟る。
床の上に散らばる書類。その上を跳び越えてアージェは露台に駆け出した。欄干から地上を見下ろす。
「……そんなのありかよ」
捻じ曲がった二つの人型。アージェは想像した通りの結末をそこに見て、深い溜息をついたのだった。