石鏡 096

地に落ちて壊れてしまった人間。
赤い血の飛び散るその姿を、アージェはいつまでも眺めてはいなかった。
何故なら異様な音を聞きつけたのか、見回りの兵士が駆けてきて、死体に驚くと共に彼の乗り出す露台を見上げてきたのだ。
「くそ」
アージェは誰何の声がかかる前に欄干から体を引いた。再度散らかった書類の上を飛び越え、廊下へと出る。
幸いまだ兵士の姿は見えない。彼はそのまま城の通用口から出ようと、元来た道を走り出した。
―――― 混乱する気持ちがないとは言えない。
だがそれは、きわめて小さな欠片であった。
そうなるかもしれないと、彼は何処かで思っていたのかもしれない。ログルの態度が穏やかすぎると感じた時などは特に。
人は、表に現れているもの以上に色々なものを内奥に抱えている。そして時に、そういったものの手で突き動かされることになるのだ。
アージェはその認識以上のことを、今考えるつもりはまったくなかった。長い廊下を全速で走っていく。
「いたぞ! あいつだ!」
正面に現れた二人の護衛兵は、先程ニートスの部屋の前にいた人間たちである。
おそらくは騙されたことに気付いたのだろう。アージェは一瞬迷ったが、剣を抜きながら更に走る速度を速めた。
護衛兵たちはぎょっとした表情になったものの、慌てて自分たちも剣を構える。アージェはそのまま二人の真ん中に飛び込んだ。
最初の一撃は、受ける覚悟でいた。
彼は長剣を横にして、ほぼ同時に切りかかってきた二振りの剣を受け止める。僅かに押されそうになる刃を、手袋を嵌めた左手が支えた。
力が拮抗したのは一秒に満たぬ時間で、すぐに青年は左足を引いて体を斜めにする。
態勢をずらされた護衛兵たちはお互いの体が邪魔となってもたついた。
アージェはその隙に、右側の一人の腿を蹴りつける。
「よっと」
後ろへよろめいた護衛兵をおいて、青年はもう一人へと剣を振るった。
右腕への的確な斬撃。相手は悲鳴をあげ剣を取り落とす。
アージェは素早い切り替えしで残る一人に向き直ると、二合目で兵士の剣を撥ね上げた。よろめく男の足先を剣で貫く。
「ぎゃあっ」
蹲る兵士。アージェはしかし、それ以上の追撃はせず、護衛兵の間を抜けて走り出した。
―――― ニートスの死の責を負わされれば、生きてこの城から出ることはまず不可能になる。
そうなる前に彼は何とかここから離脱せねばならない。アージェは白い石の廊下を脇目も振らず駆けていった。細い階段に到着すると最初の踊り場に向けて床を蹴る。
そうしてアージェが床に膝をついて着地した時、ケグスがまだ何処かで動いているのか、再度壁が爆発で揺れた。青年は思わず目を丸くする。
「まさか城崩れないよな」
さすがにそこまでやってはやりすぎな気がする。アージェは階段の残り半分を飛び降りると、二階部分の回廊から吹き抜けを見下ろした。下の広間に集まっている兵士たちを見て渋面になる。
「やっぱ崩れていいかも」
口々に怒鳴りあい、侵入者を探し出そうとしている彼らは、聞こえてくる内容からして既に城内の全出入り口を封鎖手配しているらしい。このまま通用口に行って逃げられるかどうか、アージェは判断に迷った。
そこに別の兵士が駆け込んでくる。
「大変だ! 宰相殿が賊に―――― 」
「あーあ」
なかなかに逃げ場のない状況。殺気立つ兵士たちを確認し、アージェはその場を離れた。念の為気配を殺して通路の先を確認したが、細い階段の下には既に見張りがいるようである。その人数を五人以上と見積もった青年は、息を殺して引き返した。
「上に戻るか……?」
ちらっとそんな考えがよぎったものの、ちょうどその時、階上から「近くにいるぞ!」という声が聞こえてくる。
先程怪我をさせた護衛兵が発見されでもしたのだろう。アージェは考えるより前に、すぐ脇にある小さな扉を押し開いた。その先は女中などが使う細い廊下になっている。
「……何処かの窓から出て壁沿いにでも下りるか」
この状況では他に脱出経路は残されていなそうだ。彼は窓のない廊下を走りぬけ、突き当たりの扉を蹴り開ける。
そこから先はよく磨かれた廊下が左右に広がっており、美しい彫刻の施された木の扉が等間隔に並んでいた。
アージェはもっとも手近な一つを開けると、部屋の中に滑り込む。



絶体絶命と言えなくもない危機。
しかしその渦中にあっても、アージェの心は何処か落ち着いたままだった。
故郷の村を出てからというものの、面倒事には山のように出くわしてきている。その中には、今より厳しい状況がいくつもあったのだ。
前も切り抜けられたから今回もそうなると思うほど、アージェは愚かではない。
だが彼は、混乱したまま動けば状況は更に悪くなるということを経験によって知っていた。
青年は無人の部屋を奥へ奥へと走りぬける。三つ続きの部屋は、一番奥の広い部屋から露台へと繋がっていた。アージェはログルたちが落ちた露台よりも大分低いそこから眼下を見下ろす。
「まだ高いか」
下に木は見えるが、二階とは言え作りが大きな城だ。無傷で飛び降りるには難しい高さである。
アージェは左右を見回し、数部屋先にあたる右の角部屋に目を留めた。そこの壁にはちょうどよく手がかけられそうな装飾の柱があり、地上にまで届いている。周りを見ても、急いで下りれば角度的に狙撃される心配はなさそうだった。
彼は意を決すると欄干の上に上がり、隣の露台へと飛び移る。慎重さを保ったまま、無人の部屋を横目にどんどん次の露台へと移動していった。
冷たい風が時折彼の首筋を撫でていく。無数の葉々の揺れる音。そのざわめきは、人の喧騒からひどく遠いところで鳴っているようだ。
一方城の周囲、見えない方角からは男たちの怒声が聞こえてくる。大方、ニートス絡みの騒ぎなのだろう。
アージェはそれらを遠くに聞きつつ、ついに城の角に到達した。欄干から下を一瞥するが、まだそこには兵士の姿は見られない。
「やれやれ」
欄干の端から柱までは少し距離がある。危ない賭けをしたくなければ、柱の隣にある窓から移った方がいい。
アージェはそう判断すると、一旦露台側の窓から室内へと入った。足が沈むほどの毛織の敷物を踏んで、目的の窓へと向かう。

歩みは止めない。
立ち止まってしまえば、頭だけが独りでに回り続ける。
そうして余計なことまで考えてしまうのだ。分かるはずもない他人のことや、とうに過ぎ去ってしまった時のこと、更にはもう会うはずもない人間のことなどを。
それらはまるで夜の沼に似て、彼の精神を絡めとろうと常に暗い口を開いている。
彼にしか見えぬ底無しの深み。その闇を嫌う彼はだから、ただひたすらに歩き続けることを自らに課していた。

アージェは大きな窓に歩み寄り、掛け金を外す。開けた窓から乗り出して確認すると、目的の柱は手の届く場所に見えた。彼は窓枠に足をかける。
無人であった部屋。背後の扉が開かれる音がしたのは、そのような時だ。
木の軋む微かな音に、アージェは足を下ろし素早く剣に手をかける。
厚い黒木の扉は向こう側からゆっくりと押されているようだった。隙間から見える小さな白い爪先が、敷物の中に沈み込む。

―――― そして彼は次の一瞬、確かに歩みを止めてしまった。



過ぎ去った時間、もう会うはずのない人間。
彼にとって彼女は、そのような区分に位置する人間だった。
一生を関わらずに終えるであろう相手。そうしたいと思った女が、だが今、目の前に立っている。
視界の中で揺れる金糸の髪。宝石のような青紫の双眸。
石膏に似た白い肌は神秘を帯びて、ただ小さな唇の紅さが、彼女の温度を思い出させた。
二年前からあまり変わらぬ彼女の貌。薄紫を基調とした正装を纏う女は、目を大きく見開いて彼を見つめる。
アージェは剣を抜きかけた手を、そのままそこで止めてしまった。独りでに動く思考が時を逆に回し始める。
彼が知る中でもっとも美しい女は、アージェの見つめる中、唖然とした表情を驚愕に変えた。
「どうして、ここに」
それを問いたかったのはアージェも同様であるが、彼の方がより事情を把握している。
青年は、懐かしさに捕らわれかけた精神をかぶりを振って引き戻すと、剣に手をかけたまま彼女に警告した。
「静かにしていれば何もしない。しばらくそこから動くな」
「ア、アージェ」
「他人の空似」
無理のある言い訳を強い口調で押し出すと、彼は再び窓に向き直る。そこからさっさと出て行こうと桟に足をかけた時、だが女は彼の腕に飛びついてきた。両手でしっかりとアージェの右腕にしがみついてきた彼女に、青年は態勢を崩して共に転びそうになる。
「ちょ……っ」
「ま、待って」
「危ないだろ!」
アージェは何とか足を下ろして転倒を避けると、転がりそうになった女の背を支えて留めた。そうしなければ彼女は、後頭部をしたたか床に打ち付けていたに違いない。彼は冷たい目で女を見やる。
「動くなって言っただろ」
「でもアージェ」
「でもはなし。他の奴だったら殺されてたぞ。もっと用心しろ」
青紫の瞳。幼い少女を思わせる声。それは、彼の意識をゆっくりと過去へ揺さぶっていった。
まるでまだ彼女と友人であるかのような錯覚。その流れに浸かりかけた自分に気付くと、青年は嫌な顔になる。
彼は女の背を支えていた手を放すと、少しだけ力を込めて彼女の肩を突いた。
よろめいた女が小さな悲鳴をあげ尻餅をつくと、その間にアージェは窓の外へと身を乗り出す。
―――― 余計なことをする気はない。
何を言う気も、何かを修復しようとする気もとうにないのだ。
アージェは体の動きとは別に回り続ける思考を無視して、外の柱へと手を伸ばした。
だがそうして窓から出て行く前に、部屋の中に誰かが駆け込んでくる。
「陛下! ご無事で!?」
「ロディ」
彼女の護衛であろう人物の声。それを背後に聞きつつ、アージェは僅かに逡巡する。
―――― もし相手が剣士であるなら、このまま逃げてしまった方がいい。
だが相手が魔法士であったなら……
前者であればいいと思いつつ、彼は肩越しに室内を振り返ろうとする。
しかしその時アージェの耳に聞こえてきたのは、敵意に満ちた男の、魔法詠唱の声だった。