石鏡 097

魔法士を相手取る時は、先手を打つことが第一だ。詠唱が終わってしまえば、こちらの不利が確定してしまう。
そう判断したアージェは体を返すと、魔法士の男に向かって床を蹴った。詠唱の声に重なって、悲鳴に似た女の制止が響く。
「やめなさい!」
レアリアの声は開け放ったままの窓を越えて外にまで届いたが、アージェはそこまで構ってはいられなかった。
彼は隠し持っていた投擲用の短剣を、魔法士の男に向かって放つ。
相手の男はそれを咄嗟に無詠唱の障壁で弾いた。だがその分、詠唱の集中に支障が出たらしく表情に焦りが浮かぶ。
アージェはその隙を見逃さず、男に飛びかかろうとした―――― ところで何故か、激しく横転して長椅子の縁に頭をぶつける羽目になった。
派手な転倒音。足を動かせない彼は、ずきずきと痛む側頭部を押さえる。
「っつ……何すんだよ、レア!」
「や、やめてって言ったのに」
「向こうを止めろ、向こうを」
臣下を組み伏せようとした青年に横からしがみついた彼女は、アージェの両膝を抱き締めたまま顔を上げた。情けない態勢ながら、青紫の瞳に冷たい光が走る。
「やめなさい、ロディ」
「へ、陛下……その男は一体」
「本当にいてぇ……」
まったく予想できずに変な転び方をした為、受身が充分に取れなかった。
頭を抱えるアージェに、レアリアはようやく腕を放すと心配そうな目を向ける。
「あ、あの、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃない。この仕事受けてから今までで一番痛い」
「そんなつもりじゃなくって……ただちょっと待って欲しくて……」
しどろもどろの言い訳を始める女を、アージェは足に頬杖をついて見やった。
穏やかな空気。遠く隔たれていた距離と時間が、不思議と無意味なものに思えてくる。
つい気が抜けてしまった彼は、自然と溜息を零して苦笑した。
「―――― 相変わらずだな」
そっけない再会の言葉。
だがそれを聞いたレアリアは心底嬉しそうな笑顔になると、顔を赤らめ大きく頷いたのである。



ケレスメンティアの女皇たる彼女が何故この城にいるのか、アージェはその事情を分かっている。
分かっているのだが、それはあくまで一方的な情報でしかなかった。
彼がここに来た経緯を聞きたそうなレアリアに、青年は立ち上がって手を振る。
「仕事で来たけど依頼主が死んだ。から、撤収中」
「依頼主って? ケランの人間?」
「違う。どうせ後で分かるだろ」
説明をそこで投げて、アージェは開けたままの窓へ向かった。
旧知の人間に会ったせいで時間を食ってしまったが、いい加減、城外へ逃げなければ不味い。
窓枠に手をかけて外の様子を窺っていると、レアリアが慌てて隣へと駆け寄ってきた。
「も、もう行っちゃうの?」
「俺が捕まって処刑されるとこでも見たいのか?」
目を丸くした後、首をぶんぶんと横に振るレアリアに、アージェは「よし」と頷く。彼は小さな頭を撫で、窓から出て行こうとした。
レアリアはそれを手で留めるようなことはしなかったが、代わりに複雑そうな目でじっと見てくる。
「アージェ。あ、あの、もしあなたがね……」
「俺は、騎士にはならないって言ったはずだ」
先を読んでそう返すと、レアリアはしゅんとした顔になる。
アージェは更に念を押そうとして―――― だが、近づいてくる騒々しい気配に気付くと扉の方を振り返った。
戸惑いを隠せないらしい魔法士の背後、開けられたままの戸口から男の声が聞こえてくる。
レアリアの無事を問うその声は、朗々とした威が備わっていた。すぐに声の主が、扉をくぐって姿を現す。
「レアリア殿、賊は」
そこまで言ってアージェを視界に収めた男は、均整の取れた長身に精悍な顔立ちを持った剣士だった。既に抜かれている剣が鈍く光を反射している。
男は、護衛兵の格好をしたアージェをまじまじと眺めると、理解を得たのか怒りに眉を顰めた。
「貴様が私の友を殺したのか」
「とりあえず、あんたは誰だよ」
「ケランの王よ」
「―――― ああ」
それならば言われたことの意味も分かる。男はニートスの死を知って、その犯人を罰しようとしているのだ。
アージェは内心「面倒なことになった」と頭を掻きながら、隣のレアリアを男の方へと押しやった。
「ほら、あっち行ってろ。この男と結婚するんだろ?」
「え、あ、ま、待って」
「ほらほら。危ない。今度は突っ込んでくるなよ」
「ち、ちが……結婚なんて私やっぱり」
何とか青年にしがみつこうとするレアリアと、彼女を遠ざけようとするアージェ。
揉み合う二人は当人たちからすると、必死ではあるが深刻ではない。
だが当然ながら周囲の人間はそうは取らなかった。ケラン国王マティウスは険しい表情で剣の切っ先をアージェに向ける。
「人質を放せ。彼女に傷をつければ罪が増すだけだ」
「ほら、そういうこと言われちゃうから向こう行ってろっての」
「や、やだ」
アージェの前でばたばたと暴れる女は、けれど状況からいって自分が離れれば彼の命が危うくなると踏んだのだろう。
青年に背を向けマティウスに向き直ると、アージェを庇うように両腕を広げた。
「彼のことについてはこちらの問題です。介入はご遠慮頂きたい」
「何? その男はこの城に侵入した賊なのですよ」
「いいえ、彼は私の―――― 」
「余計なこと言うな」
背後からアージェがレアリアの口を押さえると、女皇はもがもがと暴れる。
万が一「騎士」などと言われたりしたら面倒この上ないと思ったからなのだが、その行動はどの道マティウスを殺気だたせることとなった。戦場の勇猛さで知られる男は、黒い目を細めて一歩前へ出てくる。
「何が狙いだ? 何処かの国の手の者か? 徒に新たな戦を起こそうというのか」
「どこの国の人間でもない。俺は単なる傭兵だ」
「なるほど。生きる為に争いを必要とする人種か。
 人の死に鈍感でなければならないということは憐れなものだが……今は許しがたい」
「何だと?」
新興国の王であるマティウスは、格上の国であるケレスメンティアの前ということもあり、私情を抑えようとしているようだった。
だがそれでも長年共にいて同じ目的の為に歩んできた友人を、不意に奪われたという怒りは消せないのだろう。燃えるような目でアージェを睨む。
しかし男の発言は、アージェの気分をもまた逆撫でした。
青年は目の前のレアリアを問答無用に押しのけると、腰の剣に手をかける。
「自分たちのことを棚上げにして、分かったような口をきくな」
「私はお前のような者たちとは違う。戦のない安寧の国を作ろうとしてきたのだ。
 そしてこれからのケランには、剣を振るうことしか出来ぬ私よりも、よっぽど友の方が必要だった。
 それをお前は……」
「その友が何をしてたか、お前は知らないのかよ」
吐き捨てた言葉。
それは、人の心に踏み込まないことを常としている普段のアージェであれば、口にはしなかったものであろう。
しかし今の彼は、向かい立つ王にちりちりとした反感を覚えている。
奇麗事や大義だけで渡っていけるほど、この世の中は優しくない。それは彼ら二人ともが知っていることだ。
だがその中にあって理想を堂々と述べる相手に、そうでない者はまるで何も分かっていないのだというような態度を取られることは我慢ならなかった。アージェはカタリナの嘆きを思い出す。

過去の記憶。
終わらない戦乱。
膨れ上がる激情に突き上げられ、アージェは罵言をぶちまけそうになった。
―――― けれどその時、彼はレアリアの視線に気付く。
かつて友人として隣にいた女は、今は人形のようにひどく空虚な、それでいて哀しそうな目で彼を見ていた。
アージェは息を飲み、口を噤む。波が引くように冷静さが戻ってきた。彼は改めて目前の王に向き直る。
「……一応言っとくけど、俺が宰相を殺したわけじゃない。自業自得だ」
「何?」
「俺は『針』を壊しに来たんだよ。あの男は針を使って人心を操り、邪魔だと思う奴を殺してた。
 ケランの敵になりそうな人間を精神操作して殺させてたんだ。だから生き残りに復讐されたんだよ」
そして男はその罪を、誰にも知らせず一人で負っていたのだろう。
アージェは何の感情も込めずにマティウスを見つめる。
絶望ばかりが行き交う戦場において、人々の希望となってきたのであろう男。その男は険しい表情の上に「解せない」という疑念を乗せていた。アージェに向かって問い返す。
「針とはなんだ」
「あんたも知らないのか。針だよ針。神代から残る魔法具」
「魔法具?」
マティウスはそれを聞いても怪訝な顔をしたままである。
一方レアリアはそれが何だか分かったようだが、アージェは目で彼女の発言を抑えた。これ以上彼を庇おうとすれば、女皇としての立場がなくなるだろうと思ったのだ。



城の角部屋には、いつの間にか十人を越える人数が集まっている。
その人数は更に増えこそすれ、もう減ることはないだろう。窓から逃げることもきっと出来ない。
アージェは事態の面倒くささに頭の後ろを掻いた。
「針ってだから、あー…………もういいか」
どうしてこのようなことになってしまったのか。考えるのも馬鹿馬鹿しい。
アージェは今のこの状況を非常事態と割り切ると、左手の手袋を取り去った。レアリアが横で目を瞠る。
青年は戦意をきらめかせる王に向かって黒い左手を差し伸べると、言い放った。
「教えてやるよ―――― ダニエ・カーラの針だ」
神代にいた女。
神に選ばれ、棘を撒いた彼女。
その忌まわしい名を口にした時、アージェの中で激しい哄笑が沸き起こった。
歓喜に満ちた女の艶やかな笑い声。何処から響いているのか分からぬそれを聞いたマティウスは、ぎょっとして辺りを見回す。アージェは右耳を押さえてぼやいた。
「あーうるせ。だからやだったんだよ」
『ちゃんと出して、カルド』
「はいよ。あと名前違うからな」
アージェは差し伸べたままの黒い左手を、一度握って開く。
その途端、掌から黒い靄が立ち昇り、宙へ染み出し始めた。靄は彼の手の上に集まり、おぼろげな塊となっていく。
その塊の中から、女の声が部屋中に反響した。
『カルド、さっき針を壊したんでしょう? 近くに力の残滓があるわ。取り込んでいい?』
「駄目。ここから逃げたいだけだ。余計なことはするな」
『だって私に力があった方があなたも』
女の声は、そこでぶつりと途切れた。
一体どうしてしまったのか、心当たりのないアージェは眉を寄せる。
他の人間たちも、そもそもおかしな靄から声がすることに唖然としているようで、何が何だか分からないらしい。
ただその中にあってレアリアだけが、鋭い敵意の目で靄を見据えていた。ダニエ・カーラの嘲笑が響く。
『あら? クレメンシェトラ、どうかしたのかしら』
「まだ彼に居座っていたのね、お前。―――― 目障りよ」
『目障りは、こちらの台詞』
黒い靄はゆるりと形を変え、細いしなやかな蛇になる。宙を泳ぐ漆黒の蛇は、レアリアに向かってその頭をもたげた。威嚇で開かれた口の中から、黒い舌がちろちろと覗く。
『殺してあげるわ、クレメンシェトラ』
「お前を、消してやるから」
「おーい」
何だかよく分からない方向へ転がり始めた事態に、アージェは軽い疲労感を味わう。
彼は一歩下がって開かれたままの窓枠に背を預けると、まだ驚きから抜け出せない男たちと殺気立っている女を見回した。盛大に溜息をつきたい衝動に駆られ、心からの感想を呟く。
「今回ついてない……」

しかし事態はまだ、解決しそうにない。