石鏡 098

思わぬ事態から逃走を妨げられ、更におかしな揉め事へと発展している現状。
アージェは本音を言うなら、何もかも投げ出して知らぬ振りをしてしまいたかった。
しかし、捨てきれない義務感に彼は投げやりな気持ちを飲み込む。
青年は空中を優美にくねる蛇に向かって、掣肘の言葉を浴びせた。
「やめろ。さっさと来いって」
「逃がさないから!」
『お黙り、小娘。カルドは黙ってて!』
「……お前ら。大体カルドって誰だっての」
とりあえず、女二人に人の話を聞く気がないということは分かった。
幸いなのは、ケランの人間たちも意味の分からぬ事態に困惑したままだということだろう。アージェは彼らとの距離を計り、逃走経路を再度考え始める。その時、レアリアの護衛である魔法士の男が、そっと彼の傍に近づいてきた。男は声を顰めてアージェに囁く。
「カルドとは、おそらくカルディアスのことだ。神に選ばれた人間のうちの一人、女皇の騎士であった男。
 ―――― 君の遠い祖だ」
「ああ、そういうことか」
死者の残滓であるダニエ・カーラには、基本的に成長という概念がない。
その為、彼女にとってアージェは、おそらく同じ異能を持つがゆえに先祖の男と同一人物に見えているのだろう。
同じ理由で「クレメンシェトラ」と呼ばれているに違いないレアリアを、アージェは一瞬同情の目で見ようとしたが、彼女が自分から受けて立つ気を漲らせていることは明らかである。
苦い顔を隠せない青年に、ロディは早い口調で続けた。
「君があの『ディアド候補』なんだな?」
「あの、って。まぁそうかも」
「だが今のこの状況は不味い」
「見りゃ分かるよ」
そもそもあんたが現れなければよかったのに、とアージェは思ったが、口には出さない。
ロディもロディで対応に困っているのだろう。魔法士の男は更に声を潜めた。
「何とか君をこの場から逃がす。でないとこのままでは」
「俺が処刑されそうだね」
「違う。陛下にとってはケランよりも君の方が重い。―――― このままではケランは滅ぶぞ」
「…………そんな馬鹿な」
一瞬虚を突かれたアージェは、けれどすぐ我に返ると男の言葉を否定する。
レアリアは、確かに短気なところもあるが、決して愚かな人間ではない。いくら彼が特別な異能者とは言え、そこまでのことをするとは到底思えないのだ。
だがロディの表情を見ると、彼は本当にこの状況を問題視しているようだった。
どう考えても問題の第一原因であるアージェは、眉を潜めて剣を抜く。そしてそのまま唐突に、ロディの脇へと一歩踏み込んだ。
剣同士がぶつかる金属音。その反響は、少なくとも室内の空気を一変させる。
アージェはマティウスの剣を受け流しながら吐き捨てた。
「戦いたいなら女を下がらせろよ。邪魔だ」
「黙れ!」
続いて打ち込まれる二撃目。
勇者とも言われる男の剣筋は確かに鋭く、重いものだった。
まともに受けてしまえば手が痺れそうなそれを、しかしアージェは自らの剣で脇に逸らしていく。
防戦一方ではあるが、王相手に怯むところを見せない青年に、周囲の他の人間は驚きの目を向けた。
アージェは意識を正面の男から逸らさぬまま、蛇の形を取った女を呼ぶ。
「ダニエ・カーラ! 戻って来い!」
『カルド』
叩きつけるような斬撃を受けながら、アージェは宙に向かって左手を差し伸べる。
その手の上に戻ってきた蛇は、マティウスを振り返り、喉を鳴らして嗤った。
思わずぎょっとする王に向けて、アージェは傍にあった椅子を蹴りつける。
大きく飛び退いた男。その間に蛇は、口をぱっくりと開けて黒い霧を吐き出した。
霧はみるみるうちに部屋の中に広がり、室内にいた人間にまとわりついていく。
その筆頭であったマティウスは、咄嗟に鼻と口を手で覆ったが、素早い判断にもかかわらず霧は既に彼の体を蝕み始めているようだった。王の顔色はみるみるうちに蒼ざめ、剣を握る手が震え出す。
アージェはその様子を確認しながら、平然とした様子で息をついた。
「濃すぎる瘴気ってのはさ、人間には毒なんだって。―――― 俺は自分に届かないように出来るけどさ」
顔を押さえて俯くマティウスは、もう剣を振るうことは出来なそうである。
アージェは自身も剣を下ろすと王から距離を取った。どうやら結界を張って瘴気を防いでいるらしきロディと、どのような力を使っているのか黒い霧を寄せ付けていないレアリアを見やる。
青年は主に彼ら二人に向かって、肩を竦めてみせた。
「じゃ、予定より手間取ったけど俺はこれで」
「アージェ、待って……!」
留めようとするレアリアの言葉を、彼はもう聞かない。
アージェは開けられたままの窓に駆け寄ると、窓枠の上に飛び乗った。彼の左手に黒い蛇が巻きつく。
『ねぇ、私を愛してる?』
「ちゃんと着地出来たら考えなくもない」
くすくすと笑う女の声。青年は躊躇いもなしに窓の外へ身を躍らせた。
地面へと落ちていく嫌な浮遊感。しかしそれを、黒い蛇の吐き出す霧が緩和する。
まるで水の中へと潜っていくように、落下する体は受け止められた。
アージェは、灰色の砂の上に膝をついて着地すると、飛び出してきた窓を見上げる。そこにはレアリアが、焦燥と苛立ちの濃い表情を浮かべ、身を乗り出していた。
「アージェ!」
自身の名前を呼ぶ声。青年は彼女に黙るよう口に指を当て示す。
返ってきたものは縋るような女の目だ。しかし彼はかぶりを振るとその場から走り出す。
―――― 騒ぎを聞きつけた兵士が集まってくる前に、城の傍から離れなければならない。
彼は茂みの中に踏み込むと、そのまま裏道の方へと姿を消した。



誰の姿もなくなった地上。上階から食い入るように眼下を見つめていたレアリアは、青年の姿が見えなくなると、爪が食い込むほどに窓枠を掴んだ。
彼女はしばらくそうして痛みを堪えるかのように沈黙していたが―――― やがて人が変わったかのように冷ややかな目で顔を上げる。レアリアは未だ混乱覚めやらぬ室内を振り返った。
「ロディ」
「は!」
「私は帰るわ。後のことはお前に一任する」
「かしこまりました」
再び開かれる転移門。
堂々たる威風をもって、ケレスメンティアの女皇は裾を引く。その様子に気付いたマティウスは彼女に何かを言おうとしたが、レアリアは彼を一顧だにしなかった。女皇は小さな爪先を転移門の向こうへと踏み出させる。
「……アージェ」
彼女の呟きは誰の耳にも届かない。
そしてレアリアは神の国を継ぐ者として、自身の冷たい席へと戻っていくのだ。






「―――― って感じでもうグダグダだった」
「おかしな依頼受けてくるからだろ。ばーか」
ケラン城都から東に離れた小さな宿場町。いくつもある酒場のうちの一軒で、アージェは師と向かい合っていた。
店の片隅のテーブル。使い込まれた盃には赤い酒が注がれている。
普段酒を飲まない彼が珍しく盃を手に取っているのは、そうしたい気分だからとしか言いようがない。アージェは喉が焼けるほど強い酒を嚥下すると、軽く息を吐いた。
「まぁいいさ。別に問題ない」
「金についてはそうだろうけどな。律儀な奴だった」
彼らの依頼主であるログルは既に死亡しているが、依頼料は充分すぎるほど支払われている。
それは彼らが問題の城から離脱後、しばらくして傭兵の仲介所に届けられたもので、ログルの遺産とも言える金だった。
どうやら彼は一度街に戻った後、知人に向けて事情を説明する書簡を出していたらしい。それを読んだ知人がアージェ宛に彼の財産を送るよう手配してきた。その手配がログルの死後、ようやく終わってアージェに届けられたのだ。

「結局あの人は、最初から死ぬ気だったんだな」
軽く酔いが回ってきたせいか、アージェは思っていたことをぽつりと呟く。
それを聞いたケグスは「そうだろうな」と気のない様子で返した。おそらく彼にはその程度のことはお見通しだったのだろう。
自身の未熟さを様々な点で思い知ることとなったアージェは、空になった盃を指で弾く。
「誰がどう生きてもいいんだけどさ。何か、釈然としないな」
「それよりお前は自分の心配しろ。あの女に会ったんだろ?」
「……ああ」
思いもかけぬ再会は、彼女の傍にいる時は、ひどく自然なものに感じられた。
だがこうして離れた場所から思い返すと、やはりそこには白々しさを覚える。
彼女を目の前にしている時には忘れてしまう苛立ちを、アージェは一歩距離を置く時、無視できぬ破片として思い出すのだ。
―――― そのような定まらない自分にもまた、彼は腹立たしさを覚える。
アージェは苦い顔でいびつな酒瓶を傾けた。
「許せないってほどじゃないけどさ。やっぱり『もういい』って思ってるんだ。
 でもレアを見るとそれを忘れかける。……いや、忘れるのか。あいつ危なっかしいから」
「そういうもんだろ。人は自分の都合のいい方に寄りたくなるもんだ」
「都合いいのかな」
弟子の素朴な疑問にケグスは興味のなさそうな目を向ける。男は骨付きの肉で空中に円を描いた。
「そりゃ二年経ってても必要とされてるってのは都合いい話だろ。お前だってそれを分かってるはずだ」
「うん」
レアリアは二年前のあの日、いつまでも彼を待っていると言っていた。そしてそれは嘘ではなかったのだ。
まるで馬鹿げた、夢のような話。アージェは赤い酒越しに盃の底を見つめる。
「でも俺は、それを望んでないんだ」
「ならもうあの女に会うなよ。いつかほだされるぞ」
事実を甘くない言葉で呈する師に、アージェは黙って頷いた。
彼は目を閉じると、盃を手に取りそっと額へ押し頂く。
それは、過ぎ去った時へ向けるものなのかもしれない。死んでしまった男への手向けでもあるだろう。
もはや変わることのない時間と結末。青年はそれらに尊重の意を込めて盃を掲ぐ。
そしてだが、彼は「今」へと向きなおすと、澱みない手つきで赤い酒を飲み干したのだ。