記されぬ時 099

「カルド!」
男を呼ぶ声。それはまるで現実のように、はっきりと聞こえた。
アージェの意識は女の声によって引き起こされる。
長い廊下。彼はそこを歩いている。夢の中だとすぐに分かった。ダニエ・カーラが起きた後は、いつもこんな夢を見る。
「カルド!」
先程の声が聞こえなかったのだろうか。女は更に声を張り上げ、先を行く男を呼んだ。
剣を腰に佩いた長身の男。彼はようやく立ち止まり、彼女を振り返る。
緑の目をした、愛想のない顔立ちの男。
顔の肌は褐色ではない。ただ彼の右腕は、指先から肩口にいたるまで漆黒に染まっていた。その先は服で隠れ、どうなっているか見えない。
ついに駆け出した女は、彼に向かって手を伸ばした。黒い右腕に己の腕を絡め、男を真っ直ぐに見上げる。
「ねぇ、私と一緒にここを出ましょう? 今ならクレメンシェトラにも気付かれない」
「その気はない、ダニエ・カーラ。行きたいのならばお前一人で行け」
「カルド!」
「お前はその奔放さを神に愛されている。心配するな。誰も咎めはしない」
女を突き放すような言葉は、しかしその最後だけは僅かな温かみが感じられた。
苦笑にも見える男の表情に、ダニエ・カーラは思わず腕の力を緩める。
その隙に彼は右腕を抜き取り、踵を返した。廊下を去っていく男に向かって彼女は叫ぶ。
「カルド!」
男はもう振り返らない。
それを知っている彼女は、無言のまま嘆く。
―――― 全てを女の中で見ていたアージェは、そっと溜息をついた。






窓の外から差し込む光は、既に日が高いことを示している。
アージェは寝起きの体を起こすと、くしゃくしゃになった髪を手で押さえた。
「変な夢見せるなよ、まったく……」
女性視点で男を追う夢など、見てもまったく嬉しくないどころか軽く気持ち悪い。
アージェは足の上に頬杖をついてぼやいたが、肝心の女はそろそろ深い眠りに入っているようだった。おそらくは再び鍵となる名前が呼ばれなければ、ずっとそのままでいることだろう。
青年は気だるさが残る意識を、かぶりを振って覚醒させる。顔を洗いに行こうと寝台から立ち上がると、くたびれた木の床が高い音を立てた。彼は昨日到着したばかりの町並みを、曇った窓硝子越しに眺める。
木造の家が目立つ小さな町。石造りの建物が少ないのは、元は彼らが遊牧民であった為だろう。
ケランでの面倒な仕事から一週間、セーロン国の片隅にある町に足を踏み入れたアージェは、苦い顔で前髪をかき上げる。
「やっぱあんまり気が進まないんだけどな……」
以前何度か依頼を受けた相手から「是非に」と紹介された仕事。その仕事の説明を受ける為にこの国を訪れた彼は、しかし二年前のことを思い出し眉を顰めた。
イクレムの城にて出会ったセーロンの庶子王子。まさか傭兵の仕事においてそのような人物に出くわすことはないだろうが、万が一自分のことを覚えられていたら嫌だな、と思う。アージェはしかし、不毛な仮定をそこで打ち切ると部屋を出て洗い場に向かった。

問題の依頼が自分に回ってきた理由は、単なる巡り合わせなのだろうと、彼は思っている。
ただ旧知の雇い主の元に、「傭兵を探している」という相談がもたらされた。そして紹介されたのがアージェというだけのことだ。
普段はそのような紹介を受けることはあまりないが、今はケランから早急に離れようという考えもあった。
大きな街道を避けてセーロンに入った彼は、今日の昼この町で、今回の依頼主と初めて会うことになっている。
何百回も迎えた一人の朝。
身支度を整えたアージェは、荷物を整理しながら約束の時間と場所をもう一度確認した。小さな紙に走り書きされているそれは、彼自身の字でわざと他の人間には読めないよう崩して書かれている。
「……あと三時間くらいあるな。町の中をざっと確認してくるか」
初めて訪れる町というものは、どうも道や様子が分からずに落ち着かない。
アージェはその落ち着かなさを払拭する為にも、まず約束まで外を見て回ることに決めた。最低限必要なものだけを持つと、宿の部屋を出て行く。

セーロンは、国土の半分以上が草原、残りは荒地と高山で構成される国だ。
元は遊牧民であった彼らは、かつては国を持たず、民の大半が季節によって居住地を変える暮らしを送っていた。
そのような生活が可能であったのも、幼い頃から狩りに親しむ彼らのほとんどが、騎馬兵として優れた資質を持っていた為である。特に若い男たちは精鋭の騎馬集団として北にあった大国テアレスに雇われることで、一族への庇護を得ていた。
しかしその平穏は百二十年ほど前、テアレスが内乱で滅ぶと同時に終わる。
理解ある庇護者を失った彼らは、十数年もの間、他国に荒野へと追いやられ、苦境を味わうこととなった。
女子供や家畜の多くを、厳しい環境で失ったその期間は、彼らにとっては存亡の瀬戸際であったろう。
けれどその状況を憂いた複数の部族が集まり、その中から王を立てることによって、セーロンは一国として成り、戦いのすえ元の草原を取り戻すことに成功したのだ。
今ではセーロンは城都を持ち、他にも町を作って定住する者も多い。
だがそれでも一部には遊牧を続けている一族もいるという。
アージェは実際に遊牧をしている民を目にしたことはないが、時々仕事でセーロン出身の傭兵と一緒になる時、いつも彼らの弓術の巧みさには驚かされていた。
その上で、国内にも腕の立つ者は多いというのに、わざわざ流れの傭兵を呼び寄せたということに、いささかの不穏をも感じている。
彼は詳しいことをまだ聞いていない依頼に、気の進まなさを募らせながら町を散策し始めた。
突き刺さるような日差し。
強い日光を、建ち並ぶ家や店は、軒先に張った布で遮っているようである。
色とりどりの布は実に鮮やかで、何でもない日だというのにアージェに祝祭を連想させた。
青年は木の柱が組み合わされている軒先を見上げる。まるで格子のようにそれぞれの柱を削って組んであるそれは、紅い薄布越しに美しい影を地面に落としこんでいた。そこかしこに人の手の温かさを感じる町並み。彼はふと故郷の村を思い出す。
「布でも送るか……?」
手織りらしきそれらの布は、故郷ではまったく見なかった鮮やかな色合いと美しい模様を持っている。
これらの布と染糸をあわせて送れば女たちは喜ぶだろう。クラリベルは裁縫があまり得意ではないが、簡単なものなら自分で作ることが出来たはずだ。
アージェは散策の目的に買い物も加えると、人通りの多い道を選んで歩いていった。
小さな町ではあるが、道には布を被った女たちや行商人が行き交い、賑やかな様相を呈している。
彼はその中を縫うように歩きながら、一つ一つの露店を確認していった。初めて見る生活用品などに気を取られつつ、青年は道なりに角を曲がる。

その時ふっと、風と共に甘い香りが漂ってきた。
花のような砂糖菓子のような甘さ。そのどちらともつかぬ不思議な香りの主は、しかしすぐにアージェの目の前に現れた。
突然進路を塞ぐように彼の前に立ちふさがった少女。青年は彼女の金色の瞳を、目を丸くして見下ろす。
「……何? 何か用?」
「ふぅん? あんたがそうなんだ?」
「だから何」
突然の意味の分からぬ言葉に、アージェはかつて何処かで会ったことがあるのだろうかと少女を見直した。
明るい茶色の髪はくるくると螺旋を描きながら腰下にまで伸びている。
年の割りに艶かしさを感じさせる美しい顔立ち。それは彼が知る限り、レアリアくらいしか並び得ないであろう整った造作だった。そして何よりも他に見たことがない瞳の色に、アージェは彼女を「初対面だ」と断ずる。
「何の用? 言いたいことがあるなら聞くけど」
「あんたを見に来たのよ。―――― へぇ……随分強いじゃない。
 個人としては未熟だけど、異能の潜在能力が抜きん出てる」
「は?」
突拍子もない言葉。
彼はその言に意表を突かれながら、けれど反射的に身構えた。左手の手袋を抜き去るべきか迷う。
しかし少女は彼の反応をけらけらと笑ったに過ぎなかった。金色の瞳が、忌まわしくも妖しく細められる。
「用心しなくても何もしないわよ? 見に来ただけだし。
 ああ、でもあんた……二人分なのね。そっか。だから強いのか」
「二人分?」
「欲深いことするじゃない。でも、この今にそんなあんたが居合わせてるって、面白いのかもね」
「面白いって何が」
―――― 何を言われているのかさっぱり分からない。
アージェは少女に説明を求めかけ、だがふと心当たりに気付いた。顔を斜めにして少女を睨む。
「まさかケレスメンティアの人間か?」
彼の異能を知る人間はそう多くない。そして、その異能について何かを知っているだろう人間はもっと少ないのだ。
だがそれも、もともと女皇の騎士として同じ異能者を擁しているケレスメンティアなら、可能性は高い。
先日のケランでの一件において、彼らに顔を見せてしまったということもあり、アージェはこの少女もケレスメンティアから来たのだろうと結論づけかけていた。
しかしその結論を、少女は一笑に付す。
「まっさかー。違うわよ。だって私、この大陸の人間じゃないし?」
「え?」
「それよりあんた、今から覚悟しといた方がいいわよ?」
「覚悟って何を」
現実の道、現実の日差しの下に立っているというのに、何故か今朝見た夢の続きにいるような気がする。
アージェは矢継ぎ早に繰り出される少女の言葉に、最初から最後まで翻弄されそうになっていた。彼女のことを「おかしな人間だ」と切り捨てたい一方、「話の続きを確かめたい」という衝動に駆られる。
答を待つ青年に、彼女は艶やかに笑った。
「下手したら―――― もうすぐ神代の清算が為されるかもしれないわ。あんたはおそらくその鍵を握ってる」
「神代の……清算?」
突飛な単語にアージェは失笑しかけて、だが嫌な予感に口元を歪めた。
何故嫌な予感を覚えたのかは分からない。ただ左手が独りでにざわついた気がしたのだ。
彼はその左手ではなく右手を少女へと伸ばす。彼女の肩を掴んできちんとしたところを問おうとした―――― その時、少女はにっこりと微笑んだかと思うと、その場から掻き消えた。
アージェは誰の姿もなくなった目前を、絶句して見下ろす。
「何なんだよ……」
得体の知れない少女。
白昼夢のような出来事に青年は薄気味の悪さを覚えると、脳裏にちらつく金色の目を感じながら辺りを見回した。
だがその何処にも少女の姿はなく―――― アージェは浮かない表情のまま、その場を離れたのである。