記されぬ時 103

四つの部屋にあった壁画に差異があるのか、アージェは初めの時そこまでは見ていなかったが、ユーレンの方はきちんと覚書きを残していたらしい。彼は三番目の部屋に来ると「ここだけ違うんですよ」と奥の壁を指した。
言われてアージェとリィアは壁画をまじまじと眺め渡す。先にアージェがそれに気付いた。
「弓が違う」
ディテル神の前にひざまずく男。その男の携える弓が他の壁画とは少し異なっている。
残り三枚の壁画では短弓であったものが、この壁画ではかなり大振りのものに変わっていた。
アージェは弓の上をそっと指でなぞる。
「これ、何か意味あるのかな」
「どうなんだろ。押せる?」
「押せない」
壁画が彫り込まれている石壁は、やはり何処にも継ぎ目は見られない。リィアは一通りを調べて首を傾げた。
「魔法仕掛けでもないみたい。魔力は感じない」
「ああ。ですが、遺跡の仕掛けは奥に行くほど魔法仕掛けではなくなるという説もあります。
 神具と一緒ですね。未だ解明されない謎の力―――― 神の力とでもいうのでしょうか」
ユーレンの説明を横に聞きながら、アージェは狭い室内を見回す。
他の部屋と変わらぬがらんとした様相。壁には何もかかっていない。ただ床に固定された四角い石のテーブルを挟んで、二脚の椅子が置かれていた。
アージェはその椅子にふと違和感を覚える。近寄ってよく覗き込んでみた。
「これ、二つ同じじゃないんだな」
「え?」
背もたれも大きな装飾もない白石の椅子。それは一見まったく同じものであるのだが、よく見るとテーブルへの距離が違う。
一つはテーブルにかなり近い位置で固定されており、その隙間は子供がやっと通れるくらいだ。
そしてもう一つはその倍ほどの距離をあけて、やはり床に固定されていた。
アージェはそれらの位置関係を確認すると、少し離れて全てを概観してみる。
「何だろうこれ。設計を失敗したのか?」
普通の椅子であるならともかく、床に固定されている椅子でこれでは、どう見ても失敗であろう。
アージェが遺跡を作った人間の杜撰さに呆れていると、けれどユーレンは真剣な顔で顎に手をかけた。二つの椅子をまじまじと眺める。
「これは……もしかして、壁画の抽象でしょうか」
「え?」
「ですから、二つの椅子がそれぞれディテルと人の王を示しているのではないかと」
それを聞いて、アージェとリィアは目を丸くした。二人でもう一度椅子を確認してみる。リィアが深い息と共に呟きを吐き出した。
「そうか。このテーブルがディテルの乗ってるあの壇なんだ」
「……ああ」
遅れて理解したアージェは、改めて少し離れている椅子の傍に近づく。
テーブル間際に置かれている椅子が壇上の神というなら、壇から離れているこちらは人の王を表しているはずだ。
そして一枚だけ違う壁画にもまた意味があるのだとしたら――――
アージェは床に膝をつき、椅子の右側面を調べた。壁画に描かれた男は右手の傍に弓を置いている。何かが隠されているとしたら、こちら側が怪しいと踏んだのだ。
そしてその読みは正しく報われた。アージェは側面に彫られている装飾列の中に、一つだけ混ざっている小さな弓の意匠を見つける。
「あった。これか」
彼は右手の指で、その弓の部分を押してみた。
だが繊細な彫刻は奥にも横にも動くことなく、固い感触を返してくるだけである。
アージェは軽い落胆を覚えて立ち上がろうとした。
だがその時、頭上にリィアの驚いた声が降ってくる。
「テ、テーブルが!」
「え?」
彼女の言っている意味はすぐに分かった。
白い四角の大きなテーブル。それが、音もなく床の中に沈んでいく。
息を飲んで見守る三人の前で、やがてテーブルは完全に床の中に没し、更にはそこに大きな穴があいた。
テーブルと同じ大きさの四角い穴は、覗き込めば暗い下り階段を有している。
何処に続いているのか見当もつかないそれを、アージェは目を細めて見つめた。横から隠し階段を確認したリィアが、手の中に魔法の光を生む。
「じゃあ、行ってみる?」
「あー……うん」
歯切れの悪いアージェの返事に、女は片眉を上げた。
「何? 怖いの?」
「そういうわけじゃないんだけど。俺がこの先入ったら、あちこち危なくなりそう」
「は?」
何の確証があるわけではない。ただアージェには「ここが境界線だ」ということが、うっすらと分かっていた。
かつて自分が越えたと同じ境界線。継承者に反応して様相を変えた遺跡のことを彼は思い出す。アージェは二人を振り返った。
「多分、この先に進むと遺跡が『発動状態』になると思う。―――― まずいと思うなら、先に外に出てて」
「発動状態?」
何のことだか話についていけないリィアとは別に、ユーレンは明らかに顔色を変えた。大きく見開かれた両眼がアージェを見つめる。
「あなたは、継承者なのですか」
「ああ」
「一体誰の…………いえ、すみません。無遠慮な質問を。
 継承者の方にお会いできることはほとんどありませんで、つい」
「いいよ。俺自身にはあんまり関係ないし」
ユーレンが聞こうとしたことはつまり、「誰がアージェの祖なのか」ということなのだろう。
今の青年はそれを知ってはいるが、実の親を知らずに育ったせいか、血統への拘りはまったくない。むしろ他人事のように思えているくらいだ。
アージェはリィアに説明する意味も込めて、あっさりとその名を口にした。
「俺の祖は、カルディアスって奴みたいだ」
「それは……もしやクレメンシェトラの……」
「そう。女皇の騎士だったやつ」
青年が出来るだけ淡々と補足すると、リィアは丸くなっていた目を元に戻す。彼女は「継承者」や「発動状態」の意味は分からずとも、アージェが本来女皇の騎士たる異能者であることは知っているのだ。
「何だ、そういうこと?」
「そういうこと。神代にディテルから指名された人間の血筋。
 で、そういう人間が特定の遺跡の奥に踏み入ると、遺跡が発動状態になるわけ」
「発動状態?」
「罠が増えたり巨大な人食い蜥蜴が現れたりする」
「……それ、本当?」
「残念ながら本当」
アージェが頷くと、リィアは顔を歪めて沈黙した。罠はともかく巨大な蜥蜴が嫌なのだろう。
一方ユーレンは、まだ何かを考え込んでいるようだった。彼はふっと顔を上げると、アージェを見やる。
「あなたは、ディアドなのですか?」
神の国ケレスメンティア。その女皇の影たる称号を挙げられ、アージェは一瞬沈黙した。脳裏にレアリアの淋しげな微笑が浮かぶ。
「……俺は違う」
「何故? 現女皇にディアドがいないことはご存じでしょう? それとも彼女は、あなたの存在をご存じないのですか?」
答えにくい問い。だが不分明な抵抗を覚えるそれを避ければ、彼自身に負い目があると証明するだけである。
アージェは平坦な声音でユーレンに返した。
「レアは……女皇は俺のことを知ってる。ただ俺は捨て子だった。養い親に育てられたんだ。
 だから元々ケレスメンティアとは関係ないし、関わる気もない」
吐き出した言葉は、アージェ自身が聞いても拭いがたい空々しさに満ちていた。
青年は思わず軽い嫌悪感を抱いたが、それはおそらく己に対するものなのであろう。
彼のそのような揺らぎを感じ取ったのか、ユーレンは顔を曇らせる。
「あなたは……現女皇がディアドを持たない為に影で嘲笑われ、『成り損ない』と謗られているのをご存じないのですか?」
「―――― は?」
虚を突かれ、唖然とするアージェを男は静かに見つめる。
その目の奥にレアリアの横顔を思い出した青年は、この時ようやく彼女が語らない負の断片を知り―――― その孤独に思いを馳せた。






どろりとした体液で濡れている白い通路は、人の愚かさを如実に表すものなのかもしれない。
イリデアは自らの足を見下ろし、そこについた血の痕を払った。手についた汚れを不快もあらわに布で拭う。
彼女にその布を手渡した男は、自らが斬り捨てた剣士の体を冷ややかに眺めていた。ぴくりとも動かず伏している男の隣には、もう一人の男が愕然とした面持ちで座り込んでいる。
イリデアは腰が抜けているらしい剣士に辛辣な笑みを見せた。
「身の程を知ってくれたのかしら?」
「あ、あんたら一体……」
「知る必要はないわ。喋る権利もない。死にたくないのなら自分の足で立って、先に進みなさいな。
 私は彼を追わなければならないの」
「あの小僧を……?」
跳ね上がる爪先。
聞き返した男はその瞬間、鼻を蹴られてのけぞった。言葉なく呻く男よりも、イリデアは自分の足先を気にして見やる。
「話す権利はないと言ったでしょう? 二度はないと思いなさい。
 さぁ、さっさと行くのよ。そこの男と同じ目にあいたくないのなら」
血の流れる鼻を両手で押さえ、男は慌てて立ち上がった。事切れた男と、その横に転がる剣を横目で見止める。
青ざめた顔は、悲しみや怒りよりも恐れの強いものだった。見届け人としてついてきた女に暴力を振るおうとし、逆に叩きのめされた彼は、躊躇いながらも歩き出す。
自慢の得物であった長剣は既に奪われ、彼の手にはない。何の武器も持たない男は、それでも足を止めることを許されなかった。まるで処刑場へと向かう罪人のようにうなだれて先頭を歩いていく。
先程は全員で踏破した通路。罠も敵もいなかったそこを、三人は重い沈黙と共に進み出した。
やがてイリデアの半歩前を行く騎士が、彼女を振り返って問う。
「殿下、本当に外で待っていなくてよろしいのでしょうか」
「構わないわ、ルエン。私の役目は彼の品定めよ」
ルエンと呼ばれた騎士の、女を呼ぶ敬称に、先頭を行く男は肩を震わせた。彼は振り返りたい衝動を堪えて、両手の拳を固く握る。
―――― 王族による計略。
それは、数百の王家が興亡する現状においても、軽い意味を持つわけでは決してない。
女の本当の素性を知ってしまった剣士は、彼らが自分を生きて帰すつもりがないと悟った。ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、後ろを向かぬまま背後の様子を窺う。
この絶望的な状況において、生き残る道は二人を撒くことにしかない。そう考えた彼は、機を待ちながら薄暗い通路を歩いていった。
そして最初の扉がようやく見えてきた時、不意に全員の耳奥で気圧の変わるような違和感が生まれる。
まるで頭痛を招くような高い音の耳鳴り。イリデアが片耳を押さえて天井を見上げた。
「何?」
三人全員に訪れた異変―― 絶好の好機であるその瞬間を男は見逃さなかった。何も言わず石床を蹴ると、全速力で走り出す。
彼の後をルエンは追おうとしたが、イリデアによって留められた。彼女は美しい貌に悪意の毒を滲ませて微笑む。
「放っておきなさい。外に出られたとしても町までは行き着けないわ。のたれ死ぬのが落ちよ」
「かしこまりました」
「それより、何があったのかしらね」
今はもうやんでいる耳鳴り。イリデアは首筋に手をあて顔を傾けた。リィアから渡された魔法の明かりが、通路を薄白く照らし出している。その明かりの届かぬ闇の向こう、曲がった通路の先から、不意に男の絶叫が響きわたった。
「ぎゃあああああぁぁぁ」
後を引いて響く悲鳴。尋常ではないその叫びはしかし、何者かの咀嚼音にかき消される。
思わず耳を覆いたくなるようそれは、ぐしゃりべしゃりと肉を押しつぶし、更にはがりごりと骨を噛み砕いているようであった。
聞く者の精神までをもたいらげてしまうような音に、イリデアはさすがに足を止め、傍らの騎士を見上げる。ルエンは僅かに眉をしかめて消えていく悲鳴に耳を澄ませていた。
「……先程逃げた男のようですね」
「何かいるの?」
「分かりません」
ルエンは声を潜めて答えると、女に下がるよう示した。剣を抜き、暗闇に向かって構える。
そしてそれに応えるように、通路の奥で何かが動く気配がした。明かりの外側が微かに漂う中、巨大な影がゆっくりと近づいてくる。
イリデアは息を飲んで目を凝らした。