記されぬ時 104

狭い通路を三人は無言で進んでいく。
不思議な圧迫感。それが頭上にのしかかってくるように思えるのは、天井が先程までよりも低くなっているせいだろう。
三人の中で一番背の高いアージェは、眉を寄せたまま先頭を歩いていった。
もっとも、彼への圧迫感は空間的な問題の為だけではない。
先程ユーレンから聞いた話、つまりレアリアを取り囲む現実が、青年を気鬱にさせていることは明らかだった。
彼は後ろの二人に分からぬよう浅い溜息をつく。
―――― 思い出せる彼女の姿は、どれも断片的なものばかりだ。
城を抜け出して彼の前に現れていた彼女、そして女皇として静かに佇んでいた彼女も、全ては一人の人間を形成する一側面の、更に欠片でしかない。
だからお互い結びつかないそれら断片たちの影には、もっと多くの現実が隠されていたのだろう。
アージェはそれを明かそうとしなかった彼女の内心を思う。


「俺は……知らない。知らなかった。本当の話なのか?」
その言葉で何かを免れられるとは、アージェ自身思っていなかった。
勿論それは聞いていたユーレンやリィアも同感であったろう。重く落ちた沈黙に、リィアの溜息が響いて聞こえる。ユーレンは年少者を労る目で彼を見た。
「残念ながら本当のことです。ですがあなたが知らなくても無理のないことと思います。
 そのような陰口を叩くのは古い家柄の人間ばかりですし、国外の……特に平民には知る機会がないでしょう。
 ただあなたは、知っていてもよいことかと思います。おそらく女皇はあなたに知らせる必要がないと思ったのでしょうが」
「……ああ」
アージェはただ首肯する。
レアリアに「影」がいないことは、彼だけのせいではない。元々彼女にはちゃんとディアドがいたはずなのだ。
しかしその男は彼女の下を去った。
けれどだからと言って、レアリアの現状に彼が無関係であるはずもないだろう。
アージェが誘いの手を断ったからこそ、彼女は今も一人でいるのだ。それはそういうものとして、彼は事実を負わねばならない。青年は目を閉じると首を横に振った。
「でも、それを聞いても俺は、ディアドにはなりたくない。―――― 『騎士』に、なりたくないんだ」
「ええ」
「それにレアは、俺がいなくたって立派な女皇だ」
言い訳じみた言葉はけれど、アージェの本音で、事実でもある。
それまでの形式に則っておらずとも、彼女は女皇としてきちんと自らの役目を果たそうとしている。
にもかかわず彼女のせいではないことをあげつらうような真似をする人間に、彼はちりちりとした苛立ちを覚えていた。

鬱屈とした場の空気を変えようとしてか、リィアが両手を広げる。
「その話はともかくさ、今はここから先に進むかどうかでしょ?
 とりあえずはどうするのよ。私はもう覚悟出来たんだけど」
「ああ、ごめん。じゃあ行くか。―――― ユーレンは?」
「もちろん私も行きますよ。発動状態の遺跡に入れるなんて、こんな幸運に恵まれる研究者は他にはいません!」
熱のある同意にアージェは苦笑した。かつて別の人間たちと別の遺跡を探索した、懐かしい思い出が甦る。
「よし、下りるか。……ああ、残してった人たち、放っといて大丈夫かな」
「大丈夫でしょ。出口はすぐそこだし、強い騎士様がいるんでしょ?
 それより警告しに行って厄介なことになったら嫌だし」
「そうだな……。じゃ、何が出るか分からないから各自用心して」
アージェはそう結論づけると、左手の手袋を取り去った。漆黒の腕を見て、ユーレンが息を詰めるのが分かる。
青年は少し意識を集中させ、自分の「内」を確かめると顔を上げた。
「よし、行く」
真っ暗な階段。その奥を、リィアが掲げる光が照らす。アージェは光の外縁に向かって、先頭を歩き始めた。
瞬間、全員の耳に気圧が変わるような変化が訪れる。リィアとユーレンは、思わず自分の耳を手で押さえた。
「な、何これ」
「発動状態になったんだ。気をつけろ」
アージェは右手の剣を握りなおした。それと同時に、いつでも左手から武器を作り出せるよう意識する。
何が待っているのか、行き着く先はどうなっているのか、今はまだ分からない。
それでも彼はただ腹の中に蟠る重みを抱えて、先へ先へと進んでいくのだ。






イリデアは微かに聞こえてきた音に息を止めた。
暗い通路の先から転がってくるその音は、何かの獣の低い唸り声である。
緊張が二人の中に走り、ルエンは剣を軽くあげた。左手で彼女にもっと下がるように示す。
イリデアは本当なら彼に何かを言いたいのであるが、声を出せば「何か」に気付かれる気がして出来ない。
彼女は前を見たままじりじりと今来た方に下がっていった。
男の腰に提げられた魔法の明かり。灯した光の罠の中に、毛に覆われた前足が現れる。
イリデアの腰周りほどの太さがあるその足は、ずしりとした重みを感じさせながら、更に一歩近づいてきた。
途端、血の匂いと、それを上回る強烈な生臭さが彼女へ押し寄せる。イリデアは嘔吐感に襲われ、鼻と口を手で覆った。
「ルエン」
「お逃げ下さい」
短い返答。それを聞いた彼女はすっと全身が冷え切るような恐怖感に襲われる。
―――― 今まで幾度となく、父の目として片腕として、様々な場を渡ってきた。
その中には十数人の人間が斬り合うような危険な状況もあったのだ。
だが全ての場において彼女は支配者の側であり、捕食者の側に立っていた。
諸国に恐れられる「コダリスの野獣」―――― その娘であるイリデアは、しかしこの時初めて「自分が食われるかもしれない」という戦慄を抱いて身震いする。彼女はその震えを声に出さぬよう護衛の男を呼んだ。
「来なさい、ルエン」
「殿下、お早く」
薄ぼんやりとした光が、徐々に「何か」の姿を照らし出す。
灰色の長い毛に覆われた四本の足。更にその上は、人の五倍ほどはあろう丸みを帯びた巨体となっていた。
猿と人の中間を思わせる顔。細くてよく分からぬ両眼の下で、黒ずんだ鼻がぴくぴくと蠢く。
更にその下は顔の半分以上をも占める大きな口になっており、半開きのそこからは強い臭気を放つ唾液と血の混ざったものが垂れ出していた。
イリデアは真っ赤な血と共に肉片がこびりついた前面の毛を、まるで魅入られたかのように凝視する。
今まさに紅い滴をしたたらせているそれは、彼女にとっては理解出来ぬ非現実でしかなかった。イリデアはそれ以上下がることも出来ず、ただ近づいてくる灰色の獣を見上げる。
―――― 「それ」は彼女を見て、にぃっと笑った。
「殿下!」
ルエンの叫びは、巨体の跳躍と同時だった。
灰色の獣は騎士を跳び越え、後ろにいたイリデアに襲い掛かろうとする。
彼女はそれをまるであり得ない出来事のように立ち尽くして見ていたが、太い爪が迫る寸前でようやく我に返った。身を翻して逃げ出そうとする。
「お、お父様……っ!」
今この場にいない父を呼んで、彼女は駆け出した。どうしようもなくもつれる足に転びかける。
彼女はその瞬間、自分の体が引き裂かれる幻影を見た。

喉元まで出かける悲鳴。
しかし冷たい通路に響き渡った絶叫は、彼女ではなく獣のものだった。
甲高い赤子のような叫び。ルエンの剣によって腹部を切りつけられた「それ」は、床の上をのたうつ。
弾むように床や壁に巨体を打ちつけた獣は、しかしすぐに怒りの唸り声と共に体を起こした。自身の血に濡れた剣を構えるルエンに向かって、牙を剥いて威嚇する。
もはや男は何も言わない。だがその背から、イリデアは自分の選択肢が一つしかないことを悟った。夢中で走り出しながらも脳裏に父の声が響く。
『深入りはするな、イリデア。お前がそいつを直接見て、何を感じたか分かればいい』
彼女に「女皇の騎士」の品定めを任せながら、そう釘を刺してきた父。
彼がそのような用心を促したのは、遺跡に潜む未知の事態を想定していたのかもしれない。
結果としては忠告を守れなかった彼女は、背後から聞こえてくる獣の声に気が狂いそうになった。振り返って何が起きているのか確認したいが、どうしてもそれが出来ない。彼女はほとんど先の見えない真っ暗な通路を、無我夢中で走っていく。
その時少し先で、ふっと白い明かりが灯った。
「―――― っ!」
イリデアは敵か味方かも分からぬ明かりを見て、反射的に足を止めかける。
戻ることも進むことも出来ない窮地に、彼女はふつふつと沸く怒りに捕らわれかけた。
しかし立ち止まる彼女に、明かりのすぐ傍から涼やかな男の声がかけられる。
「そこに誰かいるのか?」
聞き覚えのない声。確かに人間のものであるそれは、けれど完全にはイリデアを安心させなかった。
限られた極小数の人間しか知り得ない遺跡に、一体誰が入ってきたというのか。彼女は返答を躊躇ってその場に立ち竦む。
だがその時彼女の眼前に、ふっと白い光が生まれた。
魔法の光に曝け出された姿を見て、男が気の抜けたような感想を漏らす。
「女性か。迷子か?」
「どうでしょう。盗掘者かもしれません」
明かりの中に現れた数人。そのうち一人だけ身分の高さを感じさせる服装の男を見つけ、イリデアはぎょっと目を瞠った。男の名を呼びそうになった口を、慌てて両手で押さえる。
一方男はそのような彼女の様子を見て、何かあったとだけ察したらしい。傍らの女魔法士を見下ろした。
「いかん、エル。彼女を救助しよう」
「盗掘者をですか?」
「美人ではないか。きっと悪い人間ではない」
「殿下のその外見の第一印象で判断して行動なさるやり方は、そろそろ改めて頂きたいです」
「……一目惚れはやめたぞ」
「そうですか」
女の返答は小さな溜息がほとんどを占めていた。イリデアはその魔法士にじっと見つめられ、内心冷や汗を流す。
しかしそうこうしていられる時間はない。彼女は躊躇を乗り越えると、殿下と呼ばれた男に走り寄った。
「助けて下さい! 連れがおかしな怪物に襲われて……」
「何!? それはいかん! エル!」
「はい」
言いながら先頭を切って走り出す男に、イリデアは呆気に取られながらも、すぐに自分も駆け出した。
―――― ルエンは腕の立つ男だ。怪物相手でもやられるということはあるまい。
そう信じながらもだが彼女は、己の中に芽生えた嫌な想像を拭い去ることは出来なかったのである。