記されぬ時 105

狭い通路にみっしりと詰まって見える巨体は、避けて通ることはまったく出来そうにない。
アージェは長剣を振り回すには少し手狭な空間に舌打ちする。
もっともだからと言って、戦わないわけにはいかないだろう。青年は一本道の通路を近づいてくる巨大な灰色の獣を睨んだ。
階段を下りた先の道で遭遇した化け物。その異様な姿を見て、背後からリィアが無責任な声をかけてくる。
「あれ、人食いそうじゃない? そんな顔してる」
「そういうこと言うか? 相手すんの俺なのに」
「援護はしてあげる」
薄情なのかそうでないのか分からない返答に続き、しかしアージェは詠唱の声を聞いた。おそらく防護魔法でもかけてくれる気なのだろう。
彼は覚悟を決めると軽く剣を構えた。体の中心、その延長上に剣先が来るよう、両手で柄を持つ。
獣までの距離は、彼の歩幅で約十二歩といったところだろうか。
けれどアージェは、自分がそれを詰める必要はないと知っていた。呼吸を整え、「その時」を待つ。
―――― それはすぐにやって来た。
「……っ!」
石床を蹴り、一直線に彼へと向かってくる獣。
形容しがたい甲高い声は、歓喜に溢れているようにも聞こえた。
アージェは自身を抉り取ろうと振り下ろされた爪を、長剣の刃で受ける。そこに尋常ではない力がかかったが、彼はその力を斜め下に受け流した。勢い余った獣は頭から床にもんどりうって倒れる。アージェは素早く剣を引くと、獣の肩に振り下ろした。耳障りな鳴き声が響き渡る。
「ギィィィィャャアア!」
「うわ」
頭の中を直接殴られるような悲鳴に、アージェは顔を顰めた。そのまま鳴き声を避けるように仰け反る。
しかしそれは、獣の声から遠ざかりたい為の動きではなかった。青年の顔のすぐ前を白い爪が横切っていく。
彼は外側へと薙ぐ強烈な反撃に空を切らせると、躊躇わず巨体の空いた懐に飛び込んだ。怒りにぎらつく赤い両眼の間、灰色の毛に覆われた眉間めがけて長剣を突き立てる。
空間を引き裂いたものは、先程のものよりも細く鋭い悲鳴だ。
アージェは己の体をへし折ろうと襲い掛かってくる両腕を、身を屈めて避けた。
長剣からは既に手を放している。それは獣の額にまだ刺さったままだ。
青年は息をつく間もなく左手から黒い剣を生み出した。
切断することに特化した形状。薄く作った刃を、彼は追ってくる獣の腕に向かって振るう。
怒りに満ちた呼気。腕の落ちる重い音が、そこに混じった。
アージェは、右腕を落とされた獣の、まるで人に似た唖然の表情を見返す。
そして彼は無言のまま―――― 残る左腕と、獣の首を順に斬り捨てた。



「え、君すごく強くなってない?」
「二年も経って成長してなかったら困るよ」
獣の死体から引き抜いた剣をアージェが布で拭っていると、リィアが気を抜かれたような声をかけてきた。
援護すると言いながらまったくその出番がなかった彼女は、改めてじろじろと青年の姿を眺める。
「君、今いくつなんだっけ?」
「十七。リィアの二つ下だって。前言わなかったか?」
「そうだっけ。へーえ」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
長剣を鞘に戻すと、アージェは呆れた目でリィアを見下ろした。肩を竦める彼女から視線を移すと、ずっと後方で待っていたユーレンが小走りにやって来る。
彼は通路を半ば塞いでいる獣の死体を見下ろし、感嘆の息をついた。
「すごいですね……」
「何の動物だか分からないよな。何処から出てくるんだろう」
「記録自体がほとんどないですからね。今回明らかに出来ればかなりの躍進なんですが」
「どっから来るのか見張ってるには人手が足りないんじゃないの? 私はやりたくないし」
リィアの結論はもっともなものであったので、三人は死体の脇をすり抜けて先へと進み始めた。
ユーレンは青年の黒い左腕にちらちらと視線を向ける。それに気付いたアージェは苦笑した。
「何? 興味ある?」
「す、すみません……普段ディアドは女皇の傍を離れることがないので……。
 あとあなたのように部分が漆黒になっているというディアドはほとんど例がないのです」
「だから俺、ディアドじゃないって」
軽く訂正を入れながら、アージェはかつてリィアの師から聞いた言葉を思い出す。
女皇の騎士はほとんどが褐色の肌に染まり、部分だけが漆黒になる人間はまずいないのだという。
この特異な外見がアージェの異能の突出を示しているのだとしたら、現実は皮肉なものだと彼は思う。
捨てられた子、騎士になる気のない人間に、類を見ないほどの強い素養が受け継がれてしまったのだ。
もし彼の本当の両親がこれを知ったらどのような顔をするのだろうか―――― アージェはそう考えかけて「実の両親」という言葉にそもそも現実味を感じないことに気付いた。彼は埒もない思考を一瞬で打ち切る。
「俺は珍しい方なんだってさ。……それにしてもユーレンはケレスメンティアに詳しいな」
「私は宗教学が専門ですから。ケレスメンティアについては本を出したこともあります」
「凄い」
自分の本を出すなどという行為は、アージェやリィアのような人間からすると、まるで遠い世界の出来事である。
二人から感心の目を向けられて、ユーレンは照れくさそうに頭の後ろを掻いた。
「いえ、大したものではないんですよ。ずっと調べてきたことを纏めただけで……」
「え、それ、今でも手に入るの?」
「どうでしょう。予算がなくてあまり多くは作れませんでしたから。
 買ってくれた誰かが図書館にでも置いてくれていたら読めるかもしれませんね」
―――― 研究費が欲しいとユーレンが言っていたのは、このような理由もあるのだろう。
アージェは納得して前を向きなおした。その間にもリィアは色々気になるのかユーレンに質問を重ねている。
「ね、私も知識としては色々知ってるけどさ、あの国っておかしなこと多いよね?
 騎士のこともそうだけど、女皇が絶対女の子生むこととかさ。あれ、どうなってるの?」
「どうなっているのか分からないんですよね。ああいう事柄はさすがに研究も許可されませんし。
 ただ女皇クレメンシェトラは元々『神の娘』ではないかと言われた存在ですから。
 その血を継いでいる彼女たちには特殊な力が備わっていても不思議ではないでしょう」
「神の娘? 人間じゃないの?」
「どうでしょう。クレメンシェトラを人間でないと言うには、神が人間ではなかったことを証明しなければなりません」
二人の話を背後に聞きながら、アージェはふと疑問を覚えた。
女皇クレメンシェトラが「人ではない」と言われるくらいなら、彼の祖は一体何なのだろう。
魔法では解明出来ぬ異能を持っていて、しかもそれを血で受け継いでいく。
どう考えても普通の人間ではない。人外というのなら、レアリアよりも彼の方が余程そうであろう。
アージェは無意識のうちに眉を寄せると、前を見たままユーレンに問うた。
「カルディアスは? 本当に人間だったのか?」
「人間ですよ。継承者の祖は皆、人間です」
即座に返ってきた返答はきっぱりとしたものである。アージェは一瞬目を丸くし、足を止めると男を振り返った。
「それ、絶対?」
「絶対ですよ。ディテルは人の中から人を選んだんです。そうではなかったのはクレメンシェトラだけです」
「クレメンシェトラ……?」
「彼女だけはね、文献において『選ばれた』と書かれていない。『委ねられた』とだけ書かれているんです。
 人の中からディテルの下にやって来たわけではない。彼女ははじめから神の傍にいた。
 そもそも継承者の祖となる選出者たちは、実は連名書というようなものが残っているんですよ。
 それは彼らが石板に各々自分の名を刻んだもので、そこには消された名はありますが……クレメンシェトラの名だけはない」
滔々と語られる話は、まるで眠る前に母親が語る御伽噺のようにアージェの中へと染み入った。
薄ぼんやりと視界の中に浮かび上がる遺跡の通路。そして男の静かな声音が、彼に遥か過去の神代を想像させる。
再び歩き出したアージェは、新たな罠や敵が出てこないか警戒を緩めないまでも、ユーレンの話に引き込まれていった。自らの声を差し挟むことも煩わしく手短に質問する。
「消された名はクレメンシェトラじゃないのか?」
「違います。消されたと言っても完全には消えていないんですよ。
 残っている文字からそれは……おそらくカルディアスじゃないかと言われています」
少し躊躇ってからの名に、けれどアージェは驚きも違和感も覚えなかった。ただ妙に納得して頷く。
―――― クレメンシェトラではないなら、それはカルディアスだろうとは思っていた。
前の遺跡で会った王の残滓は、アージェのことを「神具を継げない呪われし継承者」と言ったのだ。
それはきっと、他の継承者と「ディアド」との差異を示す言葉だったのだろう。
そこまで考えてアージェは、だがおかしなことに気付いた。先程よりもはっきりとユーレンに聞き返す。
「カルディアスは名前を消されているのに、何でクレメンシェトラの騎士なんだ?」
名前を消された男。その彼が、どうして「神の娘」とも呼ばれる女皇と一対であるのか。
本来ならば排斥されてもおかしくない人間が、神にもっとも近い女の傍にいたということ、そしてその体制が今にまで受け継がれていることに、アージェは奇妙さを覚えた。
答を待つ彼の耳にユーレンの苦笑が聞こえる。
「それは残念ながら、どの研究者にも分かっていないことです」
「分かっていない?」
「ええ。どんな文献にも記述がありませんから」
「ケレスメンティアの人間も知らないのか?」
「おそらくは。信仰者にとってディアドは『女皇の騎士』であって『選出者』ではないのです。
 勿論カルディアスが選出者であったことも、なかったことと看做されている。
 それについては当時の記録が新たに発見されるか、女皇本人にでも聞かなければ分からないことでしょう」
「レアに?」
アージェは、彼に多くを語らないレアリアの横顔を思い出す。
記憶の中、少し淋しげにはにかむ彼女。閉ざされた唇は、彼の尋ねることに全て答えてくれるようには到底思えなかった。