記されぬ時 106

見えるものは、闇。
何も生み出さない拒絶の空間だ。
そして光の浸食の届かぬ領域からその時聞こえてきたものは、ぞっとするような粘着質の啜音であった。
ぴちゃくちゃと通路に響く音。品のない人間が肉をしゃぶるようなその音は、戻ってきたイリデアを心から戦慄させた。
彼女はかぼそい声で騎士の名を呼ぶ。
「ルエン?」
様子を窺う声に応えたものは、大きく揺れた闇だけだ。
イリデアはその瞬間、そこにいるものがルエンではないと悟った。軽い虚脱感と共に歩くことをやめる。
一方彼女に先行していたアリスティドは、何の恐れもなく闇に向かい長剣を抜きはなった。堂々と声を張り上げ誰何する。
「何者だ! そこで何をしている!」
「殿下、防護結界を」
「不要だ。話せば分かる相手かもしれない」
「…………」
話して分からないのはあなただと、エルは言いたかったのかもしれないが、代々王家に仕える家の出である彼女はそのようなことは言わなかった。代わりに口の中で詠唱を始める。
一同に視界を与える魔法の光。
アリスティドは、自分の前を漂って進む球状の明かりが照らし出したものを見て、形のよい眉をしかめた。
石床の上に広がる夥しい血。彼は剣を引いて問う。
「誰か怪我をしているのか?」
多量の血溜まりは見えているが、そこには何の生き物の姿もない。
先程の音が食事の音であるというなら、食われているものも、食っているものも光の届く範囲内には見当たらなかった。ただむっとするような血臭と吐き気を催す生臭さだけが漂っているだけである。
イリデアは困惑して辺りを見回した。それはアリスティドとエル以外の騎士たちも同様らしく、彼らは音の正体を探して様子を窺う。―――― そこにアリスティドの鋭い声が飛んだ。
「下がれっ!」
危険を知らせる声。
それを聞いたイリデアが思い出すものは、先程襲いかかられそうになった恐怖の記憶である。
意思に反して体を硬直させてしまった彼女を、騎士の一人が庇って前に出た。
全員が気を張り詰めた一瞬。しかし「それ」は、先頭にいたアリスティドに襲い掛かる。
暗闇の中から突如飛び出してきた巨体。頭を叩き割ろうと振り下ろされた腕を、彼は己の剣で払った。
ほんの一瞬の攻防。まさか獲物を引き裂こうとしたその手を、いきなり斬りつけられるとは思わなかったのだろう。困惑と怒りを思わせる金切り声が響き渡る。脳の中をかきまわされるような高音に、イリデアは両耳を手で押さえた。
「やめて!」
その要求が飲まれたとは思えない。
しかし声は、彼女がそう叫んだ途端にぴたりとやんだ。不自然な空白が訪れる。
イリデアは閉じていた両眼をおそるおそる開いてみた。自分を庇う騎士の背後から覗き込んでみると、先程の獣の見開かれた赤い両眼と目が合う。
「ひっ」
思わず後ずさった彼女は、しかし次の瞬間巨体が膝をつくのを見て唖然とした。
改めて確認すると、「それ」は喉を大きく切り裂かれ、そこから空気がひゅうひゅうと漏れ出している。
一閃で獣に致命傷を与えた人間は勿論襲われかけたアリスティドであり、彼は倒れこむ巨体を避けると目を丸くした。
「何だ、この生き物は。言葉が通じないのか」
「そのようですね」
平然とした二人の調子からすると、この程度のことは大した危機ではないのかもしれない。
イリデアは要注意人物だと知っている男をじっと見つめた。その視線に気付いてアリスティドは振り返る。
「そんなに見られると嬉しいぞ!」
「……殿下……」
男の隣でエルが嫌そうな顔になったが、イリデアはそれには構わなかった。嫣然と、大輪の花のような微笑をしてみせる。
アリスティドがそれにつられて笑顔になるのを見ながら、彼女は心中で思考を巡らせた。
―――― 国の敵、父の敵である男。性格はともかく戦術指揮に関しては大陸屈指と言われるセーロンの庶子王子。
民の人気も高い目障りなこの男を、一体どう料理してやればいいのか。彼女は計算を重ね、幾つもの道筋を考える。
―――― 死なせるに越したことはない。だが上手く利用出来ればそれでもいいだろう。全ては状況と、彼女自身の才覚次第だ。
イリデアは騎士に庇われつつ、怖がる素振りをしながら血溜まりの脇を通り過ぎる。
その先には何もない。アリスティドはしばらく辺りを調べていたが、やがて躊躇いがちにイリデアに問うた。
「襲われていた人は……」
「ええ」
言わずとも分かっている事実。
彼女は泣き出しそうな顔で歪に微笑んだ。その表情だけは、偽りのない彼女の本心だった。






隠し階段を下りた先は、単純な枝分かれの迷路であった。
その一つ一つを罠を避け、おかしな獣と戦いながら潰していく三人は、やがて一つの扉へと辿りつく。
両開きの扉に彫り込まれた壁画、先程のものと同じディテルと選出者の図を見て、アージェは「ここが終点だ」と感じ取った。彼はユーレンを振り返る。
「ユーレンは神具を信じる?」
以前の遺跡であったことは、アージェとケグス以外誰も知らない事実だ。
そしてディスヴィウェルドとの戦いについては、あの時あの場にいた者はもはやアージェしか残っていない。
もしここから先にも同じものがあるのだとしたら。アージェは経験者として二人に言うべきことがあった。
左手を握りながら答を待つ青年に、ユーレンはあっさりと頷く。
「そのようなものは実在するのでしょうね。実際目にしたことはありませんが」
「神に与えられた道具だって?」
「ディテルが選出者たちにそれを与えたことはおそらく事実でしょう。複数文献に共通して残っています。
 たださすがに『神の槍』が大陸を分割したという話などは誇張が含まれていると思いますよ。
 そこまでの力があるものが実在しているかは怪しい。―――― ただ『神具と呼ばれるもの』はあったのだと思います」
ユーレンの意見は、以前カタリナが「神」について言っていたこととほぼ同じである。
アージェは彼の話に頷きながらそのようなことを考えていた。
次に青年はリィアを見やると、彼女は両手を軽く上げて肩を竦める。
「ごめん、私は信じてない。絵空事じゃない?」
「そう思う?」
「うん。きっと神具って言われるやつも、ダニエ・カーラの針みたいに強力な魔法具なんだと思う」
「なるほど」
「そういう意見は研究者の中にも多く見られますよ」
二人は己の考えを言い終わると、揃ってアージェを見た。何故このような質問をしてきたのか、目線で問う。
彼はその疑問に答えるべく、首だけで扉を振り返った。
「俺さ、前に別の遺跡に入って、神具を見たことがあるんだ」
「え?」
「ほ、本当ですか!?」
「本当」
「どのようなものでした!? 外見は、効果は―― 」
「待って待って」
異様な食いつきを見せるユーレンを、アージェは両手で押し留めた。隣ではリィアが白い眼でそれを見ている。
青年は迫ってきた学者を元通り魔法士の隣に並べると、説明を再開した。
「外見はこう……台座の上に一本棒が立ってて、それを中心に大きさの違う発条がいっぱいついてるって感じ。
 効果は知らない。実は俺、それをその時、壊しちゃったんだよ」
「壊した!?」
遺跡に響き渡る絶叫は半ば予想出来ていたことだったので、アージェは両耳を塞いでそれに対抗した。
一方リィアはまともに至近で聞いてしまい、額を押さえてよろめている。
彼は掴みかからん勢いで再度迫ってくるユーレンを手で押さえると、「まぁ落ち着いて聞いてって」と諭した。
「ちゃんと説明するけど、あれは壊さなきゃ俺が死んでたよ。他の人間も……」
青年の緑の瞳は、そこで一瞬何もない宙を見やる。
もはや取り戻せないもの。アージェは目を伏せると、何事もなかったかのように続けた。
「まぁ結論から言っちゃうと、継承者が神具のある部屋に入ると、居合わせた人間全員がその部屋に閉じ込められるんだ。
 で、継承の為の試練を受ける。―――― 俺はカルディアスの継承者だから、試練を受けても継承出来ないんだけど」
「試練って何よ」
「前回は王の残滓と戦った。ディスヴィウェルドって奴」
「強かった?」
「強かったよ。勝てなかったから神具を壊したんだ」
過去のことを語る口調は、多くの苦味とほんの少しの懐かしさで出来ている。
アージェはほろ苦く微笑むと、ユーレンを正面から見つめた。宗教学を専門とする男は、信じられないものを見るような目で青年を見返す。
「今の話は、本当ですか」
「ああ、全部」
「こ、これは凄いことですよ。今までどれだけ多くの学者が調査研究を重ねても分からなかった―― 」
「うん。でもごめん。俺はこのことを明らかにする気はない」
―――― あの当時は、それがどれだけ稀有な経験か本当には分かっていなかった。
だが今になって振り返れば、そしてユーレンの話を聞けば、あれが多くの秘された事実を明かす貴重な体験だったのだと分かる。
どの文献にも明言されていない事実。残滓との対話。神具への接近。
学者たちが一生を研究に費やしても届かない真実に、何も知らない少年が行き当たったのだ。
アージェ自身はそれを幸運と判ずるべきかどうか分からないが、少なくともユーレンなどはその場に居合わせたかったに違いない。
しかしアージェはその貴重さを分かっていながら、二年前のことを公表する気はなかった。
ユーレンが怪訝そうに理由を尋ねる。
「それはまたどうして?」
「単に発表しちゃうと俺の立場が悪くなるっていうのもあるけど―――― あの時は、カタリナがいたんだ」

『これを発表出来たら凄い』と興奮していた彼女。
だが結局彼女は、アージェを守る為にそれをしなかった。詳細な書き付けと論文草稿を作りながらも、それらを人目に曝そうとはしなかったのだ。
もし今、今のアージェが彼女に会えるならば、「気にしないで発表してくれ」と言うことが出来ただろう。自分が彼女に返せるものは何もない。それならば幾許かの不利益を被ろうとも、彼女に恩返しをしたかった。
だが、カタリナはもういない。
あの時の出来事を明らかに出来る人間は彼女しかいない。だからあの事実が表に出ることは、もうない。

彼女が記した全ての資料は、今はアージェのものになっている。
いつか彼が死んだ後は、ジオがそれをしかるべき研究機関へと送ってくれるだろう。



語られないアージェの望みを解したのか、ユーレンは小さく息をつく。
「そうですか……」
「ごめん。そっちからしたら腹が立つだろうとは思うけどさ」
「いえ、それは……分かります。はい」
「うん、ありがとう。―――― で、こっからが本題なんだけど」
アージェは言いながら左手を扉へと向けた。黒い指先はしかし、石扉に触れるぎりぎりのところで止められる。
彼は壁画を見ながら何ということもないように言った。
「俺が一人で中行って様子見てくるよ。また全員で閉じ込められても困るしさ。……ここで待ってて」