記されぬ時 108

草花の彫り込まれた扉は、ユーレンが確認したところやはり転移陣のある部屋へと繋がっていた。
これを使えばおそらく遺跡の外に出られるのだろう。
だが、依頼の名目を偽りと証明出来ていない以上、外に出ても意味はない。
むしろ神具のある可能性が限りなく高くなっている現状、アージェはそれがセーロンの手に渡らぬようにしたかった。
彼はユーレンが二つの扉について簡単に書き付けを取ったのを確認すると、矢が彫り込まれた扉に触れる。
本当はユーレンが書き物をしている間に中に入ってしまおうかとも考えたのだが、それは彼を巻き込みたくないという気持ちより悪戯心の類だろう。アージェは場違いな発想を抑えると、改めて最後の扉を開いた。

既視感を覚える光景。目を焼くほどに白い光が溢れる室内を、アージェは睨む。
その奥には石の祭壇があり、三本の矢が床と水平に銀格子の台座へと安置されていた。
弓はない。矢のみのそれを見て、ユーレンは震える声を吐き出す。
「あ、あれが神具……」
「多分」
アージェは言いながら、自分が立っている位置を確認した。
―――― あまり踏み込めば、きっと扉が閉まる。
そうなる前に、やれることはやっておいた方がいいだろう。彼はユーレンに声をかけた。
「調べたいなら今のうちに調べて。俺が進むと閉じ込められる」
「いいのですか!?」
「うん。先に言っとかないと不味いと思うから言うけど、俺、あれを壊そうと思ってるし」
言ってすぐアージェは両耳を塞ぐ。
それはまたユーレンが絶叫すると思ったからなのだが、当の男は予想外なことに大きく溜息をついただけだった。
驚いて手を下ろす青年に、彼は淋しげな微笑を向ける。
「そんな顔をしないでください。私でも分かっているんです。神具を世に出してはいけないと―― 」
「……ああ」
歴史上、「神具」と言われるものが表に出たことは、極少数ではあるが確かにある。
だがそのどれもが、結果として戦乱を更に拡大させ、時代を混迷させることしか出来なかったのだ。
それを知るユーレンは、学究心とは別に、神具を表舞台に上げてはいけないと分かっているのだろう。
口惜しさを滲ませながらも、仕方のないことと割り切ろうとする彼は、大陸の現状に落胆しているようにも見えた。
彼はアージェの視線に気付いて苦笑すると、三本の矢を見やる。
「私は中に入っても大丈夫なんですか?」
「俺が動かなきゃ多分。前にもそれは出来たし」
「分かりました。ご厚意に甘えます」
ユーレンは軽く頭を下げると、様子を窺いながら祭壇へと向かった。リィアは彼を守る為にだろう、その後に続く。
アージェはその場に残りながら、開いたままの扉を振り返った。
―――― 遺跡に入ってからここに至るまで、何処にも黒い澱は見えない。
それはこの場所が神の領域に近いがゆえのことだろう。
青年は不意に、カタリナから聞いた話を思い出す。
『戦いでの殺人は神に祝福されている』
だからそうでない殺人には、黒い靄がまとわりつくのではないかと。
しかし澱は、世界の下層に広がっているものなのだ。何処にでもある。ただ見えないだけで。
コデュは「訓練すればもっと多くが見える」と言っていた。
それが何処にでもある澱を目に出来るということならば、元々見えていた靄と見えなかった靄の違いは何処にあるのだろうか。
そこにはたして神の選別は働いているのか。もしあるとしたらそれは――――
アージェの思考はまとまらず、ばらばらに散って何の結論も出せない。
それはまるで頭の中で幾つもの呟きが並行しているようで、しかしその中の一つが「あの時カタリナは何かを言いかけていた」と囁いた。アージェの意識は過去の一点へと止まる。
澱と神の祝福について話題になった時、彼女の話はよくよく思い出してみれば途中で遮られたのだ。
アージェはその切れ端を記憶の中から手繰り寄せる。
「あの時は確か……西の大陸の、口伝……についてだったか?」
聞いた話であれば印象も強いのだが、聞かなかった話であるだけにどうにもよく思い出せない。
ユーレンに聞いてみれば心当たりがあるのだろうか。アージェが首を捻った時、だが背後で荒々しい物音がした。
振り返ると何度か遭遇した灰色の獣が三匹、壁画の彫られた前の扉をくぐりぬけようとしている。
今はお互いの巨体がつかえて上手く入って来られないようだが、様子を見るだにアージェのいる部屋までやって来るのも時間の問題だろう。
アージェは舌打ちして投擲用の短剣を抜いた。それを一匹の顔目掛けて投じる。
急所である鼻を狙った短剣は、しかし獣の顔に突き刺さる直前、大きく開かれた口の中へと吸い込まれた。
がりがりと鋼を噛み砕く音に、さすがにアージェも唖然とする。
「ちょっと不味いか?」
今までは狭い通路で一匹ずつ相手取っていたからこそ捌けていたが、ある程度広さのある部屋で三匹同時にかかってこられたのなら、どうなるか分からない。
アージェは祭壇の方を振り返った。神具を調べるのに夢中のユーレンはともかく、リィアはすぐに事態に気付いたらしい。扉を歪ませんばかりに入ってこようとしている獣を嫌そうに見やる。
「どうする?」
「その矢、取り外せるのか?」
「無理みたい」
「やっぱりそうか。まぁ仕方ないよな……」
獣は今にも扉を抜けて彼らの方へと向かってきそうである。アージェはもう一度祭壇を振り返ると決意を固めた。二人に向かって叫ぶ。
「閉めるぞ! 祭壇から離れろ!」
「分かった」
つかえていた獣たちのうち、ついに一匹が他の二匹の膝下をすりぬけることに成功する。
獣は四つ足で床を蹴ると、恐ろしい速度で真っ直ぐアージェへと向かってきた。
伸ばされた腕。鋭い爪が頭を薙ごうとするのを、青年は後ろに跳んで避ける。
部屋の中へと踏み入った継承者の存在。挑戦者となる彼に反応して、石扉が自動的に閉まり始めた。それはたちまち獣の上体を挟み込むと、閉まる速度をまったく変えることなく、ついにぴったりと出入り口を塞ぐ。
甲高い絶叫、肉の潰れる音に続いて、切断された獣の上半身が床に落ちると、リィアがげっそりした顔になった。
「焼いていい?」
「密室でそれはちょっとな……」
血の異臭や醜悪な死体が気になるのは分かるが、下手をしたら煙に巻かれかねない。
首を横に振るアージェは、しかし火がついていないにもかかわらず部屋の中に立ち上り始める白い煙を見つけると、表情を変え二人に手を振った。
「来るぞ! こっち、後ろに下がってろ!」
鋭い声に呼ばれて、リィアはユーレンを引き摺った。そのまま二人はアージェの斜め後方、部屋の隅へと退避する。
その間に白い煙はゆっくりと集まり、やがて一つの人型となった。
ディズヴィウェルドよりも細身な体。その人物は、だが肩幅などを見るだに男性らしい。
顔はやはりぼんやりとした作りでよく分からないが、紡がれた声は確かに男のものだった。
人型は剣を携えたアージェへと語りかける。
「継承者よ」
柔らかな声音。それはしかし、戦闘が起こらないということを意味するわけではないだろう。
アージェは右手の剣よりも左手に意識をやりながら、人型を見返した。
「お前も王だったのか?」
「否。わたしはただの戦士であった。―――― 呪われし継承者よ。何ゆえお前はここに参った」
「大体成り行き」
「お前を待つものは吊り合わない試練だ」
「分かってる。俺は何も継げない。それでいい」

―――― もしこの部屋にアリスティドが至っていたのなら。
その時あの男は試練に打ち勝って、神具を持ち出せていたのだろうか。
アージェはそのようなことをふと考えた。自然と口元が皮肉に歪む。
青年は抜いていた長剣を鞘に戻すと、それを鞘ごと床に置いた。代わりに左手から剣を生む。
「ディスヴィウェルドには敵わなかったからな……親父さんがいなきゃ殺されてた」
「随分と懐かしい名だ。昨日のことのように思い出す」
「あんたにも記憶ってあるのか」
いささか驚いてアージェは声を上げたが、ダニエ・カーラを思い出すに、残滓たちにも多かれ少なかれ記憶があるのだろう。
白い人型はまるで苦笑したように見えた。
「記憶はある。増えることはない。減ることもない。全てが残された時のままだ」
「……残された時、とはいつのことですか? 戦士メルサルスよ」
「私の名を知っているのか」
人型とアージェのやり取りを、今まで愕然とした顔で見ていたユーレン。その彼がようやく我に返って口を開くと、人型は意外そうな声をあげた。
ユーレンは返答を待つことももどかしいかのように言葉を重ねる。
「ま、まさかこのような形で選出者の方々が残されているとは思いませんでした。
 一体何故、どのような力でこんなことが……」
「神がそれを望まれた。それだけのことだ」
「ディテル神があなたがたを神具の守護者として残したということですか?」
神の名を出しての問い。それを聞いたメルサルスには、僅かな空白が訪れたようにも見えた。
しかし人型は、その空白を忘れさせるほどさらりと答を返す。
「変わらぬものでなければ信用がおけなかったのだろう」
「それはどういう―― 」
「大した話ではない。それに、わたしは言葉を弄す為に残されているわけではないのだ、継承者よ。
 さぁ、構えるがいい。覚悟は出来たか?」
「出来てるよ」
アージェは左手の剣を上げてみせる。背後でリィアの詠唱する声が聞こえた。
メルサルスは青年の黒く染まった手を見やる。
「まさかもう一度、クレメンシェトラの騎士に相見えるとは思わなかった」
「俺もまたこういうことになるとは思わなかったよ。悪いけど、神具は壊させてもらう」
あっさりとアージェがそう宣言すると、メルサルスは小さく頷いた。単なる窪みでしかない両眼が彼を見つめる。
「お前の力が及ぶのなら、それもよいだろう。
 あの方がいなくなれば―――― お前たちはいつか、そのような選択をすると思っていた」
「…………」
お前たちとは、誰と誰のことを指しているのか、アージェは一瞬聞きたい誘惑に駆られたが、それについては答えてもらえないような気がした。
言葉を弄す機会ではないと、メルサルス自身が言っているのだ。
ならば問うても仕方がないであろうし、それを承知で問うてしまえば、アージェ自身がひどく神代に捕らわれていると示すかのようである。
青年は息を整え剣を構えた。リィアの詠唱が終わり、部屋の中に静寂が訪れる。
メルサルスは自身の両手を見つめると、その中に純白に光る短弓を生み出した。
うねるような曲線を持つ弓。その弦に短い矢を番えて、人型はアージェに向かう。
無言の時。
張り詰めた空気。
神具を背にしたメルサルスは挑戦者に向かい、嚆矢となる矢を放った。