記されぬ時 109

胸を狙って射られた矢。それをアージェは、放たれた瞬間横に跳んで避けた。
白い光で出来た矢は、部屋の壁に当たるとそのまま四散する。
青年はメルサルスが手の中に新たな矢を生み出す様を見ながら、どう戦うべきか思考を巡らせた。
―――― 相手が弓を使うということは、壁画などから予想は出来ていたことだが、実際見ると驚きを伴う。
アージェも傭兵になってから多くの人間と剣を交えたが、さすがに弓だけを携えた人間と近距離戦をした経験はない。
気にせず間合いを詰めて戦ってもいいものかどうか、彼は少し様子を見ようと考えた。
アージェは床を蹴り、続く第二射を避ける。左手の黒い剣を一瞥した。
以前ディスヴィウェルドと戦った時、アージェの剣は相手に傷を与えながら、だが押し負けて少しずつ溶け消えていったのだ。
あれははたして彼自身の未熟さのゆえであったのか、それとも澱は神の力には叶わないのか―――― そのようなことを考えながら、アージェは剣を形成する意識をより集中させた。出来るなら前者であればいいと願う。
体の右脇を通り過ぎていく矢。
メルサルスの射る矢は速く、狙いは正確だ。
だがそれもある程度距離を取っている今ならば、射られた瞬間に避ければ間に合う。
しかし避けられるからといって、いつまでもそうしているわけにはいかないだろう。
アージェは矢が切れることなどあるはずもないメルサルスを慎重に観察した。
神代には戦士であったという彼は、何の感情も見せず淡々とアージェを狙って矢を射ている。
しかしその攻勢は、前触れなしに突如変化した。部屋の角からリィアの声が飛ぶ。
「アージェ、後ろ!」
「へ?」
怪訝な声をあげながらも、だが彼は何かを感じてその場から横へと飛び退いた。と同時に、顔のすぐ横を白い矢が行過ぎていく。
アージェは咄嗟に背後を振り返った。そこには何もない。ただ少し蒼ざめたリィアと目が合う。
「ひょっとして……矢が返ってくるのか?」
口の中の呟きに肯定は為されなかったが、アージェはそこで呆然と静止してしまうことはしなかった。メルサルスに視線を戻すと次の矢を避ける。そして今度は、間髪入れず弓を構えた戦士へと向かった。身を屈め一息で間合いに飛び込むと、下から上へと斜めに斬り払う。メルサルスは黒い刃を己の弓で受けた。
「気をつけてください!」
警告の声はユーレンのものだ。
しかしアージェはその言葉に関係なく、背筋のぞっとするような感覚を覚え、メルサルスの弓を見る。
捻れるようにうねりながらも湾曲している弓幹。あちこちにささくれのような突起があるその中ほどに、彼の黒い剣が打ち込まれている。
白と黒、二つの武器のぶつかりあっている箇所から、二色の細い煙が立ち昇った。
一旦剣を引くべきかアージェが迷った刹那、しかし彼は左手首を捻られる。思わず剣を揺らがせそうになった青年は、何故そのようなことになったかを理解して驚きの声を上げた。
「な……何だそれ!」
弓幹のあちこちにある枝状の突起。そこにメルサルスは、アージェの剣を引っ掛け巻き込んだのだ。
青年は慌てて下がりつつ、剣を生成する意識を集中しなおす。背後からユーレンの声が補足した。
「メルサルスは弓を剣と同様に扱ったと言われています。何でも弓幹の上部には刃が取り付けられていたとか……」
「…………意味分かんね」
思わずぼやいてしまったものの、要するに近接戦に持ち込んだとしても、一方的な有利が得られるわけではないということだろう。
アージェはどのような動きをするのか、まったく読めない弓を見やった。
その僅かな間に、メルサルスは至近距離で矢を番えようとする。
「ちょ……! さすがにそれは!」
焦りも顕にアージェは剣を振るった。メルサルスはそれを弓で受ける。
金属同士がぶつかるに似た高い音。番えられかけていた矢は彼の手の中で消失した。
アージェは黒い剣を握る両手に力を込めながら、二色の煙を睨む。

かつて彼がディスヴィウェルドと相対した時、異能で作った剣は王の白い剣を受けることが出来なかった。
持ち主の力の差のせいか、アージェの黒い刃は白い剣によって危うく切り落とされるところだったのである。
しかし今、彼が成長した為か否か、二つの武器は拮抗状態を保っていられるようだった。
アージェは剣士を相手にする時と同様の心構えを決めると、己の剣を振るう。弓の突起に捕まらぬように打ち込みつつ、メルサルス自身を狙った。
しかしその剣は、白い弓によって防がれる。
一瞬も気を抜くことの出来ない応酬。アージェは半ば無心に剣を打ち込みながら、だが「このままでは後がない」ということをも計算していた。
武器同士がぶつかりあう際に音と共に上がる煙は、彼の剣を消耗している印なのだ。同じことを続けていては、剣の長さが短くなってしまう。
そして一度そうなってしまえば、もうメルサルスに勝つことは出来なくなるだろう。アージェの扱える澱は、左腕に取り込んである分だけだ。
彼は間断なく攻撃の雨を降らせながら、一歩前進する為の方策を考える。視界の隅に神具である三本の矢が見えた。
―――― ディスヴィウェルドと戦った時には、ダルトンやルトがいた。
だからアージェは、彼らに人型を任せ、神具を壊すという選択肢が選べたのだ。
しかし今回は、アージェ以外にメルサルスを相手取れる人間はいない。
怪我などをすればリィアが助けとなってくれるだろうが、基本的には彼が一人で何とかしなければならないと思った方がいいだろう。
ダニエ・カーラを呼び出すことは出来るが、彼女を呼び出せばその分剣に回せる澱が減るだけだ。
アージェは防がれるばかりの攻勢をしかけつつ、溜息をつきたい気分で呟く。
「選出者ってのはみんなこんな厄介な人間ばっかだったのかよ」
神に選ばれた人間たちというのは、きっとそれなりに理由があり強い者が選ばれたのだろうが、アージェから見ればそれは傍迷惑なだけである。
一旦剣を引いて距離を取る青年に、メルサルスは静穏な声で返した。
「弓ならば誰にも劣らないと自負している。―――― だが、剣でわたしよりも強い者は多くいた」
「あんま嬉しくない話だな、それ」
「もっとも強かった者はお前の祖だ、継承者よ」
「カルディアスが?」
軽く驚いてアージェは首を傾いだ。
白い人型の表情はよく分からない。だがその声音には記憶の中の影を懐かしむ響きがあった。
アージェはその響きに違和感を覚えてメルサルスを見返す。
―――― カルディアスは、名前を消された選出者だ。そしてその継承者は「呪われている」。
だが少なくとも、メルサルスの声からはカルディアスへの敵意は感じられない。
これははたして、カルディアスが女皇の騎士であったことと関係しているのだろうか。
そのようなことを考えながらも、アージェはまた別のことを考え、そして体を動かしていた。メルサルスが矢を生み出したその瞬間を狙って、大きく踏み込む。同時に白い胴体目掛けて鋭く剣を突いた。
黒い刃は、それを留めようとする弓幹の脇を風の速度ですり抜ける。そのままメルサルスの腹部に深々と埋まった。
呻き声はない。だが人であれば致命傷と言って差し支えない一撃だろう。アージェは背後へと叫ぶ。
「リィア! ログロキアの広場でやった奴!」
「急に言わないでよ!」
即座に返ってきたものは苦情であったが、すぐに詠唱が続いた。
アージェは黒い剣を白い体の中に捻じ込む。傷口から立ち昇る煙が、事態を一層非現実的なものに見せていた。
青年は、メルサルスの垂れた腕と握られる弓から目を逸らさぬまま左手に力を込める。白い人型は一度だけ体を大きく痙攣させた。
「継承者、よ……」
「さすがに得物が弓って奴に剣で負けるわけにいかないからな」
手の中の剣がじりじりと削られていく感触に焦りを覚えながら、アージェは平然と嘯く。
詠唱はまだ終わっていない。彼はリィアを急かしたくなる気持ちを飲み込んだ。
自身の血が流れる鼓動。どくどくとした音だけが満たす耳奥を、静かな声が叩く。
「だが、足りぬ」
「……っ!」
反射的に剣を消し、アージェは後ろへ飛び退く。鼻先すれすれを白い弓幹が薙いだ。
態勢を崩しかけた彼は、腰を落とし床に右手をつく。
「リィア!」
「分かってるって!」
無茶を言っている自覚は彼にもあったが、リィアは「出来ない」とは言わなかった。
ならば彼女はやってのけるのだろう。
その自信を証明すべく、何かの重みに耐えているような声が、それでも強い戦意を伴って部屋に響く。
「私だって―――― 二年遊んでたわけじゃないっての!」
部屋中に溢れる赤い光。
いつかも見た赤熱の糸が床のあちこちから現出し、複雑な網となってメルサルスに襲い掛かった。
網はまたたくまに白い人型に覆い被ると、その存在を圧していく。
赤熱の触れた場所から上がる白い煙に、アージェは軽く目を瞠った。
「何だ、魔法は効くのか」
「アージェ!」
「はいよ」
与えられた時間はきっと少ない。
彼は再び剣を作り直すと、短剣ほどの長さになったそれを携え床を蹴る。
狙う場所は頭か心臓か。だが彼の体は迷わなかった。アージェは左手を大きく振り上げる。

選出者の胸へと向かう刃。
矢の如き速度で振るったそれを―――― けれど青年は、ぎりぎりで逸らした。
心臓よりも掌一つ分右に刺さる剣。アージェはきつく歯軋りする。神に選ばれし戦士は穏やかに評した。
「命を拾ったか」
「……く、そ」
手の中の剣が、集中を失い霧散する。
アージェの左腕にはその時、白い矢が深々と半ば近くまで貫通していた。



白い武器に深い怪我を負わされることは初めてであったが、それは明らかに普通の傷と違って眩暈を伴う消耗をアージェにもたらした。
メルサルスの握る矢に気付き、心臓を貫かれる直前でその狙いを逸らした青年は、その場に腰を落として矢から腕を引き抜く。
まるで崩れ落ちたような態勢。だが彼は床に右手をつくと、メルサルスの追撃を避けて後ろに跳んだ。
同時にリィアが限界を迎えたのか、赤熱の網も部屋から消え去る。アージェは背を冷や汗が滑っていくのを感じた。
「あーあ……」
左腕の傷は大きくはないが、妙に体内の気分が悪い。
本来であれば激痛を耐えなければならないのだろうアージェは、むしろこの気分の悪さに苛まれ呻いた。
彼は先程の攻撃で大分減じてしまった「黒」を見下ろす。
―――― 負けたくはない。二年もの間、ひたすらに剣を振るってきたのだ。それが届かないままだとは思いたくない。
だが、もっと大事なことは「死なせたくない」ということだ。アージェは乱れた呼吸を整えようとする。
「やり方を変える、か?」
試練に打ち勝つことではなく、どうやってこの部屋を出るかに重点をおいて動く―――― けれどそれには、有効な手段が足りない。彼は必死で頭を働かせた。
その時、背後で何かの軋む音が聞こえる。
一体何が動いているのか。考えずとも答は一つしかない。アージェはリィアたちが目を丸くして自分の背後を注視しているのに気付いた。彼自身も、メルサルスから意識を外さぬまま横目で後ろを見やる。
そこにあるものは切断された獣の上半身であり、ゆっくりと開いていく扉であった。
扉の向こうに立っている男が、場に不釣合いな明るい声を上げる。
「エル! お化けがいるぞ!」
「そのようなものは存在いたしません」
―――― 忘れようと思っても忘れられない能天気さ。
アージェは自身を襲う眩暈とは別に妙な脱力感を覚えながら、しかしこの時初めてアリスティドの存在を歓迎したのである。